今回は「ほぼ嘘とわかっているけど、なぜか広く受け入れられている」ものを取り上げてみよう。
ずばり「水からの伝言」だ。ネタが古いけど、未だにやってる学校もあるとか何とか。
水からの伝言
水からの伝言とは、簡単に言えば次のような主張ね。
「シャーレに入れた水Aと水Bを冷凍庫に入れた。Aには適度に『ありがとう』Bには『ばかやろう』と書いた紙をそれぞれ貼っておいた。その後凍らせたところ、Aはきれいな結晶が、Bは汚い結晶ができた。
人間の身体の数十%は水なのだから、きれいな言葉を使おう!」
と。私の小学校ではこれが道徳の教育に使われていた。
皆さんのところではどうでしたか。
ついこの間、塾で教えていた生徒がこれを習ったみたいで、どう説明すればいいのか窮したので、こうやって記事にしてしまう。(生徒にはこのブログ教えてないから意味ないけど)
私はいちおう「そんなに物事は都合よくいかないよ」と説明したが、何だかなぁ~、と思ってしまった。
科学による「予測」
もしあなたのもとに一人の不審な男が現れて、こう言ったとしよう。
「明日、太陽は西から上ります」
でもあなたは反論できる。
「ずーっと、昔から太陽は東から上り続けている」という観察事実と、天体の運動に関する知識を組み合わせることで、「いいや、東から上るぞォ!!!」と断言できる。
科学に必要なのは2つね。観測と理論(or仮説)検証の繰り返し。
そうしてさっきみたいな、予言じみたことまで言えてしまう。
「明日運動の法則が突然変わりでもしない限り、太陽は東から上るよ」と。
これが科学の素晴らしいところ。観測と検証を繰り返すうちに、「ほぼ間違いなく正しいと言ってもよいであろう部分」が浮き上がってくるんだ。
そうして、自分が実験していないことまで「予測」することができるようになる。今までの実験結果と総合的な理論で以って仮説を立て、未知のことも推測できるんだ。
人間ってすごい。
今回の「水からの伝言」も、そんな科学的常識に照らし合わせてみれば、実験せずとも嘘だとわかってしまうようなもんなのだ。本来は。
実験方法の問題点
観測と検証を繰り返すうえで大事なのは、「観測結果が正しいか」と、「仮説の検証方法は正しいか」なんだけど、半分ぐらいのニセ科学(水からの伝言含む)はだいたいここで打ち止め。どっちかが間違ってたり、どちらも正しくなかったりする。
観測結果はまあいいとしよう。きれいな結晶が見えてるから(下手すれば結晶でさえないけど)。
まずいのは仮説の検証方法。言い換えれば実験方法か。
AのほうがBより「綺麗」と結論づけるためには、たくさんデータを取らなきゃいけない。でもこの本ではただ数十のきれいな写真を貼っつけてるだけだ。それもかなり作為的に。(本で明言されてます)
つまり、わざときれいな奴だけを選び取ってるってことだ。これはもう科学じゃないよ。別の何かだよ。
ありまぁす。
それに「綺麗」とは何かも、定義されてない。結晶の形がどれくらい理想の形からずれているかなどを数式化するなりして、客観的に「綺麗」を定義しようね。
水がことばを理解するという大胆な仮説を証明するには実験や考察があまりにお粗末なのだ。
言語から見た問題点
言語の方面からもアプローチをかけてみよう。
ありがとう のもつ意味について考えてみる。
よくよく考えてみると不思議なのは、それぞれの文字(あ り が と う)には全く意味がないのに、この5文字がこの順番でつながったときにだけ、「相手に感謝を示している」という意味になるってこと。
そしてもっと不思議なのは、誰が書いたどんな文字の「ありがとう」でも、そこに感謝の意を見出すことができる ということ。文字の形が変わっても、「ありがとう」だと判別することができる。
本来なら文脈で意味を判別するんだけど、実験では5文字しか書いてないみたい。
そんなに難しい話じゃないよ。信号機の「赤」はどこの国でも「止まれ」を意味する。それはみんなが「赤」の裏に隠されたメッセージを読み取ってるからだと説明できるね。
確かに赤を視覚情報として受け取っているんだけど、それだけじゃない。「赤=止まれ」と脳内で理解して、情報を処理して、止まらなきゃ!!って思うからなんだ。
(http://www46.tok2.com/home/echigoya/traffic_signal/sin_cs_signal.html)
だとすれば水も人間と同じアタマを備えているということになる。
文字として書かれた「ありがとう」、ただの黒鉛の集合体でしかないそれをまず視覚情報として認識し、文字とみなし、意味を見出して、「善いことば」として理解して、自分の身体に表すぐらいのアタマがあることになる。そんなのどうみたっておかしいよ。
水は知的生命体かよ。
そしてもう一つ、「いったい何が善いことばなのか」という疑問がある。
つまり、ある言語ではきれいな言葉だけどもう一つの言語では汚い言葉を見せたとき、どういう結晶を作るか、って問題。例えば"shine"。
つまり、英語では(たぶん)きれいな言葉だけど、日本語では汚い言葉になるわけで。じゃあこのとき水はどういう結晶をつくるのか?
日本の水はやっぱり日本語しか理解できないのかな。いやいやそんなはずはないだろう。英語だってドイツ語だってロシア語だって、全部理解できるはずさ。
頭いいし。
って……
水は多言語話者かよ。
他にも、「人間がいないとき、水はことばを知りえたのか」とか、「動物の鳴き声も理解できるか」とか、「宇宙人語もわかるか」みたいな疑問が出てくるわけだけど、いちいち立ち止まって検証しない。ぜーったい水は言葉なんて知らないもん。
……というかんじで、水からの科学は科学ともいえないシロモノだということがわかったわけなんだけど、これを教育に持ち込むと、また別の問題が発生する。
私が嘆いているのはむしろこっちのほうだ。実験なんて勝手にやってください。
科学を道徳で裏付ける?
皆さんもご存じのとおり、宗教にはまず原理がある。それは「物語」って呼ばれてて、まあ神話みたいなもんだ。世界がこういう風に神によってつくられました~とか、神はこういうことを嫌うからみんなしないようにね~みたいなことがあらかじめ決まってる。決まってるから論破しようがない。だから原理。
言い換えれば、「絶対的な善」がそれぞれの宗教にあって、人々はそれに則って行動することで、幸せを得ていたということだ。
残念だけど科学はそうじゃない。厳密に厳密に説明しようとすればするだけ、曖昧模糊な表現を使わざるを得なくなる。これについてはまた後日詳しく取り上げる。
ずばっと二分法は使えない。
まあ早い話、科学に善悪という価値観は持ち込めない と思ってもらっていい。「オレ、万有引力嫌いなんだよね」と言えないのと同じように。
宗教を貶しているつもりはない。宗教は宗教だと最初から判別できる限り問題はないんだけど、水からの伝言は違う。
かなり過激に言うと、水からの伝言は、科学という段ボールをかぶったまま、生徒たちに善悪の絶対的価値観をぶっ刺すようなものだと思っている。
まず科学じゃないから段ボールをかぶってる。擬態してて生徒の目には科学にしか見えない。
ソレがこう語りかけてくるんだ。「水はきれいな言葉を使えと言っている。使え。使え」と。水が「きれい」と思ったものはきれいな言葉で、「汚い」と思ったものは汚いのだから、これは善悪の絶対的価値観の押し付けに他ならないだろう。
結局生徒は、これが科学の皮を被ったエセ宗教だということにも気づかないまま、価値観を刷り込まれていることになる。
科学に善悪は本来ないはずなのに。
絶対的ではない善悪
そもそも、きれいとか汚いってのは何が決めるのか。
文脈だ。状況だ。
美辞麗句としての、ムカムカを顔に滲ませながら言われる「ありがとう」より、自分が溺れかけたとき、命をかけて助けてくれた両親が言う「ばかやろう」のほうがよほど善い言葉だと私には思われてならない。
いや、それも主観にすぎない。絶対的によい言葉などというのはこの世に存在しない。
道徳というのはそれほど簡単なものじゃない。
善悪なんてのは場面や状況によっていくらでも変化しうるからだ。
その判別の難しさを教えるのが道徳教育じゃないのか。
どうして安易に他のものに善悪の判断を任せちゃうのか。
どうも私には、生徒に絶対的な善悪観を押し付けたうえ、それが押し付けだとも気づかせない、かなり悪質な教育を施しているように思われる。
水からの伝言はヒキョウだ
なるほど道徳的主張としては間違っていない。人を傷つけることばは使わないようにしよう!というのはほとんどの人が当たり前のこととして思っている。
そしてまた、それを生徒に早い段階で教えこむ重要性も理解している。
だが、それを裏付けるための根拠として科学を使うのはあまりに卑怯だ。
説の正しさを立証する時点で、(説を正しいと認識する時点で)
科学は善悪を測るための道具ではないこと
善悪は一つのものによって簡単に決まるものではないこと
この二つの真実に覆いを被せてしまっているからだ。
であるから、これをお読みの教育関係者の方がいらっしゃれば、どうか「水からの伝言」を教材として使うことを思いとどまっていただきたい。
こんな悪質な教材を使うぐらいなら、他にもいっぱいあるだろう。
まだイソップ寓話のほうがいい。
ちなみに私はこの話を初めて聞いたときかなり驚いて信じてましたが、後から嘘だとわかって相当ショックでした。そういう子がでちゃうのもまた可哀想なので、使わぬようひとりの犠牲者としてお願いしときます。