90年代ハウス全盛期の混沌としたダンスフロアと、デジタル配信への転換を経て、東京のハウス・シーンはどう刷新したか。Nagi Suganoが考察する。
そんな素晴らしい数々の光景を、いま、とても懐かい気持ちで思い出している。あの頃のハウス・パーティの姿を、いまの東京で体験するのは難しくなってしまった。曲の知識などの音楽的な偏差値という点だけでなく、パーティに集まる客層も、随分とおとなしくなった。喧嘩が減ったのは良いことだけれど、個性と個性がぶつかるほどの化学反応が、いまは極端に減ってしまったように感じる。もしかしたら、いまハウスのパーティに通っている多くの若い人々には、90年代のフロアの光景を想像することも出来ないかもしれない。80年代後半から90年代頭のバブル期の好景気に後押しされた華やかな時代を経て、いま、アメリカから影響を受けた東京のハウス・シーンは、新しい局面を迎えている。90年代から現在までに起こった様々な変化を紐解きながら、次世代の未知なる可能性を探っていきたい。
90年代のハウス・シーンを知らない若い世代に、あの頃の個性が混ざり合う魅力的な煌めきを、どう伝えるのが適切だろうか? まず、アメリカ、特にNYを中心に発展したソウルフルなハウスとはどういったものなのか、を説明しておきたい。ハウスはシカゴで生まれた、とされているが、産みの親Frankie Knucklesが語った「ハウスは、ディスコの復讐なのだ」という言葉は、ハウスというジャンルをとても良く象徴している。黒人、同性愛者を象徴するディスコが一世を風靡したことに嫌悪感を抱いていた人々が、シカゴの球場でディスコのレコードを大量に集めて爆発させるデモンストレーションを起こしたのが79年。それからディスコは急速に衰退するのだが、そんなシカゴでFrankieは黒人と同性愛者の集まるパーティを続け、ディスコを工夫して掛け続け、その積み重ねがハウス・ミュージックの誕生に繋がった。差別に囲まれる環境のなかで、パーティは1つのコミュニティを形成し、人々はその場所で外の社会では得られない精神的な支えを得る。Frankieはディスコをエディットし、ビートを付けたが、それは曲の幸福感を引き延ばすための施しで、荒々しさや暴力性といったものとは違うものだった。
彼はもともとNYのクラブ・カルチャーの中で育っており、そのため、当時のディスコから繋がるNYのパーティと精神性はとても近かった。Paradise GarageのレジデントDJ Larry Levanや、The Loft主宰David MancusoといったNYのシーンに大きな影響を与えたキーパーソンが手掛けたパーティは、人種差別、同性愛者蔑視、貧富の差異、そういったものを全部無効にし、その場にいる人々がそれぞれの個性を表現し、尊重し合いながら楽しむことが重要事項だった。毎週その場所に通い、いつも顔を合わせることで、自然と仲間意識が生まれた。DJはインストやトラックも掛けたが、メッセージ性が強く、感情をストレートに表現するヴォーカル曲が多くプレイされた。その当時はディスコやハウスがビルボードなどのトップ・チャートを賑わせていたので、当時流行のポップ・ソングが掛かることもしょっちゅうで、そんな誰もが知っている曲をどうプレイして、人びとの心をよりエモーショナルにさせるか、をDJは競い合っていた。
例えばT-Connection “Do What You Wanna Do”や、Dee Dee Bridgewater “Bad For Me”、Taana Gardner “When You Touch Me”などを、頭からではなく曲の中盤から掛けるという、当時の多くのDJが好んだお決まりのパターンを知っている人は、DJだけでなくフロアにも沢山いた。勿論、誰も知らない素晴らしい曲、を発見することにもDJは夢中になったが、これだ、という曲を見つけると、聴き手に覚えてもらう為に何度も掛けて、自身のクラシックスを作っていった。DJとクラウドがお互いに好��な音楽を、繰り返し共有することでパーティの連帯感と幸福感が生まれる。この価値観はアメリカ的なソウルフル・ハウスの最も大きな特徴だと思う。「あのパーティに行けばあの曲が聴ける」「マイケル・ジャクソンのあの曲があんなに素敵に聴こえると思わなかった」そんな喜びが欲しくて、人々はパーティに通っていた。新しい音、奇抜な音、珍しい音も楽しんだが、メロディアスで、エモーショナルな音楽に心の救いを求めていたので、例えばLarry Levanがアンダーグラウンドで荒削りなトラックを延々掛け続け暗黒の世界を演出したとしても、そこで踊る人々はその後に魂を救う音楽が必ずやってくるだろうと信じていたという。
The Shelterを主宰したTimmy Regisfordは「素晴らしい歌詞こそが人の心に届く」と語り、何よりも歌を重要視した。ゴスペル・ハウスのような解りやすいメッセージだけでなく、ラブソングの歌詞を繋げるように曲を紡いでゆき、新旧の曲を自由に組み合わせてストーリーを作った。ダンスフロアはダンサーが多かったが、ダンスが巧いものだけが目立つ場所ではなかった。例えば、あるものは毎回スーパーマンのTシャツを着てDJに熱い視線を投げながらフロアで待機し、ついに彼が求めていたダンス・クラシックスJan Leslie Holmes “I’m Your Superman”をDJがプレイしたその瞬間、嬉々として床を空飛ぶように何度も滑るので、そこではちょっとした有名人になった。それぞれが、それぞれの個性を、ダンスフロアで自由に表現した。DJが一晩を通して繰り広げられるドラマとメッセージ、そしてDJのストーリーを理解し評価できるだけの音楽的知識、(Tシャツを着るというアピールも含めて)DJに積極的に意志を伝えられるフロアのパワーは、DJ主導のパーティとは違う、対等で創造的なパーティを作り上げていた。
90年代に入ってから、Paradise GarageなどのNYのパーティを体験した人々がLarry LevanをはじめとするNYのDJを招聘するようになったことや、Larry Levanと共にChoiceでプレイしたDJ Noriのような現地で経験を積んだ日本人DJが帰国し、ハウスという音楽が東京に伝えられてゆく。伝説のクラブ芝浦Goldが89年末に、また91年末にも西麻布にSpace Lab Yellowがオープン。こういった大箱で開催されるハウス系パーティはDJ EMMAや高橋透などの日本人DJの活躍もあり、大きな成功を収めた。ハウスは一般層にも浸透し、音楽そのものだけでなく、カルチャーも伝えられるようになる。例えば、NYのゲイ・シーンがハウスと影響し合いながら生まれたダンス表現、ヴォーギングのショーケースもGoldで行われた。ヴォーギングは同性愛者という理由で堂々と社会生活を送れない人々が集まり支え合ったコミュニティのなかで、ハウスやディスコに合わせて「どれだけ美しく独創的な表現をするか」を競い合って進化したものの1つだ。ハウスとゲイ・カルチャーは、日本でも密接に関わっていた。
92年からDJのキャリアをスタートし、00年から新宿2丁目を代表するゲイミックスのハウス・パーティRobot Funkを主宰しているDJ Wara氏は、当時を振り返ってこう語る。「僕も当時のハウスの洗礼を受けた世代なので、時代の雰囲気はよくわかります。90年代始めの頃は特にハウスもそんなに言葉でジャンル分けもされていなかったし、フロアで掛かっている音も大雑把に”ハウス”という感じだったような記憶があります。ハウスの持つ空気というか雰囲気も、C+C Music Factoryのような、どメジャーの中にキラリと光るアンダーグラウンド魂といいますか、メジャーとアンダーグラウンドが同時に存在する稀有なものと感じていました。付加価値に囚われない自由さ、セクシャリティなど関係ないウェルカムな空気、当時は今とは違いクラブという場所がそんなに気軽に行けるような場所でもなかったし、情報も限られており、社会からみればアウトサイダーに位置するゲイのテイストに合っていたというのも大きいと思います。Paradise Garageから始まったガラージのスピリットを箱もパーティも受け継いでいたのであれば、当然の事だったのかもしれません。」
当時のハウスのダンスフロアを彩っていたのは、ゲイ・カルチャーだけではなく、ダンサーの存在も大きかった。ダンサーが音楽と呼応する身体表現に、ダンサーではないハウス・ファンもそれを見て、横にステップを踏むだけではない、全身で踊る楽しさを覚えた。NYでは普通のお客さんでもダンスがとても巧いが、似たような現象が日本でも起きていた。ダンス・パーティを97年から東京で主宰し、Yellowにて00年頭から04年までCi-pherを主宰した、ダンス・ユニット至芸のNaoki氏から、当時のクラブに集まるダンサーについて話を伺った。「昔はレッスンや映像やスタジオも殆ど無かったので、ダンサーはクラブに行き、ダンスを実際に見て学ぶ事や、踊り合う事が多かったと思います。あと、当時のクラブにいるダンサーの人達やクラブにいる人達のカリスマ性も強かったし、当時誰も目をつけてないアメリカの情報を現地に行っていち早く取り入れたりと、現場に行って行動する人達が東京のシーンをリードしていましたし、存在自体もお洒落な人達が沢山いました。ハウスが色んなジャンルの音楽を吸収したように、人との交流からの情報が発信となり、様々なスタイルを自由に取り入れた、ダンサー独自のファッションやスタイルが生まれていたと思います。テレビや雑誌やラジオでは得られない音楽やファションが、クラブなどには沢山ありました。当時はネットも情報も遊び場も少なかったので、モデルやスタイリストなど様々な人達がパーティに遊びに来ていました。」
ゲイやダンサーだけでなく、新しい刺激とカルチャーを求めた人々が、パーティに集まっていたことを伺える証言だ。そして、当然、ダンスフロアには多くのハウス・ミュージックを愛する人々が集まっていたが、当時のハウスの勢いは、パーティだけでなく、ヴァイナルのリリース量からも確認することが出来る。93年から渋谷の宇田川町に出店し、クラブ系全般の新譜の取扱いを開始した老舗レコード店Manhattann Recordsに07年まで在籍、00年頃からハウス・バイヤー業務を担当していた田代純氏(現BBQ、A&R担当)に、90年代のハウス全盛期において、クラブ / ダンス・ミュージック全体のレコードプレスのなかで、ハウスのレコードが占める割合はどのくらいだったのかを尋ねた。「プレス数の割合は、はっきりと解りませんが、ハウスも相当数プレスしていたかと思います。1タイトルのプレス数は、当然メジャーがリリースするようなヒップホップやR&Bの方が多かったと思いますが、タイトル数的にいえばハウスの方が断然多いので、総数として考えるとハウスもヒップホップなどのメジャーリリースに迫るものだったのかもしれません。(USハウスの1タイトルの売り上げについて)当時の売れるもので300枚とか500枚くらいですかね。独占プレスタイトルとかは1,000枚とか売れることもありました。」
いま、アナログブームとも言われるが、クラブ・ミュージックの1タイトルについてのプレス数が300枚程度で、多くても1,000枚とのこと。当時のように、ハウスのタイトルで1つの店舗で300枚以上売れる、というのは、現在の状況と比較すると雲泥の差だ。当時はDJだけではなく、純粋な音楽リスナーも12インチを購入していたという背景もある。好きな曲はフロアでだけでなく、自分で持っていたい、という人々が多かったし、フロアのヒットと、店頭の売り上げが結びついていた。逆に言えば、店頭の新入荷タイトルに付けられたコメントの文章に、例えば「Body&SOULでヘヴィー・プレイ」と書いてあれば、それをDJがチェックし、フロアでプレイされ、日本でもヒットする、という流れがざらにあった。ちなみに、田代氏の在籍時はハウスを中心に扱う代表的なレコード店が宇田川町には他にも2店舗あった。Ciscoのハウス店とDMRで、DJたちはこの3店舗を中心に新譜をチェックした。ときにはDisk Unionなどにも足を運び、出たばかりの新譜が中古で売られているのを発見したり、次はダンス・クラシックスを扱う中古専門店に行くなど、宇田川町のなかだけで、ハウスDJは新譜も旧譜も時間をかけて掘ることが出来た。
その後、04年には音楽配信サービスiTunes Storeがサービスを開始、BeatportやTraxsourceといったダンス・ミュージック専門の配信サイトも開始。アナログのみだったDJのプレイスタイルに変化が起きるようになる。CDJが多くのDJブースに配備されるようになり、違法ダウンロード・サイトも乱立し、アナログの売り上げが減少していく。この頃の状況を、90年代から精力的にリリースを続けるNYの老舗ハウス・レーベルKing Street Sounds主宰、Hisa Isihioka氏から教えてもらった。「(アナログを作るのは)いまから10、11年くらい前から減っていった感じです。レーベルをスタートした当初から主に取引していたUnique、Watts、Downtownといったアメリカの大手のディストリビューターが、かなりの額の未払金を残して相次いで倒産したので。また、同じ時期に、Beatport、Traxsource、iTuneといった配信の売り上げが伸びてきたのも理由ですね。影響力を持ったDJ達がデータをプレイするようになったのが1つの理由だと思います。」
US系のハウスのレコードのリリースが減少したのはいつ頃なのか、田代氏にも伺った。
「僕が在職していた2007年頃までは明らかにリリースが減ったような感じはありませんでした。ただ売れるものが偏ってきましたね。よりポップな傾向が強くなって、ユーザーも販売店/メーカーもそういう流れになってきたのがそのあたりだったかと思います。King Street SoundsがYukiの12インチ(Eric Kupperがハウス・リミックスした“Joy” )を出した時期ですね。あのリリースは僕的に超インパクトがあったのを覚えています。時代がちょっと変わった感がありました。」
08年以降、多くのUS系のハウス・レーベルがレコードをプレスするのを諦め、配信での販売に移行してゆく。例えばLouie VegaのレーベルVega Recordsも08年あたりからアナログを作らなくなった。だが、以前と変わらずクオリティの高い楽曲を発表し続けていた。Elements Of Life “Into My Life (You Brought The Sunshine)”も配信のみのリリースだったが、Traxsourceのチャートにも随分長くランクインしており、US系の多くのDJがヘヴィー・プレイした。この年、東京でのBody & SOULは国技館で開催され、Danny Krivitが大定番Donna Allen“He Is The Joy”で会場を大いに沸かせたあとに、さきの“Into My Life”をプレイした。NYならば通用するはずのヒット曲連続の繋ぎだったが、急にお客さんの熱が冷めてしまった。Dannyだけではなく、Joaquin Claussell、François Kevorkianも怪訝そうな表情をした。なぜこの曲が受けないのだろう? 答えは1つ、アナログでリリースされていないので、日本においては多くのDJやハウス・ファンがこの曲を知らなかったのだ。これまでは、NYのハウス・シーンのヒット曲は大体日本にも伝わっていた。だが、ソウルフル・ハウスを多く扱っているTraxsourceには毎日沢山の新譜がリリースされていたにも関わらず、当時はその存在を知らない者も多く、またあまりに膨大な数の楽曲がリリースされるため、どの曲が本当に聴くべきかを容易に判断出来ず、英語表記のため購入方法が解らない者も多かった。
それまでは、レコード店に行けば、各タイトルに添えられたコメントを読んだり、馴染みの店員に自分に合うお奨めを教えてもらえば、自分の好みのものを探すことが出来た。だが、Traxsourceはどこを見ても英語で、自分の耳を信じて膨大な数を試聴するしかない。Hisa氏は自身のレーベルでの現在のリリース状況に関して、「現在King Street Sounds / Nite Grooves / Street Kingと基本3つのレーベルを運営していますが、アナログでリリースしているのは、配信のリリースの1割以下です」と説明する。 また、名古屋でレコード店Pigeon Recordsを経営する服部雄亮氏も同様の現状を口にしている。Traxsourceでヒットが確実視されるようなリリース・タイトルでさえも「残念ながらほとんどレコードでは流通していません。最近ではVega Recordsがまたヴァイナル・リリースをするようになってきたので、他のレーベルも追随するといいのですが…」また、服部氏はこのようにも述べている。「DJ以外でTraxsourceやBeatport等の配信サイトで買っている人は、ほぼいないだろうと思います。」
素晴らしい新譜があったとしても、アナログ・カットされなければ、日本の聴き手にはなかなか届かない、そんな状況が伺えるが、NYについては、アナログから配信にリリース形態が切り替わった08年頃と同じように、現在もDJは積極的に新しい曲をプレイしている。昨年活動45周年を迎えたDanny Krivitが主宰するパーティ718 Sessionsは、毎回多くのク��ウドで賑わっている。何十年にわたって多くのDJが掛け続けてきたクラシックスを飽きさせずにプレイするスキルに定評があり、また長年彼をサポートしてきたファンもそれを求めているので、DJセットの多くはオールド・スクールな楽曲だ。だが、彼自信が素晴らしいと思う新譜は必ずプレイするし、特にヒット曲であれば、いい反応がクラウドから返ってくる。このパーティはもともとブルックリンから始まったが、現在まで何度も箱の移動を余儀なくされた。セキュリティ・スタッフの対応が厳しすぎで離れた場所や、昨年まで開催していたSantosはクローズし、今年はブルックリンのAnalogやOutputなどで行われる予定になっている。
ブルックリン出身で、90年代前半に人気を誇った伝説のパーティーAfter LifeのレジデントDJとして活躍したKim Lightfoot氏はこう語る。「90年代、僕らはロフトスペースを借り切ってパーティを行っていた。でも今のNYではナイトクラブへの厳しい法律でそういう事は簡単に出来なくなっているんだよね(94年にNY市長に選出されたRudolph Giulianiがナイトクラブに対して厳しい政策を行ったことについては、多くのNYのDJや当時のシーンに関わっていた人々から非難の声を聞いた)。昔遊びに出ていた大半の人たちは、いまは年も取ってきているし、たまにしかパーティに来なくなっているのは確かだ。けれども、俺たちの時代を見て体験してきたフレッシュな若い世代のダンサー達が昔の良い部分を継承してくれているし、まだまだAfter Lifeの頃から今でも踊り続けてくれているダンサーとプロデューサー達が、今現在のハウス・シーンが途絶えないように頑張ってくれているよ。」
この、Kimが語る、「ハウス・シーンが途絶えないように」という考えは、90年のハウスを経験した人々にとっては共通の認識のように思う。最新の曲を楽しむのと同時に、いつも掛かるクラシックスの知識をフロアとDJが共有し、その曲をどう掛け、どうストーリーを作るか、が、ソウルフルなハウスの醍醐味だし、パーティを最大限に楽しむ為には、そういった知識をDJだけでなくクラウドも必要とされていた。私自身も、NYのパーティでなかなか入場出来させてもらえなかったとき、たまたまBrainstorm “Lovin’ Is Really My Game”がドア越しに聴こえて、そのサビを口ずさんだら、黒人の女性に「あら、あなたこの曲を知ってるのね、じゃあ入って良いわよ」と声を掛けられ、料金も払わずに入れてもらった経験がある。Paradise Garageの頃から培われたハウス・シーンは、人種や性別、社会的地位や貧富といった、差別につながるような価値基準を持つのは止めよう、という理想が根底にあった。おそらく、だからこそ、どれだけこのコミュニティで支持された音楽を知っているか、ということが、個々の人間に対しての評価基準になっていたのだと思う。自分達が愛するこの曲を、同じように好きならば、きっと悪い人間ではない筈だ。そんな共通認識が存在した。ハウスにしろ、ディスコソングにしろ、クラシックスと言われるまでに多くの人に愛された曲を、まるで自分達のアイデンティティ(もしくは、絶対に色褪せない美しい思い出)のように、とても大切にしてきた。
では、日本ではどうなのだろう? NYのハウス・コミュニティとの大きな違いは、英語の歌詞の内容を理解出来ない状況が頻繁に起きるため、ストーリーが伝わらず、一体感が生まれるチャンスを逃してしまうことが、たびたび起こってしまう、という点だと思う。Timmy Regisfordは日本で特に人気の高いDJだが、彼のプレイ中に、メッセージの1つとして選ばれた曲の歌詞が人々の心に届かない、そんな光景を数多く見てきた。大定番とされるStevie Wonder “Another Star”は、簡略すれば「君には他に輝ける星が見えるのかもしれない、僕には君の光しか見えないのに」という内容のとても切ない曲だが、東京では明解なメロディでラララと歌われるリフレインを、フロアにいる多くの人が笑顔で大合唱をする。この曲に対するこのような愛し方は日本独自だと思う。だが、歌詞が聴き取れないからこそ音楽そのものに集中できるという考え方もあって、これは英語圏に育たなかった日本人ならではの利点と言っても良いのかもしれない。歌詞に縛られすぎないからこそ、美しい音楽を発見することもある。
また、NYは現在もダンサーがパーティに遊びに行くが、日本のハウス・パーティにおいては、以前と比較すると随分と減少した。現在もパーティでよく顔を合わせるダンサーたちはいるが、彼らは一様に口を揃えてこう言う。「いまは(あらかじめ振り付けを決めたものを披露する)ショウケースと、(どちらがダンスが巧いかを競う)ダンスバトルが中心で、クラブにはわざわざ足を運ばないし、遊ばない。」長年クラブのフロアを見守ってきたNaoki氏は補足する。「いまの時代は子どもの頃からスタジオで先にダンスを学ぶ事ができ、クラブに行かなくても映像やカリスマ性の強い先生にスタジオのレッスンや映像で出会う事ができる。ダンスも1人でも出来る環境も沢山あって、以前はクラブに行って得ていたものを、スタジオやネットで補える環境になったのかなと思います。」
現在、ダンサーだけでなく、ゲイの人々も、普通のハウス・パーティにはあまり足を運ばなくなったような印象が強い。DJ Wara氏は、ゲイ・シーンの状況の変化について細かく説明してくれた。「求めている音の種類の違いと、時代の流れはあると思います。ゲイナイトは基本的にハード・ハウスがメインの音になるのですが、90年中盤あたりからのJunior Vasques、Danny Tenaglia、Peter Rauhoferなどを筆頭にするNYハード・ハウス・シーンの台頭により、一層シーンと音の違いが際立ち、別のもの、という立ち位置に移動したのかもしれません。ここ数年の世界のゲイナイトでの大きな流れは『サーキット・パーティ』と呼ばれるシーンです。各国で大規模なパーティが開催され、近隣各国の遊び好きのゲイが一同に集まり、短期間で次々開催されるパーティを『はしご=サーキット』するフェス的なものです。音的には基本NYハード・ハウスの進化系で、Peter Rauhoferのテイストが更にキャッチーに強まった感じです。みんなが大好きなお約束のDIVA歌ものも欠かせません。PeterはNYハード・ハウスの一派のなかでは一番コマーシャルな要素が大きく、白人層にアピールする要路が強かったと思います。Junior、DannyのDJにみられるマッドでカオスな要素はあまりなく、この辺りの音はややチージーに聞こえてしまう感じもあり、通常のハウス・シーンではあまり掛からない音かもしれません。そういう大きくて開放的なゲイナイト・シーンの流れとはまた別に、ヨーロッパなどではディスコ・ダブからの流れに入ると思われるアンダーグラウンドなゲイ・シーンも活性化していると聞きます。大きいメジャーなシーンと、ゲイナイトならではのアンダーグラウンドなシーン。細分化されているからこそ、選択肢もいろいろあるし、2丁目以外のパーティでも気がつかないだけで、あなたの隣で踊っている子もゲイだった、ということはあるかな?と思います。」
現在の東京のシーンにおいて、2丁目以外の箱でアンダーグラウンドなパーティを実現させようとしているのが、05年からベルリンで長期滞在を重ねBerghain / PanoramabarなどでDJの経験を積み、現在は渋谷ContactでMotorpoolというパーティを主宰 / DJするDSKE氏だ。彼から見て、享楽的なだけではない、音楽的な側面を重点に置いたゲイ・パーティというのは、日本ではどの程度存在するのか。「現状の2丁目のクラブのパーティの音楽は、殆どが商業的なポップスとかサーキット系ばかりで、サプライズが無い音楽ばかりです。日本、アジアはクラブ・パーティにおいてセクシャリティの境界線がはっきりしていて、色んな人種、セクシャリティのミックスされたパーティは非常に少ないと思います。ベルリンは基本的にアンダーグラウンドなダンス・ミュージックで、色んな人がミックスされたパーティが多く、境界線が無いパーティが多いという事に大きな違いを感じます。」
「アンダーグラウンドなダンス・ミュージックという点に関して言うと、日本では片手で数える位しか無いです。これには色んな問題があってこういう現状になっていると思うのですが…。USのゲイ・シーンは、少し前までは今の日本と同じような状況だったと思うんですが、Honey Soundsystemとかの世代の活躍によってそこから脱却して、アンダーグラウンドシーンが盛り上がって、今のような面白いシーンが出来ています。彼らの活躍を見て、自分もやってみようって思ったのがきっかけでMotorpoolを始めました。ただ、音楽とアーティストだけを全面にアプローチしたプロモーションではあまりゲイ・クラバーの集客が期待出来ないのが現状で、これはもしかしたら、世界共通なんじゃないかな? と思ってます。しかし、ゲイ・パーティの面白さは、音楽はもちろんですが、そこにいる人たちが作る空気感が楽しいんです。Motorpoolも、もちろん音楽性に関してこだわってやっていますが、クラブ・パーティにおいて大事な人との出会いや、非日常的な空間作りもとても大事にしています。僕は遊びに行ったパーティに変態が居ないと、音が良くてもちょっと物足りないんです。」
パーティに対して多様性を求める声は多いし、より個性的な空間を演出するのに必要な要素であるのは、間違いない。だが、その多様性の核となるものは、素晴らしい音楽であるべきだし、そうでありたい、とDJならば願うはずだ。デジタル配信での音楽産業が本格的に始まって10年が経過したが、東京ではここ数年でTraxsourceやBeatportのリリースについて情報交換が出来るDJが随分と増えてきた。実際にTraxsourceのスタッフに確認したところ、この10年を振り返ってみても、日本からの購買数は増え続けているという。実は、US系のハウスについては、大阪は東京よりも早い段階からDJとダンスフロアで新譜を共有することに成功している。ユニットThe 5 CircleのK-Katsu氏とMasaaki氏。この2人は大阪で毎週DJをする場所があり、それは新しい曲をお客さんに知ってもらうことに大きなプラスになっている筈だが、彼ら自身はどう思っているのだろうか。
「勿論プラスです。かれこれ大阪で毎週帯でレギュラーをやり始めて10年程経ちますが、山も谷も経験して継続が力になっていると思います。勿論新旧混ぜますが、毎週新しい曲をプレイし続ける事が大事だと思ってます。毎週古い曲だけだと、自分もお客さんも飽きちゃうと思うので。バランスは凄く大事ですが、新譜の割合は多いと思います。新しい曲をプレイし続ければ古い曲も、これ新譜ですか?って聞かれますからね。(K-Katsu氏)」
「とにかくかけ続けることですかね。同じ曲を何度も。遊びに来てくれているお客さんは、基本的には曲の細かいディティールはわからないと思うので、リリースされた旬な時期はとにかくかけ続けます。あとは歌ものには特に気を使ってチョイスしています。(Masaaki氏)」
大阪といえば風営法の打撃を多く受けた場所だが、そんななかで現場を守るのは大変なのではないだろうか。「自分のモチベーションの維持が大事ですね。やはりそこが高くないと伝わらないと思います。毎年NYに1ヶ月程滞在してDJもやり、毎晩の様にクラブに出掛けるのですが、そこに広がるのはやっぱり理想的な空間だったり遊び方で、そこで受けるもの全てをモチベーションに変えて日本でも活動してます。(K-Katsu氏)」
「自分自身はなかなか難しい時期に来ているのかなと感じています。ジャンルの細分化と言うか、ハウスに対する捉え方も多様化して来ているし、ツールも日々変わっています。DJとして自分の色をどう表現するか。ハウスを好きになってもらえるか。月並みな表現ですが、そういった仲間を増やす努力として、あくまでお客さんや仲間に対してですが、自分の好きなアーティストの曲や今のハマっている曲、DJ Mixをシェアしたり、1回1回のDJを大事にしています。僕の場合はハウスの専門店unionで働いているので、出発地点として既にハウスに興味があるお客さんが足を運んでくれています。その中でハウスの魅力、自分自身も勉強の過程ですが、その歴史を伝える。例えそれが難しい話であったとしても、興味を持ってまた遊びに来てくれる様に、なるべく近い距離でアプローチすることを心掛けています。(Masaaki氏)」
この2人の会話から伺えるのは、彼ら自身がシーンに音楽を伝える、と���う意識を強く持っていること。彼らは、時には2人で一週間に5回DJすることもあるという。DJの回数が多い、ということは、それだけ彼らが信じる音楽を伝える機会が多い、ということだ。名古屋の服部氏も、「自分が気に入った新譜の曲だと一晩に何度もプレイしています。」そして、「お客さんにとっては新譜でも旧譜でも初めて聴く曲はたくさんあると思うので、そこまで(新譜を伝えるということに)気を遣っているわけではありません」と続けている。
これまでのアメリカの伝統を受け継ぐハウス・ミュージックは、フロアの一体感を作る為に過去の定番曲(それらの多くがアメリカのDJが作りあげたもの)を掛けることが常だった。だが、東京においてもダンス・クラシックスをリアルタイムに愛した人々が年を重ねて現場から少しずつ遠のき、若い人々が新たに遊びに来て、シーンが入れ替わりつつある現在、もしかしたら、これまでとは違う、NYの流儀に縛られすぎないハウス・シーンが生まれるかもしれない。いまダンスフロアに立つ人間にとっては、20年前に誰もが知っていた曲でも、それを初めて聴くときは、それは昨日リリースされた新譜と同じ状況で出会っている。大阪や名古屋、そして紹介出来なかった他の都市も同様に、信じた曲を掛け続けることでそれぞれのDJがそれぞれのヒット曲を生み出しており、その瞬間ごとに、新鮮で、かつ、真剣なやりとりが、DJとダンスフロアの間で繰り返し交わされている筈である。
東京は長年のあいだ、大箱の週末は来日DJがメインタイムにプレイしているが、本来、東京のハウス・リスナーが好む音楽をもっとも知っているのは、東京で回数を重ねてDJしているローカルのDJのはずだ。他の都市と比較して、現在の東京の最も特徴的な部分は、音楽的な小箱が数多く存在している点で、何より素晴らしいのは、そこでDJ Noriや、Forth Of Nature、Kaoru Inoue、Toshiyuki Goto、他にも多くの確立したキャリアとスキルを持つベテランのDJと身近に交流をすることができ、ときには一緒にDJブースに立つ機会も多く与えられている、ということにある。DJ Noriは長年に渡って毎週水曜日にパーティを続けており、現在のパーティTreeが開催されている箱Zeroは、オープンから現在までの約4年間、音質が進化し続けいる。Oathも以前から出音の評価が高く、テクノ箱の印象が強いが、実際には多くのレギュラーDJがハウスを要所でプレイしており、海外の来客が多いこともDJのスキルアップに繋がっている。渋谷のスクランブル交差点を見下ろすBridgeも外国人の比率が高いが、音楽的にはハウスやダンス・クラシックスだけでなく、ヒップホップ、レゲエなど、様々なジャンルをDJはプレイすることが出来る。Solfaは若いDJが多くラインナップも幅広いのが特徴で、ここも先日音質面の向上を目的にメインフロアをリニューアルした。
これらの箱だけでなく、東京の小箱の多くが音質に対して意識が高く、そして若手とベテランが混在するラインナップを組んでいる。東京のハウスDJは、小箱が育てている、と言っても過言ではないかもしれない。勿論、小箱の経験は、大箱でのDJには通用しない、という意見も有るが、それならば、大箱の経験を積むチャンスを掴みにいけばいいのではないだろうか。東京に沢山の素晴らしい大箱が有るのに、日本人のレギュラーDJがほとんど存在しない、というのは、世界的に見ても奇妙な状況で、それは誰もが感じていることだと思う。ただし、大箱でDJをするのには、音楽性の追究だけでなく、相応の評価と努力が必要とされることを忘れてはならない。
たとえば、メインタイムにブッキングされる招聘DJの殆どは、自身のDJ MixをSouncloudなどにアップしているし、楽曲をリリースしている。SNSも積極的に活用してセルフ・プロモーションを怠らない。どんなに著名なDJでも、自分のDJを一人でも多くの人間に聴いて貰う為に、すべきことはやっている。特に規模の大きな会場ならば、箱側だけでなくパーティの関係者やプロモーターも情報を拡散するのに労力をつかっているし、そこに参加するならば、宣伝について協力し合うことで、よりパーティの成功に繋がるはずだ。Danny Krivitだって、週末はパーティに足を運び、718 sessionsのフライヤーを積極的に手渡していた。ときには「これ、前にもう貰ったよ!」って言われながら。集客、という言葉を嫌がるDJは多いが、自分の音楽を聞いて欲しい、と、声を掛けることは、自分が表現する音楽に責任を持つということだと常々思う。その意識で毎回真剣に準備すれば、よりDJのスキルも上がるし、誘ってもらったお客さんも、より真剣に音楽を聴いてくれる。そして、その人を楽しませるために「この人はどんな曲が好きだっけ?」と思いながらDJをする。自分が薦めたい新曲と、目の前の人が好む音楽、さらに、全く知らない人の表情や動きを伺いながら、次の曲を選び、流れを組み立てる。そんな音楽的なコミュニケーションの積み重ねが、経験に繋がってゆく。
DJが自身のDJを追求し、様々なキャリアのDJと共にブースに立ち、地元のクラウドと向き合うことで、より相互に刺激しあえるシーンが生まれる。ローカルのDJが、その土地のシーンとの交流を軸に活性化する。90年代の華やかな時代を懐かしむだけではない、いまこの場所で愛される音楽が、ハウス・ミュージックの明日を育ててゆく。
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