前回のおさらい!
論理ってのは私たちのメッチャ身近にあるよ!
だから論理ってのは定義するのが難しいけど、強いて言うなら「議論の筋道」だよ!
じゃあ筋道の絶対的正しさを担保するものはあるかな?
というところが前回までだった。
絶対的な正しさ?
つまり、今回の議題はコレ!
「論理的な正しさを測る絶対的な方法はあるだろうか?」と。
ちょっと考えてみよう。
……………………
ない!!
そんな基準があればとっくに世の中の論争なんてのは終わっているだろう。これは皆さんにとって意外だったかもしれない(前回の記事にブクマされた方の中には鋭い方もおられたようで、そんな旨のことが書かれていた覚えがある)。
ともかく、絶対的に正しい論理などというものは定義できないのだ。
それを今から考えていこう。
まずは思考の原理になるところ、「自明なもの」から。
論理の原理?
ここに二人の少年太郎と次郎がいる。太郎は論理学の説明を次郎にしていた。
太郎「A=B、B=Cとするだろ、そしたらその二つから何がわかる?」
次郎「ええ?えーと……A=B、B=Cということ」
太郎「違ああああう!!その二つを繋げるじゃないか」
次郎「…………」
太郎「つまり、A=B、B=Cとすると、A=Cが成り立つじゃないか」
次郎「……どうして?」
太郎「どうしてって!どうしても何も自明じゃないか!」
次郎「え、わかんない。どうしてA=BとB=Cが成り立つとA=Cになるの?」
みなさんはきっとA=B、B=CならばA=Cというのは地球が回ってる以前の自明なものに思われるかもしれないが、そんなことの正しささえ、論理では説明ができない。
なぜなら、二つの前提から導かれるソレ……A=Cという結論自体が、ただ人間の直感に従ったものにすぎないから……というと難しいな。
つまり、誰にとっても自明であるようなことを出発点として論理は成り立っている。その出発点以前の問題を、論理で片付けることはできない。それはちょうど、人間が生まれてくる以前の自分の状況を考えられないのと同じように。
ブコメで提案があったA=A(同義反復)も同じ。
これは確かに正しい。
だが次郎に言わせてみれば、「A=Aが正しいのはなぜ?」となってしまい、我々はそこから先について説明することができない。「正しいから正しいんだ!」という答えを投げつけるしかなくなる。
……まあそんな子がいたら、この先ちゃんと生きていけるのか心配ってぐらいにはA=Aの正しさは自明に思われるが。
論理を突き詰めてある程度いくと、絶対に論理では解決できない部分というのが出てきてしまう。正しいのか間違っているのか論理で証明することはできないけど、「きっと正しいだろうな」と普通の人間が思うようなことだ。そしてそれを我々は「自明」と呼ぶのである。
ただし、それはあくまで数学や論理学の話。日常生活において、「地球上の誰もが正しいと認めざるを得ないこと」=「自明なこと」というのはほとんどない。
多くの場合、「自分は正しいと思いこんでいる(けど、実は他の人からするとそうでもない)」というものが多い。
それが「価値観」だ。
日常的な「自明」の問題
すなわち、「社会人はよい時計を身につけるべきだ」とか、「良い車とはかっこいい車のことだ」みたいな、感性で片付けられそうなものの類。
そして、価値観にまつわる対立で、「こいつ、思考が論理的じゃないな」と相手に対し思いこんでしまう原因もここにある。価値観という論理の根本が対立しているので、どんなに論理的に話そうとしても意味がなくなる……という残念な例。
これは自明性の問題であり、論理じゃ当然太刀打ちできないが、それどころか、価値観という自明なものが食い違っているゆえに、「両方とも論理的に正しいことを言っているのに、両方の意見が食い違う」ことも起こってしまう。
そして論理の根本……自明なことと同様、このどちらがより論理的に正しいか?なんてのを判断する絶対的な基準もない(せいぜいみんなに聞いて回るぐらいか?)のだから、議論はやはり不毛に……。
逆に言えば、不毛でない議論を心がけるなら、毎回毎回自分と相手の思考の原理……価値観をうまく見抜く必要があり、かなり大変です。
他人の論理≠自分の論理
来店して文句をつけているクレーマーを例に取ってみよう。
クレ「おい!このお菓子腐ってんな!俺が買ったときには腐ってたよ!」
店員「……つまり、当店でお買い上げの際には、消費期限が切れていたということですか」
クレ「そうだよ、ほら、ここ見てみろ。(と言って破った後の包装だけを見せてくる)」
店員「ではお買い上げの際のレシートをお見せいただけますでしょうか」
クレ「そんなもの捨てたよ」
店員「……はぁ。しかしレシートがございませんと、消費期限が切れていたという証明ができま」
クレ「うるせえぞお前!!俺にたてつくのか!!とっとと弁償しろ!!」
あまりにおかしな(お菓子だけに)ことを言われていると第三者からでもわかるだろうが、実はコレ、私の友人が実際に食らっちゃったらしい。これを人は「理不尽」……道理や理屈で片付けられない、不可解な出来事と形容するが、クレーマーにとっては何ら間違っていない、まさに「論理的に正しい」ことなのだ。
彼にとっては、自分にたてつく者は全て悪だ。(これが価値観)
だから、自分に従わないものは間違っていて、みな自分に従わねばならない。(これは上の価値観から発展させた論理)
いっぽうで、友人(店員)の言い分はというと、
本当に商品が腐ってたのなら、お詫びして、商品も交換しなければ。(これが価値観)
しかし、相手はレシートを見せようとしないので、商品が腐っていたという証明ができない。よって交換には応じられない。(これは論理)
このどちらが正しいかちゃんと審判できる人なんていないに違いない。強いて言うなら「みんな」だが、意見が割れてしまったらどうしようもない。「数の多い方を優先すること」が真に論理的に正しいかというのもわからないのだから。
私の意見?公平のため言いませんが、私は「常識的な」人間です。
……というのはかなり極端な例だけど、これをマイルドにした例というのはそれこそ無数に転がっていて、一つ一つにおいて、どちらが絶対的に正しいかなんてのを審判することはできない。
例えば、『社会人はブランドものの時計を身につけるべきか否か』という問題は、価値観をなんとか論理の問題にしようと頑張る人が現れるが、結局どうしようもなくなるものの一つだろう。
身につけるべき派の人はまず、「時計もその人間を表す」という(本人たちさえ意識しない)価値観があり、その価値観をもとに
「自分は社会人だ、社会人は身なりが大事だ、身なりを判断するための要因には時計も入る。よって自分は良い時計を身につけるべきだ」
という一見論理めいた……というか、論理的なことを言う。
それに対し、身につけなくてよい派の人たちは、「時計は別にその人間を表さない」という価値観があり、その価値観をもとに
「自分は社会人だし、社会人が身なりが大事だとわかってるけど、身なりを判断するための要因には時計は入っておらず、よって良い時計を身につける必要はない」
という論理を展開する。
さて、この両者の論理のどちらが正しいか、絶対的な基準でもって判断できる人間はいるだろうか。いないのだ。だって絶対的な基準なんてそもそもないんだもの。
ああ、むつかしい。
今までの議論をまとめよう!
論理の出発点、「自明なこと」の自明性を問う(本当に正しいか判断する)ことはほとんど不可能であり、日常であればそれは「価値観」と呼ばれる。
価値観が違う(出発点が違う)ゆえに、「両方とも論理的に正しいことを言っているのに、言ってることが食い違う」という状態が起こり得るし、そんなのは日常にごろごろしている。
「正論」は本当に正論か考えよう
であるから、自分の中の「正論」にのみしたがって行動したり、相手を無暗に攻撃したりすると、時として痛い目を見ることがある。正論というのは「正しい論理」だが、その正しさは自分自身の中でのみ保証されていて、実は自分もさっきのクレーマーみたいなことを言ってしまっている……という可能性は、大いにある。
論理的思考をするな!などとは一言も言っていない。それはむしろ私たちの暮らしをよりよくしてくれるもので、端的に言えばすごく便利だ。論理がないと日常さえしっちゃかめっちゃかになってしまうだろう。
だが、その論理を誰かに無理やり押し付けてしまうようでは、真に論理的とは言えない。他人の事情や物事の流れなども汲み取って、自分がクレーマー化していないか立ち止まって考えるのも、大事なことだと思う。
相手を不快にしない言動、相手の立場に立った言動、闇雲な否定を使わない言動、建設的な議論をするなら、そういうものを欠かさないようにしよう。
絶対的な正しさなんて、この世にはないのだから。
というわけで、二回にわたる論理の話でしたが、いかがでしたか?(これwelqっぽくて嫌い)
皆さんがよき論理ライフをお送りできることを祈っております。
質問や文句?があればコメント欄でお願いします。ブコメだと対応できないかも。
追記:「論理的な正しさを保証するものは存在しない」というこの意見さえ、やはり正しいかどうかなんてわかりません。私がそう思いこんでいるからこのように論を展開したまでです。「存在する」派の人にしてみれば……
なんて考えると、論理もじつは結構不自由なのです。
自分が価値観という番人に囚われていないか、常日頃から確認しておくことが、論理的思考の第一歩でしょう。
それでは。