無職とは、死ぬことと見つけたり
はじめに
こんにちは。僕はフミコフミオ。昨年末、思いつきで会社を辞めて、現在、家族からの冷たい視線に耐えつつアルバイト生活を続けている、いわば日陰者である。
あまり舞台裏について書くのは好きではないが、この拙文は、「《無職をマネジメントする》というテーマで一筆書いてもらいたい」という無慈悲な依頼を受けて書かれたものである。依頼を受けたときは、ずいぶんと乱暴な依頼をする人がいるものだ、親の顔を見てみたい、誠意って何かね、と憤ったものである。関西人なら、イキってんなー、とでも言うのだろうか。
きわめて楽観的な見通しのもと、何も考えず、誰にも相談もせず、関係各位にはすべて事後報告で会社を辞めてしまった僕に、「マネジメントについて語れ」というのは、嫌がらせか罰ゲームとしか思えない。いや、実際そうなのだろう。本来ならお断りするべき話であるが、妻や母を代表とする一族郎党からの「生ビールばかり飲んでいないで少しは働いて来い!」という筆舌に尽くしがたい重圧により、泣く泣くお受けすることになった。正直にいって、金のためである。無職を「働いていない人+金を稼いでいない人」と定義するならば、この拙文を書いている時点で、厳密な無職ではないことを正直に打ち明けてから、マネジメントという大層なものではなく、無職をどうサバイブすればいいのかについてお話させていただきたい。僕は正直者なのだ。
無職とは何か
さて、皆さんは「無職とは何か」という問いに対してどのような答をお持ちだろうか。働いていない人、収入がない人、反社会的人物…。会社員として働いているとき、僕は、フリーター、ニート、無職、名称は何であれ、何の理由もなく、ただ何となく仕事をしていない人たちを心の底からバカにしていた。乱暴にまとめてしまうと当時の僕が無職に抱いていたイメージは「意図的に怠けているダメ人間」。それ以外の何者でもないと考えていた。居酒屋で同僚たちと「無職の無は虚無の無。無駄死の無。会社員はプロ―ジット!(勝利)」といって得意満面に中ジョッキを傾けたものだ。
自分が無職に転落してみてわかったのは、無職に転落した人間のほとんどは、やはり何の考えもなく、あるいは都合のいい考え方をしている、意図的に怠けているダメ人間が多いということだ。現在の僕が明るいうちからハロワへも行かずに生ビールを飲んでいるように…。しかも無職は自由だ。どこにも所属していない無職には、経済面をのぞけば制約や制限はほとんど何もない。どこまでも自由なのだ。
人間とは本来自由でなければならない。日本国憲法にもそんなことが定められていたような気がするし、世界人権宣言にも「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」と定められているように…。こんな話の展開をしていると、「無職のうちは自由なのだから、会社員には出来ない創造的な生き方ができる」というポジティブな考え方をして、無職を前向きに生きよう的な話につながっていくのが普通だと思われるが、僕はそんな無責任なことは言いたくない。いや、無責任な生き方をしているが無責任にも責任を持ちたいのだ。そういう無責任なポジティブシンキングが無職を無職たりえているのではないかと僕は思うのだ。
自由は堕落の神であり、制約や制限こそが創造の神であると僕は思う。たとえば低機能のファミコンゲームの方が最新ゲーム機のゲームよりもアイデアにあふれて面白いものがあるように、ある程度の制約や制限があったほうが、人間というのは努力や創意工夫をするものである。無職はスーパーマリオの母にはなれない。ありもしない、または、現実的に手が届きそうもない希望について語るのではなく、すぐそばにある絶望や危機について語ることが僕は大事だと考えている。
無職とは社会的な死
僕は、無職とは何かと訊かれたら、社会的な死と答えるようにしている。そして無職という名の絶望について語ろうと思う。無職、そこに希望は何一つない。もっとも悪いのはニートやフリーターという言葉にあるポジティブなニュアンスである。社会的な死は社会的な死でしかない。その事実を隠すのはフェアではない。
大事なことは社会的な死を受け入れること。もし、この文章を読んでいる人の中に、己の意思に反して無職になってしまった不幸な人がいて、まだ会社員時代に出来ないようなことをやろう的なポジティブな受け止め方をする人がいるのなら、その前に、徹底的に自分はダメだ、自分はすでに死んでいると思ってほしい。「底」を意識して欲しい。そこから戦いが始まるのだ。決死の覚悟というフレーズがあるように、死を覚悟していれば何も恐れることはない。自由ではなく、決死の覚悟。それこそが無職の最大にして唯一の武器なのだ。その武器を片手に来るべきに備えようではないか。
無職との付き合い方
「僕は無職だ。社会的に死んでいる。だが何も恐れるものはない!」と野生の無職が覚悟を決めたところで、悲しいかな、世の中の理解は得られない。履歴書を書いたり、ハロワに通ったり、合同面接会場に足を運んだり、目に見える求職活動をしないかぎり、家族や知り合い、世間は誰も納得してくれない。厳しいけれどそれが現実。だが、冷静に考えてみて、毎日面接を受ける機会があるだろうか、履歴書を一日一枚ずつ書くことに意味があるだろうか。ない。断じてない。
覚悟を決めて来るべき決戦(面接)に備えているというのに、無職というだけで、白い目で見られてしまうのだ。「自分はちゃんとやっているのに《無職》というだけで非人間的な扱いを受けてしまう…。白い目で見られてしまう。理不尽だ。もう耐えられない。死のう」といって精神的に弱い人は心が壊れてしまうかもしれない。そこで重要になるのは無職、無職状態との付き合い方。いいかえればそれは世間体との戦争なのである。人間は外見で判断する生き物。それならば無職と一目にわからない格好をすればいい。くだらないことに思えるかもしれないけれども、一般的に、外見は重要なものらしい。
僕は、会社を辞めた直後、外出するときはお気に入りの上下ユニクロのスウエット(エンジ色)に、足下はビーチサンダルで、バッチリ、キメテいたのだけれども、世間体を気にする一族郎党から、お願いだから、「いかにも無職」って格好をしないで欲しいと注意されてしまった。それ以来、会社員時代と同じようにスーツを着て毎日生活している。世間体を気にする一族郎党どもの怒りは収まった。どうやら、スーツでゴミ出しをする姿、スーツでコンビニに買い物する姿、僕がそういうキテレツな姿を晒していても気にならないものらしい。世間体が守れればいい。そういうものらしい。
なんてくだらないのだろうか。そう。この社会は、実に、くだらない。僕らが生活している社会というのは案外、くだらないもので構成されていて、見た目だけ反社会的でなければ許されてしまうことも多いのだ。結論からいって、くだらない社会から無職を理由に笑われようとどうでもいい。社会を鼻で笑うくらいの気持ちでいればいいのだ。
まとめ
無職マネジメント、無職との付き合い方をテーマに書いてきて、身も蓋もない言い方になってしまうが、無職をマネジメントする方法は人それぞれで、自分の手で試行錯誤しながら見つけていくしかない。無職は自由などではなく、社会的に死んでいることを自覚すること。社会を笑い飛ばすくらいの強い気持ちを持って生きること。僕が無職生活で学んだ無職との付き合い方、無職マネジメントはそれくらいのことしかない。
「無職には希望はない。あるのは絶望だけ」と繰り返してきて、手のひらを返すようでアレだけれど、無職だからといって絶望しすぎることもないのである。時間は誰にとっても有限で貴重なものだ。無職だからといって自分に与えられた時間を無駄に使ってはならない。
武士の教科書的なものに「葉隠」がある。「葉隠」においては、武士道とは死ぬことと見つけたり、とされている。そのフレーズにはいろいろな解釈はあるけれど僕は、人生を無駄に生きるな、と解釈している。無職も武士道と一緒だ。「無職を無駄に生きるな」この拙文を通じて僕が言いたかったことはこのフレーズに集約される。こんな拙文を読んで、貴重な人生の時間を無駄に費やしている皆様は要注意なのである。さあ、頑張って生きよう。
<了>
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海辺の町でロックンロールを叫ぶ不惑の元会社員です。90年代末からWeb日記で恥を綴り続けて15年、現在の主戦場ははてなブログ。最近は諸行無常を嘆く日々。更新はおっさんの不整脈並みに不定期。でも、それがロックってもんだろう?ピース! ツイッター:https://twitter.com/Delete_All