のび太系男子培養装置としての「コロコロコミック」
ここまで少々茶化し気味にのび太とドラえもんのホモソーエピソードを追ってみたが、現実世界においてホモソー自体は特に珍しいものではない。一般的な成人男性は、彼女や妻とちょっといいイタリアンレストランで世間話をしている時より、激安居酒屋で高校時代の野郎友達と中学生並みの下ネタに興じている時のほうが、ずっと表情が生き生きしている。
彼女や妻と話題のバルに行くよりも、男友達と野球かサッカー観戦に行ってビールをあおりたいし、カップルのハワイ旅行よりも同性の親友たちとの野宿に魅力を感じてしまう。それが男という生き物だ。
のび太系男子の年齢を考慮しつつ理想的ホモソーの究極を言うなら、それは映画『スタンド・バイ・ミー』(1986年 米/監督:ロブ・ライナー)に登場する少年4人組であろう。彼らは線路を歩いて冒険の旅に出、野宿をして語り合う。実際、ティーンエイジャー時分に『スタンド・バイ・ミー』に憧れたアラフォーは少なくない。かくいう筆者も、高校時代に友人と青春18きっぷで鈍行列車の旅に出て、広島の無人駅から線路を歩くという黒歴史くらいは人並みに抱えている。
ちなみに、2014年に公開され大ヒットしたドラえもんのCG映画は『STAND BY ME(スタンド・バイ・ミー)ドラえもん』。タイトルからしてのび太系男子世代ホイホイだ。「STAND BY ME(僕から離れないで)」部分から醸されるホモソー感も、ド直球ではないか。
ただし、人としての成熟が進めば進むほど、男のホモソー的な行動は—少なくとも外見的には—減ってゆく。伴侶や家族ができ、社会的な立場が確立されていくと、ホモソーを発揮できる場所や時間が物理的に少しずつ失われていくからだ。
彼女ができれば、土日のどちらかは男友達ではなく彼女に明け渡さなければならない。妻子のいる立場で土曜に夜通し中学の同級生とは飲めないし、徹夜で『エヴァ』や『ラブライブ!』の劇場公開初日に並ぶことも不可能だ。男にとっての人間的成熟とは、自分のなかに巣食うホモソー欲を、社会的な要請によって組み伏せる覚悟を決めることである。
逆に言えば、あけっぴろげなホモソーは男性の人間的未成熟の証とも言える。年齢的に当然と言えば当然だが、中学生である『新世紀エヴァンゲリオン』のシンジも、小学生ののび太も、絵に描いたように未成熟である。
そんなふたりの「ザ・未成熟少年」に心情を寄せるのび太系男子(こちらは大人)も、当然ホモソー全開である。アラフォーのおっさんがのび太とドラえもんの強い絆に号泣し、これを理想の同性友情関係だと絶賛していることからも、それは明らかだ。
また、その感性は大抵「異性との桃色話より、同性との趣味話のほうが快適」とセットだ。齢40に至っても、彼女とのデートより男子同士の趣味トークのほうが楽しいと感じ、それに開き直ってしまう感性。これを人間的未成熟と言わずして何と言おう。
この背景として、1977年に創刊された男児向けコミック&ホビー誌「コロコロコミック」(小学館)の存在も大きいとみる。同誌は昔も今も「小学生男子のバイブル」として絶大な影響力を持っているが、もともとは、学年誌で『ドラえもん』を読んでいた小学生たちが、当該年次以外の学年誌に掲載されている、自分が読んでいない『ドラえもん』をまとめて読める受け皿として創刊された。
かつてFの担当編集者だった平山隆氏によれば、「コロコロコミック」創刊当時の売りは「大人気の『ドラえもん』が200ページも読める」といったもの(『藤子・F・不二雄大全集 ドラえもん 20』解説より)。1990年代前半までは、『ドラえもん』及び藤子不二雄(1987年までは現・藤子不二雄との共同ペンネーム)作品が毎号相応のボリュームで掲載されていた。1980年以降の同誌は、大長編ドラえもんの原作連載媒体としてもよく知られている。
つまり1977年の創刊から少なくとも『ドラえもん』絶頂期の1980年代くらいまで、「コロコロコミック」は『ドラえもん』好き男児御用達のオフィシャルファンブックのような存在だった。「1980年代のコロコロ読者」と言えば、現在30〜40歳の男性。のび太系男子の中心層と一致する。
そして、同誌が掲載するマンガ作品に共通する二大テーゼが、「少年同士の熱い友情」と「男の子のホビー」である(当時のトレンドホビーとしては、プラモデル、チョロQ、ラジコン、ミニ四駆、ファミコンなど)。筆者の印象では、その二要素が特に色濃く連載作に打ち出されていたのは1980年代。言うまでもなく、「少年同士の熱い友情」はホモソーの温床に、「男の子のホビー」は「いい年こいてノスタルジックなサブカル趣味」の温床となった。
「コロコロコミック」は、のび太系男子培養装置だったのだ。
『新世紀エヴァンゲリオン』においてカヲルの存在は、シンジの自我や彼を取り巻く世界を崩壊に導くスイッチとなってしまった。ドラえもんにべったりだったのび太は、うだつの上がらない凡庸な大人として、少年のび太に愚痴るようなつまらない人間になってしまった(てんコミ16巻「りっぱなパパになるぞ!」)。第3章の江川達也の主張(P.58)を再度引くなら、カヲルやドラえもんこそ「人の欲望を際限なく肥大化させる」諸悪の根源だ。
のび太という存在に癒され、シンジという存在に自己投影し、快適なホモソーとノスタルジックなサブカル趣味への執着をやめない未成熟なのび太系男子(という名のおじさん達)の闇は、限りなく深い。
こんなデータがある。国立社会保障・人口問題研究所が2015年に行った「第15回出生動向基本調査」によれば、のび太系男子ど真ん中である15年時点の「35歳〜39歳男性」の未婚者童貞率は、26.0パーセント。実に4人に1人以上が童貞だった。
「りっぱなパパになるぞ!」では、25年後の妻子持ちの大人のび太が、相変わらずうだつの上がらない人間であることが示された。しかし多くののび太系男子は、「りっぱ」どころか「パパ」になることすら難しいのかもしれない。
ハリウッド映画の「のび太系男子」
ここからは余談がてら。
のび太系男子を「未成熟な中年男性(の開き直り状態)」「少年の心を持ち続ける(迷惑な)中年男性」と広域定義するならば、これにピッタリのキャラクターが、2015年公開の2本のハリウッド映画に登場した。宇宙を舞台にしたSF大作『インターステラー』(監督:クリストファー・ノーラン)と、SFアドベンチャー『トゥモローランド』(監督:ブラッド・バード)である。
『インターステラー』の主人公は、見た目40歳オーバーの元宇宙飛行士クーパー(マシュー・マコノヒー)。彼は文明の進歩を諦めた人類の冷え込みムードを一切汲まず(要は空気を読まず)、「宇宙スゲー、人類の叡智と技術スゲー」と少年の心を全開フルスロットルした結果、地域社会から浮きまくる。いい年こいて、素直に自分の欲求を吐き出し、「ありのまま」の自分を全肯定する—これは完全にのび太系男子の要件だ。
『トゥモローランド』では、少年時代から精神性がまったく成長していない中年、というより初老の男フランク(ジョージ・クルーニー)が主人公。フランクは少年時代の美少女ガールフレンド(実はロボット)に対し、数十年たってもいまだに恨み言を吐く矮小な男である。ここには前出のてんコミ21巻「いばり屋のび太」に相通ずるトホホ感が漂っており、味わい深い。
ポイントは、ノーランもバードも、この精神的童貞オジサンたちを作中で「好ましき者」として描いていることだ。実際、ふたりは大長編ドラえもんののび太のように物語内で大活躍し、人類を救う。そして、Fが欠陥人格ののび太を「それもまた善し」として罰を与えないのと同様、両監督も「中年男性に潜む少年性」を皮肉なしで善き者扱いしているのである。
ハリウッドをきっかけに、のび太系男子トレンドが日本だけでなく世界的ムーヴメントになったらそれはそれで面白いのだが、ここではドラえもんがのび太に放った有名な暴言を紹介しておこう。
「日本じゅうがきみのレベルに落ちたら、この国は終わりだぞ!!」 (「ハンディキャップ」てんコミ39巻/「小学四年生」86年5月号掲載)
ちなみに、これは「藤子・F・不二雄大全集」版のセリフだが、筆者所有のてんコミ版では、後半のセリフが「この世のおわりだぞ!!」となっている。いずれにせよ、のび太系男子を輸出するのは、世界にとって得策ではないようだ。
なお、「ハンディキャップ」とはヘルメットタイプの道具の名称で、かぶると周囲の人が全員、かぶっている人と同じ能力になる—というもの。のび太は自分だけが劣等生なのは嫌だからと、まわりを自分と同じように愚鈍化することでコンプレックス解消を狙おうとするのだ。引用したドラえもんの言葉は、ハンディキャップの効力範囲を日本中に広げようとするのび太に対するドラえもんの一言である。
しかし、「みんなが〝同じ〟、だから幸せ」という思想には、「個体であることを捨てて、人類全体が一つになる」ことを目的とする『エヴァ』の「人類補完計画」臭が、うっすら漂っていなくもない。異質間の衝突よりも、同質間の連帯に快感と安寧を求め、浸る。それを人はホモソーと呼ぶのだ。
※次回からついに、しずかとジャイ子というふたりのファム・ファタールについて語ります。