足尾銅山の歴史を体感しながら学ぶ事のできる「足尾銅山観光」。
名称にもついている通りで足尾町最大の観光施設であり、観光資源でもある場所だけど、他の鉱山系観光施設には無い独特の雰囲気を醸し出す銅のテーマパークへ行った時のレポートです。
前回の「足尾銅山跡地」から移動して、本来の目的地だった「足尾銅山観光」へ。
「足尾銅山観光」は、足尾銅山が閉山する前に実際に使われていた坑道の一部を解放し、当時の銅山の雰囲気をリアルに感じながら、江戸時代から昭和の閉山に至るまでの作業の移り変わりを人形で振り返っていこう、という趣旨の観光施設となっている。
1980年(閉山してから7年後)にオープンし、併設施設の増設や全面リニューアルをへて、現在は足尾銅山を世界遺産にするべく一役買っているようだ。
栃木県近辺の小学生は遠足でこの施設に足を運ぶことが多い(自分も来た)はずで、当時としては展示されている坑夫達の人形の鬼気迫る表情がとても印象的で鉱山の歴史どころか、その人形のリアルさの方が記憶に残ってしまっている。
トロッコ電車
駐車場すぐの所にある、昔来た時には無かったと思われる楽しげなアーチをくぐり入坑口へ。
▲足尾銅山のマスコット源さん
トロッコ電車の駅も昔来た時と違って綺麗なロッヂ風の建物に変わっていた。
足尾銅山観光の入坑料(大人820円)は、入り口まで移動する為に乗るトロッコ電車の乗車券にもなっているので早速購入して中へ入る。
延々と流れてくる”足尾銅山観光は生きた博物館”、”足尾といえば銅山、銅山といえば足尾”という施設のBGMを聴きながら、15分間隔でやってくるトロッコ電車を待っている間はちょっとした展示物をみて時間を潰す。
▲待合室で見れる江戸と明治の坑夫のコラボ
黄色と青の可愛らしいトロッコ電車がやってきたので乗車。
▲帰りがけに見たトロッコ電車
向かうのは展示スペースがある通洞坑だ。
通洞坑の中に入ると外の空気感とはガラリと変わり、寒いくらいの湿った外気と、当時と変わらないであろう坑道内の雰囲気のおかげで、まるで自分が作業員としてここへ連れてこられているような気持ちにさえなってくる。
▲戻っていくトロッコ電車
距離で言うと400〜500メートルくらいの、然程長くない道のりをトロッコ電車で移動し終わって、最初に見えるのが”この先1200キロ以上の坑道が続きます。”という触れ書きと、先の見えない立ち入り禁止の坑道。
▲ライトで照らせる立ち入り禁止の坑道
「これからあなた達が見学するのは足尾銅山のほんの一部にすぎない」と最初に釘を刺され、展示コーナーへ。
働くおじさん(江戸時代)
足尾銅山観光のメイン企画、鉱山での仕事を見てみよう!という展示コーナー。江戸→明治・大正→昭和と順路が進むにつれ展示が変わってくる内容になっている。
最初に見ることが出来るのは江戸時代の坑夫の働きぶりについての展示。
リアルに作られた人形の中には動く人形もあるし、展示に合わせた音声ガイドは坑夫達の会話などを通して当時の鉱山の様子や仕事内容について説明してくれる。(坑夫の会話は博打の話だったり、職場への愚痴だったりする)
この頃の坑夫達の装備は近代と比べるとかなり原始的だ。これから時代が進むにつれさく岩機やダイナマイトなどの鉱山を掘り進めていく技術が登場してくるわけだが、江戸時代の手掘坑夫が使っていた道具は一本のノミだけ。
▲孤独に作業する手掘坑夫
別の鉱山を訪れた際に聞いた話だと、この坑夫が一日に掘り進められる距離は数センチしかなかったそうだ。
手掘坑夫達の作業風景は、孤独でどことなく哀愁を漂わせる風貌だが、人夫や負夫といった力仕事系の坑夫達の表情は、まさにその過酷さを物語るかのようだ。
ちなみに、屋外でも江戸時代の展示が少しあるのだが、こちらも苦しそうな表情で作業する坑夫の姿が見れる。
働くおじさん(明治・大正時代)
江戸時代には幕府直属の銅山だったが、次第に産出量が減少してしまい明治時代初期には閉山状態になってしまう。
明治10年に経営が古河市兵衛に移り民営化されたが、それからも閉山状態は続く。足尾銅山が解散ムードの中、4年後の明治14年に有望な鉱脈が発見され、そこからは作業道具や施設の近代化が進み、飛ぶ鳥を落とす勢いで発展していくことになる。
▲大正時代には足尾式さく岩機が使用され始める
明治・大正時代と言えば前回紹介した、本山製錬所や動力所内の大型コンプレッサーなんかもこの近代化の波の中で設備されている。
作業効率が上がり、銅の製錬技術も向上、大正時代の機械化が始まる少し前は作業員の人数も一番多く、江戸時代と比べれば格段に仕事がやりやすくなったのだろう、おじさん達の表情にも少し余裕が見える。
国内産出量の40%の銅が足尾銅山から生まれていた時期でもあり、まさに確変状態の足尾銅山だが、同時に”足尾銅山鉱毒事件”の始まりの時期でもある。
働くおじさん(昭和時代)
鉱毒騒ぎの最中も、大正時代を乗り越えて時代は昭和に移る。
オートマチック化がさらに進む中で、作業員の人員は減ってはきたが、安全管理は以前より徹底されてきたのだろう、おじさん達の服装も今現在でも違和感無いものへと変わってきた。
この頃には新型のさく岩機で穴を空けていってダイナマイト(発破)を爆発させる採掘に変わっていて、生産量を飛躍的に伸ばしていたそうだ。
▲発破をかけている所の展示、爆発すると風が吹いてくる
しかし、資源とは限りがあるもの、江戸時代では最大1200万トンもの生産量があった足尾の銅は昭和48年には底をつき、およそ360年に渡る歴史に幕を閉じるのである。
▲諦めムードの中弁当を食べるおじさん達
昭和の展示が終わると立ち寄りスポットの開運洞がある。(昔からあったのかどうかは不明)
これまでの雑然としていた通路と違い、補強も整っていてとても雰囲気がいい最後の通路を抜けて資料館へ。
出口付近に最後の展示は一瞬本当に作業しているのかと思ってしまった。
▲出口付近には支柱夫のおじさん
銅資料館
これまでは坑道内でどういった作業が行われていたのか?という内容の展示だったわけだが、出口へ向かう途中に銅(あかがね)資料館という採掘された後の作業工程や、使用されていた機械、足尾で獲れる鉱石などが見れる資料館がある。
▲鉱石運搬用エレベーター
前回の写真と比べてみてもると大半の建造物はやはり取り壊されているようだ。
▲前回行った現在の足尾銅山本山製錬所
資料館を進むと、先程とはまた少し雰囲気の変わった坑道に出る。
木枠の補強もないし、なんだかとても近代的な雰囲気がするので、足尾銅山観光と併設されたトンネルなのかと思ったが、壁を見てみると作られた年号が彫り込まれていた。
昭和2年なのか28年なのかは分からないが、どちらにせよ閉山される前に作られたもののようだ。
トンネルの途中にあった足尾で採掘された鉱石や、銅で造られたお土産品のちょっとした展示を見て外へ出る。
トンネルを抜けると、最初にトロッコ電車で通った通洞坑入り口に出る。
出てすぐの所にある、さく岩機体験コーナーはスイッチを押すと、爆音を唸らせながら展示用のさく岩機が振動するので、居合わせていた子供がめちゃくちゃビビっていた。
こういった展示ができるのも足尾の産業遺産を管理している古河機械金属あってこそのものなのではないだろうか。
その他にも実際現場で使われていたのであろう、鉱石を運ぶ鉱車も展示されている。
近場で有名な鉱山だと、別に伊豆市にある土肥金山に行ったことがある。
土肥金山自体はかなり観光地化されていたので、そこと比べると足尾銅山観光は他の銅山と比べると、深い歴史と暗い歴史が重なって他の鉱山では出せない特色を持った施設なのではないかと思う。
そもそもは単に「足尾銅山観光」へ行こうと思って足を運んだだけだったが、思いのほか見る物が多くて近辺の産業遺産まで見てしまった訳だが、限られた部分しか見ることが出来なかったと思うので、何れまた足尾には足を運びたい。
前回の記事はこちら↓
おまけ①:鋳銭座(銅銭の資料館)
足尾銅山観光最後の資料館「鋳銭座」。
ここでは江戸時代に銅銭がどのようにできていたのか知ることが出来る。
職人が鋳銭場にやってきて所から始まり、ドロドロに溶かした銅が銭に変わるまでを小人サイズの人形で教えてくれる。
▲作業を始める前に裸にさせられる職人たち
▲左手に持っているのは木製の弁当箱
通洞坑で展示されていた人形もそうだったが、足尾銅山観光の人形達はどれもこれもとても良い表情をしている。
▲枝銭を作る作業
おまけ②:お土産販売所
観光地ではよくある光景だが、足尾銅山観光から出るにはお土産コーナーを通る必要がある。
粋なジョークの看板の先には、よもや最近の観光地とは思えない味わいのあるお土産コーナーが待ち構えている。
何故か時間に流されない足尾銅山観光の良さを凝縮させたようなお土産コーナー。
勿論売っているお土産はほとんど銅グッズだ。
しかもかなり良心的な値段で販売されている。
二階に上がるとお食事処、”レストハウス足尾 ヒロⅡ世”というこれまた味わい深いお店があった。
しかし、意外にも中では(たぶん)お店の主人とお客さんがテレビを見ながら盛り上がっていたので、特に立ち寄ることもなく帰路についた。
写真・文/平井利治