第3スカイビル(※)。昭和45年竣工。鉄のマンションと当時言われたが、現在は〈軍艦マンション〉の通称で、建築好きには広く知られている。この姿を実現するために、オーナー・役所・施工者の説得に2年を要したという。※竣工時の名称
狂気の建築家。
かつてそう呼ばれた建築家がいる。
この第3スカイビル、通称〈軍艦マンション〉を設計した、建築家・渡邊洋治氏である。著書を見た限りでは、ご本人はその呼称を好んではいなかったにせよ、嫌ってもいなかったよう。
「それにしても、新聞や雑誌のとりあげる私への記事には,「奇」,「異」,「狂」などの形容詞がだいたい使われるようである。「侠気」なら私の好むところであるが,「狂気」とはいささか苦笑した。」(渡邊洋治『建築へのアプローチ』)
いやいや狂気などと、とんでもない! 建築音痴の筆者でも、この建物を一目見るだけで、まったくそんな人の手になるものじゃない、と言い切れる。
軍艦にあたる光とその翳(かげ)が、
無機質な鉄を妖艶な姿に変える。
まず、大戦艦の艦橋のようなビルてっぺんのペントハウスに目が行ってしまうのだが、その下に並ぶ、四角い箱のような住居ユニットも見てほしい。これが、大通り(職安通り)のほうに尻を向け、鷲が飛び立つ間際のごとく少しずつ広がりながらせり出し、また大空に向かって段々状にせりあがっていきながら、躯体に取り付けられている。採光のためにこんなふうにしてあるのだけれど、全体の姿がもう、ものすごく流麗。
さらに、屋上の真ん中あたりに、ゆるやかな窪みをつけてあり、全体のシルエットが、見る角度や、光と翳の具合によっては、なにか龍のような生き物が身をよじらせているようにも見える。この水平、垂直方向への曲線の流れ、うねりが、もう絶妙。武骨で重量感のある鉄の外観でありながら、刀の反りを目にしたときのような、しなやかな印象を加えているのである。
軍艦の「艦橋」のようなペントハウス。円筒形の給水タンクが横倒しに取り付けられている。風雨にさらされ、ところどころ塗装が剥げた鈍色(にびいろ)の姿に心惹かれるが、現在は塗り替えられている。(提供:東福大輔氏)
予算や立地、施主の要求など、さまざまに現実的な制約のかかる建築設計の世界で、それらに一定の解決をつけながら、こんな剛毅にして流麗な「作品」を実際に作れる人物が、狂気の人なわけがない。ただし、ただならぬ気迫は、ビリビリと感じるけれど。
「素人のくせに」と怒られるのを承知で、同時代の、同じようなユニット取り付け型のビル、〈中銀カプセルタワービル〉(黒川紀章氏設計)と比べてみても、〈中銀―〉は、直線的な造りで、それはそれでグッと心をつかまれるたたずまいなのだが、設計者の数式的な思想を組み上げたようなスマートさは感じられるものの、流麗さ、それが作る一種の「エロティックさ」においては〈軍艦マンション〉のほうに軍配があがる気がする。
この独特のデザインに惹かれる人が多いが、ファンの間では渡邊氏の郷里・上越地方にある出世作〈糸魚川善導寺〉や、最後の実作である〈斜めの家〉にこそ、建築家の濃縮されたエキスを見る人もいるという。
現代の建築家をも魅了する、昭和の建築家が遺したもの。
さて、「……気がする。……感じられる」と、曖昧なことばっかり言いましたので……ここで専門家にもお話を。「〈軍艦マンション〉に魅せられました」と話すのは、建築士・東福(とうふく)大輔氏。ノートに平面図をすらすらと描きながら説明してくださった。
「たとえば廊下。真ん中に、こんなふうにいきなりつけちゃうのは、現代建築では効率が悪いんです。でもこのデザインにするために、あえてそうしているんですね。外壁にエアコンの室外機を載せる台がありますが、このディテールも非常にこだわってデザインされているのが分かります。ですが私が惹かれるのは技術的なものよりも、建物全体から感じる、『情念』です」。なるほど、プロでもそうなのだ。
東福氏は、建てられたときの背景にも惹かれるものがあると続ける。「建築物というのは、クライアントの要求に沿うのは当然です。でもこれは全部をそうしているわけじゃない(笑)。こういうものにゴーサインを出す、理解あるオーナーたちがいた昭和という時代、その『ノリ』に、うらやましさも感じますよ」。
まったく同感です。熱い時代の空気も、感じずにはおれないビルなのである。
左が渡邊洋治氏。「鬼軍曹」という異名もとったという。本稿では残念ながら載せられなかったが、渡邊氏のドローイング(建物の完成予想図を手描きしたデッサン)は、黒のマジックインキ一本で黒々と紙面を塗りつぶし、建物部分は塗らないことで白く浮かび上がらせていく。この独特の手法は、印刷物で見ても鬼気迫るものを感じられた。右は師であった建築家・吉阪隆正氏。吉阪氏も、八王子・大学セミナーハウスなど「情念」を感じられる建築物を残している。
軍人であった以前に、芸術家であった。
そしてそれ以前に、気魄(きはく)の人であった。
ここで渡邊氏の略歴を、少し見てみよう。
建築家・渡邊洋治。大正12年、新潟県上越市で大工の棟梁の長男として生まれる。工業学校を経てステンレス会社に勤務し、太平洋戦争勃発後の昭和19年に召集され、船舶兵としてフィリピンで入営。戦後、久米建築事務所で多くの設計を行い、一級建築士の資格を得る。昭和30年には早稲田大学の助手となった。師事したのは、ル・コルビュジエのもとから帰国したばかりの建築家・吉阪隆正氏であった。ここに3年在籍した後、自身の建築事務所を開設。以後は早大講師もしながら、精力的に活動。〈軍艦マンション〉こと第3スカイビルは、はまさにこの円熟期、昭和45年に竣工している。この建物は海外でも注目され、イタリア、アメリカなどから講演にも招かれている。しかし昭和58年、60歳という若さで没した。生涯、独身であった。
この戦中に旧陸軍の船舶兵であった体験が、軍艦モチーフのもととなった、というふうに語られることもあるようだが、なんとなく、「さほど影響はないんじゃないの」と筆者としては思っている。
前述の、唯一残した著書のなかでは、正倉院やコルビュジエの建築など古今の名建築の写真を並べながら、戦艦大和や日米の戦闘機の写真なども同じように並べている。これを見る限り、建築美に惹かれるのと同じように、軍艦のたたずまいや造形に、もともとただ惹かれていたに過ぎないのでは……と。ただし、惹かれたものへの執着、集中の度合いが、並ではないのだろう。
渡邊氏の自宅兼事務所にて。オフィスは、ご遺族によって生前と同じように保存され、貴重な模型や図面も保管されているという。右側に〈軍艦マンション〉の模型も見える。渡邊氏設計の建物は、この自宅以外にも全国でまだ10棟ほどが現存し、静岡県の通称〈龍の砦〉という住宅兼医院などは、龍がトグロを巻くような、やはり迫力のみなぎった建物である。(提供:東福大輔氏)
それにしてもこの著書、発行後40余年を経てもなお、開けば猛烈な熱が噴き出してくる。建築を志す若い学生たちに向けて書かれたということもあるが、難解な理論をクールに展開していく建築書とは一線を画し、全体にわたって、建築を生業にするものの心構えや、物の見方などを感覚的に、断定的な書き方で綴っている。建物同様、もう、ものすごい、圧。「気魄」(きはく)という言葉が、ページを繰るたびに頭に浮かぶ。最終章「私の建築観」最後の言葉に、彼の美意識が力強く書きつけられている。少々長いけれど、引用。
「私は弥生より縄文,羊より狼,静より動,量より質,理より感,知より行,守より攻,情より無情,常識より反常識の立場を選ぶ。常識などなかった古代の,大胆なもの,おおらかなもの,切ないもの,美しいものが数多く存在しており,それらは今もなお私どもの胸を打つ。明日のための新しい常識,即ち非・反常識より生まれた数々の時代を超越した,遺跡,建造物,美術。それを造る,造らせるはやはり,人,人,血,血,涙,涙,意気,執念,あわれ,はかなさ……。その劇的なものへの「あこがれ」であろうか……。」
この文章自体がすでに、劇的である。最終ページを閉じ、心に浮かんだのは誠に「男くさい」の一語。そして、そこにこそ惹かれてしまう。やっぱり、侠気の人なのだ。
ちなみに。意外なことだが渡邊氏本人は、〈軍艦マンション〉は好きな建物ではなかったそうだ。あまりにインパクトのある外観のため、表面的に面白がられたり、同じ理由で嫌われたりしたためという。
しかし彼が心血を注いだ巨艦は、現在では周囲のビルにその艦容を隠されながらも、新宿区大久保1丁目に、今日も変わらず停泊している。