居場所とは何か?
こども食堂や学習支援スペースなどは「子どもの居場所」と言われる。
居場所とは何か。
自分のいる場所を指すこともあれば、得意分野などを指すこともある。「〇〇が私の居場所になった」などという用法もある。
ある場所が誰かにとっての居場所になるかどうかは、もともときわめて個人的・私的なものだったが、近年では「高齢者の居場所」「子どもの居場所」と、集団を対象とする場の呼称としても使われる。その場合には、孤立防止といった公共的機能を担う場という意味がある。
聞こえのよい言葉だが、用法が広く、今一つつかみどころがないと感じる人もいるのではないか。
どういう条件を満たし、何が提供されれば、そこは居場所になりえるのか。
「居場所」の今日的用法を踏まえつつ、その意味するところを、子どもの貧困問題から考えてみたい。
居場所が提供するもの
居場所は、子どもたちに以下のものを提供している。
1、栄養や知識
こども食堂であればカロリーやビタミンといった栄養、学習支援であれば漢字や算数の知識。
これ自体は、無料や低額で提供されること以外は、街なかの定食屋や進学塾と変わらない。
2、体験(交流)
友だちと一緒に食べる、一緒に遊ぶ、野球にサッカーにボードゲーム、川辺のバーベキュー、海や山へのキャンプ、田植え…。
「ふつう」の子どもたちが親から与えてもらっている体験が不足または欠如している子どもたちに、団体や地域が提供する。
親や先生と違う第三の大人との「ナナメの関係」なども、この体験に含まれる。高齢者などの文脈では「交流」とも言う。
体験は「特別な体験」にかぎらない。「みんなで鍋をつつく」という、多くの人にとっては特別ではない体験が、ある子には特別な体験となることもある。
ある「こども食堂」での話。
今日は鍋にしようと、大人たちが鍋料理をつくり、子どもたちと食べた。
高校生の女の子が「みんなで鍋をつつくって、本当にあるんだね」と言った。
彼女には、その経験がなかった。みんなで鍋をつつくというのは、テレビの中でだけ起こっているフィクションの世界の話だと思っていた。スーパーマンが空を飛ぶように。
3、時間
自分に関わり、自分を見て、自分に声をかけて、自分の話を聞いてくれる時間。それを通じて、子どもたちの中に「何か」が溜まっていく。
この時間が、つながりを生み、居場所の外にもつながりを拡散していく。滋賀県近江八幡市で「むさっ子食堂」を運営する石田幸代さんは、その目的を「(街で出会ったときに)『こんにちは』だけで終わらない地域づくり」だと語った。
4、生活支援
そこを訪れるさまざまな子どもたちから何らかのサインが発せられたとき、それをキャッチして専門支援、制度サービスにつなげる発見力と解決力。
表立って掲げられると子どもはかえって来づらいので、必要に応じて「実はこういうこともできる」と持ち出されることが多い。
岩手県盛岡市でこども食堂を運営している「インクルいわて」の山屋理恵理事長は、それを「裏メニュー」と呼んだ。
また兵庫県明石市では、子どものサインをキャッチする機能に着目して、こども食堂を「気づきの拠点」と呼んでいる。
豊富な「裏メニュー」があれば、いろんなサインに気づき、子どもはもちろん、家族も含めたさまざまな事態に対応できる。
核は「時間」
どれも重要だが、中でもとりわけ重要で、にもかかわらず十分に意識化・言語化されていないものがあるとすれば、3の「時間」だろう。
「時間」は、居場所の居場所たるゆえん、居場所の核を形成している。
埼玉県で学習支援を行っている「彩の国子ども・若者支援ネットワーク」代表理事の白鳥勲さんは、学習支援教室でマンツーマンにこだわるのは、単に「教えやすいから」だけではないと言う。
一緒に過ごす時間の中で、子どもたちの中に何かが溜まっていく。それはコップに水が溜まっていくようなものだ。そしてあるとき、溢れる。
そのとき、子どもたちは『何かやってみたい』と言い出してみたり、将来について心配し始めたり、急に勉強し始めたりする。
いつ溢れるか、それは私たちにはわからないし、本人にもわからない。
でも、人の成長にはそういう時間が必要だということはわかる
子どもには、かまってもらう時間が必要だ。話しかけたり、耳を傾けたり。そうした人との関わりの中で、子どもたちは社会性や常識を身につけ、語彙を増やし、物事の見方や考え方を学んでいく。
そこに十分な時間がかけられたとき、その相手やそこにあるモノ、それを包む空間は、その子になじみ、構えなくてよくなり、自分が自分でいられるようになり、居場所になる。
自立には依存が必要
それゆえ、児童福祉の対象となる子どもたちの自立には「十分な依存体験」が必要だとされている(『子ども・家族の自立を支援するために―子ども自立支援ハンドブック』児童自立支援対策研究会編、2005年)
「十分な」には、質とともに「十分な時間」という意味も入っているだろう。
十分な依存体験があって、子どもはそこを居場所と感じ、それが自立心を育てる。コップに水が溜まっていき、あるときあふれ出るように。また、細いロールの芯に紙が巻き取られて太くなっていくように。
自立とは、自己決定するプロセスと、その結果を引き受ける中で得た体験や感情が、自分の中に蓄積された結果として、自分の中の「芯」が太くなった状態を指す。
決定に至る過程で感じた喜怒哀楽や、想定外の結果までをも引き受けざるを得なかった苦い経験、逆に思わぬ喜びに満ちた経験、そうしたものが、ロールペーパーの細い芯にどんどん紙が巻き取られていくように十分に太くなったとき、簡単に折れることなく、自己を引き受けられる自己が形成される。
それが自立だ。
十分にかまってもらう時間、それがあって、食事も学習も、体験も、生活支援も生きてくる。逆にそれがなければ、こども食堂とファーストフードの区別、学習支援教室と進学塾の区別はあいまいになってくる。居場所のキモを外さないために、このことは強調しておきたい。
そして……居場所が問うもの
そして、このことは、私たち大人に深刻な問いを投げかける。
「では、大人たちにその時間はあるのか?」と。
この問題を40年以上前に指摘した古典がある。ミヒャエル・エンデの『モモ』。
物語の中で、人々は自身の生活の効率化を進める。それは「ゆとり」を生むためだ。しかし、効率化をいくら進めてもゆとりは生まれない。それどころかますます忙しくなる。なぜそんなことになるのか。それは「時間どろぼう」がその時間を盗んでしまうからだ。
モモの親友、ジジ(ジロニモ)が言う。
「これまで、ますますおおぜいの人たちが、あらゆる方法でたえず時間を倹約するようになってきたんだが、それなのに時間はますます少なくなっている。いいか、みんな、この倹約した時間は、人間からうばわれてしまっているんだ。なぜか? モモがそのわけを見つけ出した! この時間は、文字通りの時間どろぼう団にぬすまれていたんだ!」
「あそび」から「あそび」が失われる
言うまでもなく「時間どろぼう団」は、私たち自身の効率化を追い求める心の隠喩(メタファー)だ。
それは、効率化の対極にあるはずの「あそび」さえも変質させてしまう。「あそび(プレイ)」から「あそび(余裕・余白、私の言葉でいえば「溜め」)」が失われる。
彼らは余暇の時間でさえ、すこしもむだもなく使わなくてはと考えました。ですからその時間のうちにできるだけたくさんの娯楽をつめこもうと、もうやたらとせわしなく遊ぶのです。
大人たちの変質は、子どものあそびをも変質させる。
「すごくさがしたのよ」と、モモは息をはずませて言いました。「これから、あたしのとこに来ない?」 三人は顔を見あわせ、それから首をよこにふりました。
「じゃ、あしたは? それとも、あさって?」
また三人は首をふりました。
「ねえ、ぜひまた来てよ! まえにはいつも来てくれてたじゃないの」
「まえにはね!」とパオロがこたえました。「でもいまは、なにもかも変わっちゃったんだ。もうぼくたち、時間をむだにできないのさ」
「いままでだって、むだになんかしなかったわ」とモモが言いました。
「あのころはよかったわね」とマリアが言いました。「でももう、あんなことはできなくなったのよ」 三人の子どもはいそいで歩きだしました。モモはそのよこを小走りについて行きながら、ききました。
「で、これからどこに行くの?」
「遊戯の授業さ。遊び方をならうんだ」と、フランコがこたえました。
(中略)
「そんなことがおもしろいの?」とモモは、いぶかしそうに聞きました。
「そんなことは問題じゃないのよ」と、マリアがおどおどして言いました。「それは口にしちゃいけないことなの」
「じゃ、なにがいったい問題なの?」
「将来の役に立つってことさ」とパオロがこたえました。
ゆとりのために、ゆとりを犠牲にする
私たちはずっと、これを仕方のないこととして受け入れてきた。私たちは『モモ』に出てくる、親にかまってもらえない男の子そのものだった。
「ぼくの親はぼくをだいじに思ってるよ。でも、いそがしいんだ、どうしようもないじゃないか。ひまがないんだもの」(同上、P103)。
なぜ仕方がないのか。経済成長のためだから仕方ない。
経済成長しなければ、子どもたちの健全な養育環境も保障できない。それと引き換えに失うものはある。だが仕方ない。経済成長が根幹なんだから、と。ゆとりを犠牲にしなければ成長は手に入れられない、と。
ゆとり(豊かさ)のために、ゆとり(あそび)を犠牲にせざるを得ないという理屈だった。
それゆえ、この議論がメインストリームになることは、長い間、なかった。
時間を取り戻す
しかし今、そのことに疑問符がつき始めている。
経済成長が不要だというのではない。経済成長のためにこそ「時間」が必要なのではないかという議論が、さまざまな文脈で行われている。
「ワーク(仕事)とライフ(生活)のバランスをとることが、仕事の生産性を高める」
「会社に住むような長時間労働では、仕事に必要なアイディアも生まれない」
「異質な人たちとの多様な交わり・経験が、新たな発想を生み出す」などなどだ。
現在行われている長時間労働規制や育休取得推進の「働き方改革」は、まさに経済成長を目指して行われている。
ゆとりと経済成長を対立的に捉える発想は、揺らぎ始めている。
議論百出で、かなり混とんとしているものの、そこには「時間を取り戻す」というメッセージがたしかにまぎれこんでいる。
それはもはやノスタルジーではなく、経済的にも合理的な、リアリティと責任のある議論になり始めている(注)。
価値転換のきざし、か?
子どもたちは鏡だ。
居場所の必要性が声高に言われる社会は、居場所に飢えている。
子どもたちに居場所が必要だというのは、何よりも大人たちの時間のなさをこそ映し出している。
そしてこども食堂や学習支援の取組の広がりは、仮に無意識だとしても、それに対する反省と価値転換のきざしを示しているのかもしれない。
だとすれば居場所の意味は、単に「かわいそうな子どもたちに場を提供してあげる」ものに留まらない。「暮らしの価値転換を求める子どもたちからの警告を私たち大人が受け止められるか」という、より大きな価値判断を問うものとなるだろう。
居場所が問うものは、大きくて深い
エンデは、時間どろぼう団の裁判官にこう言わせていた。
子どもというのは、われわれの天敵だ。子どもさえいなければ、人間どもはとうにわれわれの手中に完全に落ちているはずだ。子どもに時間を節約させるのは、ほかの人間の場合よりはるかにむずかしい。だからわれわれのもっともきびしい掟のひとつに、子どもに手を出すのは最後にせよ、というのがきめられているのだ
そして子どもたちは、大人たちに警告するために次のようなプラカードを作製していた。
時間のせつやく? でも、だれのために?
子どもたちは大きい声で呼びかける。みんなの時間はぬすまれているぞ!
この声を聞きとれるか。
居場所が問うものは、大きくて、深い。
- (注)長時間労働規制に賛成する意見の中でも、「効率化」に対する評価はわかれている。第一に、電通の過労自殺問題などをきっかけに、より人間的で労働者の人権、および労働力の再生産に配慮した働き方を求める結果として、長時間労働規制に賛成する意見がある。第二に、仕事以外の時間を生み出すことが、アイディアや創造性を生み出すうえでより望ましいという観点から長時間労働規制に賛成する意見がある。第三に、ムダな残業を減らし、生産性を高め、より効率的に働くために長時間労働規制に賛成する意見もある。いずれも長時間労働規制に賛成という点では違いはないが、効率化に対する評価という点では、第一・第二と第三は逆のベクトルをもつ。そして現状の意見分布を見るかぎり、第一・第二の意見はたしかに一定程度広まっているものの、それが支配的とまでは言えない。それゆえ本稿では「揺らぎ始めている」「まぎれこんでいる」「なり始めている」という控えめな表現に留めた。なお、上記の意見の違いは裁量労働制、とりわけホワイトカラー・エグゼンプションの評価において顕在化するが、本稿の本旨から外れるので、ここでは詳述しない。
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