Interview

大滝詠一、山下達郎、フリッパーズ・ギターを手がけた“伝説”のプロデューサーが解く、和製ポップスの制作秘話

大滝詠一、山下達郎、フリッパーズ・ギターを手がけた“伝説”のプロデューサーが解く、和製ポップスの制作秘話

70年代初頭から日本のフォーク、ロック、ポップスに深く関わり、数多くの名曲、名盤を送り出してきた牧村憲一さんの新刊『「ヒットソング」の作りかた 大滝詠一と日本ポップスの開拓者たち』が音楽ファンの間で話題を呼んでいる。
これまでも著作やトークイベントなどで日本の音楽を検証してきた牧村氏が、プロデューサーの視点で、大滝詠一、山下達郎、大貫妙子、竹内まりや、フリッパーズ・ギターなど日本のポップス史に金字塔を打ち立てたミュージシャンとの制作時のエピソードを語った本書は、多くの発見や驚きがあり、今に繋がる音楽の流れを紐解く読み応えのある内容だ。彼らと音楽の現場を共にし、時には挫折に味わいながら、ヒットに結びつけ、質の高い音楽をつくり続けた牧村氏の歩みは、日本のポップスが成熟していく過程でもある。
すでに次回作の構想もあるという牧村氏に、本作を書いた動機、そこに込めた音楽への想いを訊く。

取材・文 / 佐野郷子 撮影 / 柴田和彦


「記録」と「記憶」の中にある次世代に伝えておきたいこと

今回の本では、長く愛され、支持される音楽づくりについて解き明かされましたが、それに至る経緯は?

第一の理由は、自分の記憶力が年々落ちてきたことですね。60になる少し前からブログを書き始めたんですが、それを必要に迫られて読み直すと、自分でも「へー、そうだったっけ」と思うことがありましてね。書く上では裏付けをとって、当時の日程表があれば確認しているのでおおよそ間違いはないんですけど、さすがに70を超えると曖昧になっていく記憶もありますから。
二つ目の理由は、僕は60になったら音楽業界をやめようと考えていたんですが、自分がつくった作品のアーカイブをその時代の最高の音で世に残す「記録」と、それと同じくらい大事な「記憶」を何とか留めることはできないかと考えるようになった。50年近くも音楽の世界にいると、僕だけが目撃したり、知っている話の中に皆さんにも伝えておきたいことがある。それをブログで書き始めたことがきっかけで、出版社やトークイベントなどで声をかけていただくようになったんです。長年プロデューサーとしてバックヤードから音楽を押し出す役目をしてきましたが、今度は僕自身がまるでミュージシャンのように、周りから押し出される立場を経験することになったんです。

これまでに津田大介さんとの共著『未来型サバイバル音楽論』、『ニッポン・ポップス・クロニクル1969-1989』を出版。今回は牧村さんのより具体的な体験が綴られていますね。

この本は僕が最も影響を受けた70年代を軸に、90年代の入口までスタッフの視点から見た内容ですが、最初は都築響一さんの『圏外編集者』を読んで、語り下ろしの潔さも良いなと思ったんです。今まではミュージシャンとの付き合いもあるし、どこかで誤解を受けないように注意深くして書いていたので、人を不愉快にさせるのではなく、「あの時、自分はこう思ったんだよ」と素直に語る本もありだなと。ただ、話してまとめたものを読んだら、加筆では済まなくなってしまった。この本では、これまでの自分の経験を綴ることで、今の時代にもリンクすることや、ヒントがあるのではないか。そんな願いを込めて書きました。

日本語の歌とロックが熟していく過程で出会った才能

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第一章では、70年代初頭のフォークの状況、日本語のロックの胎動を現場にいらした牧村さんならではの視点で捉えていています。

僕は日本に入ってきたフォークソングがまだ少数派だった時代から携わってきました。ラッキーだったのは、日本語の呪縛から逃れるために言葉と格闘していたフォークの世界に先ず身を置いたこと。ギターを持った若者たちが、コードという新しい手法を得て歌をつくり始め、洋楽のポップス・ロックに通じる新しい音楽が作れないかと試行錯誤をして、その中から次世代以降に多大な影響を与えることになるはっぴいえんどが出て来た。ロックは英語でなければ、と考えていた人たちからは、日本語ということだけで、はっぴいえんどでさえフォークじゃないかと言われていましたが、70年代前半に日本語の歌とロックが熟していく過程も見ることができたのはやはり大きかったと思います。

1973年の大ヒット曲「神田川」の制作にも牧村さんが関わっていたとは、その後の歩みを考えると意外な気もしましたが。

ちょうどフォークがニューミュージックになっていくことでシーンが二分化されていく時でしたね。僕は六文銭のマネージメントを経て、吉田拓郎さんや六文銭が所属するユイ音楽工房の出版部門で原盤ディレクターの仕事を始め、そこで担当したのが南こうせつとかぐや姫、そして出来たのが「神田川」でした。ガロが「学生街の喫茶店」で大ヒットを飛ばした直後で時代に恵まれたこともあり、予想を遥かに越えるヒットに。五木寛之さんの小説『艶歌』のモデルになった馬渕玄三さんという昭和の歌謡曲、演歌を数多く世に送り出した名物ディレクターの方が、「神田川」を聞いて、「自分の役割は終わった」と仰ったそうです。その話を聞いた時、新しい歌謡曲として受け入れられたんだと思いました。自分が目指してきた方向との矛盾を感じ、いわば真逆の世界であったCM制作会社(ON・アソシエイツ)へその後移ることになりました。

大滝詠一さんのCMソングの制作エピソードも面白かったのですが、そこでシュガー・ベイブとも出会っているんですね。

僕の目指す音楽はまだまだ発展の段階で、師匠と呼べる存在やお手本がなかったので、CM音楽の世界で自分の制作能力を鍛えてみたいという思いもありました。その頃、ベルウッド・レコードの三浦光紀さんから、大滝さんの最初のソロアルバムの曲聞かせてもらっていた僕は、はっぴいえんどとは別のポップな音作りに強く惹かれました。それ以前に、「はっぴいえんどでCMソングをやりたい」という話を聞いていましので、サイダーのCMの話を大森昭男さんから相談された時、大滝さんを推薦したんです。シュガー・ベイブは、ユイにいた時に山本コウタローさんから「日本のラスカルズがいる!」と聞いていたのですが、大滝さんの作った三菱ジーガムのCMソングに、山下達郎さんたちがコーラスで参加した音源を聴いて衝撃を受けました。山下達郎さんにはCMソングをお願いして、シュガー・ベイブとも関わるようになるんです。ただ、CMの15秒、30秒の世界に疲れたのも事実で、その後はレコード制作の現場に戻ることになるのですが、音楽とは異なるクリエイターとの交流で様々な刺激を受けたことで視野も広がり、人脈も生まれた。そうしたことが後の「不思議なピーチパイ」や「い・け・な・いルージュマジック」にも繋がっていくんです。

試行錯誤の末、10年かけて実を結んだヒット&ブレイク

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ご自身で音楽事務所「アワ・ハウス」を立ち上げられた1975年頃は、ニューミュージック全盛期でしたが、それでも状況はまだ厳しかったようですね。

「アワ・ハウス」は制作宣伝を手がける会社で、センチメンタル・シティ・ロマンスのデビュー、そしてシュガー・ベイブのセカンド・アルバムの制作をサポートするはずだったのですが、ご存知のように1976年に解散。そこで山下達郎さん、大貫妙子さんにソロデビューを提案して、制作宣伝をすることになるんですが、当時のレコード会社はリリースはするけど制作費は出さない、つまり原盤制作費は自分たちで何とかしろという時代でした。70年代中頃にニューミュージックの中からよりサウンド志向の強いシティ・ミュージックと呼ばれる音楽が登場したんですが、セールスはまだまだ厳しく、自分が信じてきた音楽が途絶えてしまうという危機感がありました。結果的には予想通りというか、事務所の運営も休業せざるを得ないほどになり、僕は出稼ぎでフリーの制作スタッフとして1976年に生まれた新宿ロフトのレーベルの仕事を始め、『ロフト・セッションズ』(1978年)というオムニバス・アルバムなどを作りました。その中に竹内まりやさんを呼び込めたのです。

プロデューサーとして初めて牧村さんの名前がクレジットされたのは、竹内まりやさんのシングル「戻っておいで・私の時間」(1978年)だそうですね。

そうです。見つけて、プロ入りを薦めて、制作して、タイアップをつける、一人でほとんどやりましたし、当然責任もかぶっていたので潔くプロデュースを名乗ってもいいだろうと。山下達郎さんのファースト『CIRCUS TOWN』(1976年)の時は、レコード作りのスタッフの一人ではありましたが、アーティスト・マネージャーというクレジット、他の仕事ではコーディネーターやデイレクション名義。それまではプロデューサーと名乗るには自分の力量が達していないという自覚があったんです。
竹内まりやさんがデビューした1978年は、YMOがファースト・アルバムを出し、サザンオールスターズがデビューした年でもあり、80年代の予兆がすでに芽吹いているんです。まりやさんのファースト『BEGINNING』(1978年)には、加藤和彦さん、細野晴臣さん、高橋幸宏さん、山下達郎さん、林哲司さん、告井延隆さんなどが参加、80年には「不思議なピーチパイ」がヒット。しばらくレコード制作活動を休止中だった大貫妙子さんも新しい挑戦となるヨーロッパ路線に舵を切り、坂本龍一さんをはじめYMOのメンバー、加藤和彦さんなどが参加した『ROMANTIQUE』(1980年)でブレイク。ここでようやく、僕が70年代から仕事を共にしていただいた人脈が80年代前半にかけて一気に混じり合うんです。

1982年に手がけられた「い・け・な・いルージュマジック」(忌野清志郎+坂本龍一)も大ヒットとなり、かつて「いい音楽をつくるけども、売れないよね」と言われたことは払拭されたのでは?

課題だった良いものと売れるものを何とか自分なりに組み合わせることができるようになったということでしょうね。ミュージシャン人脈だけでなく、CMクリエイターなども含めて70年代に培ってきたことが10年かけてようやく形になった。僕は加藤和彦さんや吉田拓郎さんと同い年で、同世代が新しい時代を切り開いていくことに影響を受けてきました。フォークの時は、小室等さんのおかげで演劇人や詩人など本来なら知ることもなかった人から刺激を受けることになったし、以降も出会った人のおかげで世界が広がり、貴重な体験ができたと思います。日本の音楽をリードしてきた人たちと20代で出会い、その後も若い世代のクリエイターと知り合うような環境にいたことは幸運でしたね。
レコード会社にいるだけではそうはならなかったと思います。

世代交代を経て、再び現場で手腕を発揮した80年代から90年代

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1984年に設立された細野晴臣さんのレーベル、「ノン・スタンダード」に入られたのが40歳の頃。「ここが音楽制作の最後の場」だと思っていたのはなぜですか?

80年代に入ると、大滝詠一さんもYMOも山下達郎さんもブレイクし、レコード会社も僕たちが培ってきた音楽に投資を始め、レコード制作費や宣伝費もたっぷりありましたが、それも長くは続かない。YMOが「散開」した後は、ピークが1回過ぎ去った感もあり、ちょうど40歳になる時でもあったので、細野さんのレーバルで自分のキャリアを終えるのも納得できるなと。当時は20代でデビューしたミュージシャンが、40代を迎えて懐メロ化せずに現役感を保つのは難しいと思っていたし、その人と仕事をしてきたスタッフも残っていたとしても、おそらくレコード会社や事務所のお偉いさんであって、現場で最先端の音楽と付き合っていることは想像しにくかったんです。
その頃は60〜70年代に溜めてきた色んなアイディアを使い果たし、明らかに自分の中にストックがなくなっていると思い込んでいました。実際そうだったかもしれません。ノンスタは志半ばで、レコード会社からハシゴを外されてしまったわけですが、そこからピチカート・ファイヴや、SHI-SHONENから発展したフェアチャイルド、プロデューサーとして成田忍くん、鈴木惣一朗くんなど後の音楽シーンに影響を及ぼす若手を輩出した。
1985年に国立競技場で行われた『国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW』という大規模なライブ・イベントがありましたよね。当時、第一線で活躍していたミュージシャンが一堂に会して、はっぴいえんど、サディスティック・ミカ・バンドの再結成も話題を呼びましたが、僕はひとつの時代の決算だなと感じたんですね。確実に世代が入れ替わると、直感しました。

しかしながら、1988年には再びレコード会社に復帰されます。

ノンスタの後、1年半くらいは心身ともに疲れて、はっきり言って病気ですね、音楽から離れていたんですが、ある日、たまたま表参道でポリスター・レコードの看板を見つけて、ちょっとした遊び心で社長に電話をしたら、その場で「牧村さん、うちで何かつくってよ」と。ここは流れに身を任せようと思ったんですね。当時の僕は53キロしかなくて見た目も怪しいヒトに見えたみたいで、若いスタッフはその姿から、「やっとロックをやりそうなヒトが入って来た」と期待したそうです(笑)。

そこでフリッパーズ・ギターと出会ったことは大きいですね。

本にも書きましたが、1989年に吉永多賀士さんが、クールスにいた横山剣さんの新しいバンド、ZAZOUの話を持ってきてくれたのですが、ついでにこれも聴いてみてと置いていったのが、フリッパーズの前身、ロリポップ・ソニックの音源だったんです。今度はハウス・プロデューサーとして、良いものかつ売れるものをつくることが責務になる。フリッパーズ・ギターは当初3千枚で、半年くらいで、じわじわと1万枚近くまで行きました。といえども、まだそんな時にフリッパーズ主導の『FAB GEAR』 という企画盤を出そうとしたら社内は大反対しましたが、新聞に全面広告を出すより、こういう企画のほうがコアなファンがつくし、彼らの立ち位置も明確になるだろうと強行しました。フリッパーズ解散後には、渋谷系というよくわからないブームがあって、その総本山とされたレーベル「トラットリア」は、70年代から僕が学んだ様々な知恵が投入出来て、若いミュージシャン、スタッフの才能が結集し、2002年まで250アイテムを生み出しました。それはまるで小さなレコード会社のようでした。
この本に書いた90年代まではものづくりを軸として、徐々にヒットさせるまでの道程でしたが、僕は良いものと売れるものが五分五分の時に、レコード会社の現場を退いたと思います。必ずしも売り上げ至上主義ではなかった自分が、いや売り上げ責任はありますが、小さく出来ない、短期的視野の立場に荷担しなければならなくなった時が引き際でしたね。小さいレコード会社なら続けられたと思います。

時代を経ても評価され、残っていく音楽

現在も「音学校」という私塾、執筆活動、アーカイブのプロデュース、トークイベントなどで幅広く活躍されていますが、その原動力はどこにあるのでしょう?

退社後は現場に復帰するつもりはなかったんですが、大きな病をしたことと、音楽大学で講師を務めたことでもう一度音楽に接近して、まだ自分の中でやり残したことはあると自覚したことが大きいですね。
この種の本はこれで打ち止めかなと思っていたんですが、昨年末にポリスターのウィッツ・レーベルからデビューしたL⇔Rの黒沢健一くんが亡くなり、弟の秀樹くんから「健一が生きた時代、音楽が音楽であった時代のことを書き残せないですかね」と問われたんです。彼らがデビューし、活躍した90年代は、まだ自分の中では生々しすぎてと思っていたんですが、音楽の世界では十分昔ですし、自分の年齢を考えたら僕だっていつどうなるか分からない。ここまで書いたら、この続きを書くのは義務かなとも思うし、自分が責任を持てる場で、どういう人たちを育てようとしたかを書かなくてはならないかと。6年間教鞭を取った昭和音楽大学の教え子たち、スカートの澤部渡くんや、カメラ=万年筆の佐藤優介くん、Babi,マイカなど20代の音楽家ともいまだに触れられる場所にいるわけですから。

70年代から音楽制作に関わってきた牧村さんにとって、今の音楽シーンはどのように映りますか?

音楽を取り巻く環境や状況は変わっていくのは当然ですが、その変化をチャンスと捉える人もいれば、悲観する人もいる。今、インディーズでこつこつ地道にやっている人も、自負があって、良いリスナーがついていれば諦める必要はない。優れた若手ミュージシャンを輩出しているカクバリズムの角張渉さんは、「トラットリア」後にプロデューサーの櫻木景くんが始動したレーベル「フェリシティ」に影響を受けたそうで、それは僕らがやってきたことが絶えていないということでもあるんじゃないかと。
僕は、包み紙は変わっても、評価され、残っていく音楽は共通であり、決してなくならないと思います。その中身をつくっていく方法やヒントを伝えてゆくのが、明日をも知れない時代から探り探り50年もやってきた僕の役目なのかもしれません。

書影表1
『「ヒットソング」の作りかた 大滝詠一と日本ポップスの開拓者たち』
牧村憲一 著
NHK出版

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牧村憲一

1946年、東京都渋谷区生まれ。1970年前後からフォークソングに関わり、六文銭のマネージャーを経て、ユイ音楽出版、ON・アソシエイツで音楽ディレクターとして活動を始める。70年代後半からは、大貫妙子、竹内まりや、加藤和彦などの制作・プロデュースに関わり、84年からは細野晴臣のレーベル、ノン・スタンダード、88年からはフリッパーズ・ギターを輩出したポリスター・レコードで手腕をふるう。現在は「音学校」主宰、執筆、トークイベントなどでも活躍。著書に『未来型サバイバル音楽論』(津田大介との共著)、『ニッポン・ポップス・クロニクル1969-1989』がある。

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