*宮城・ゆりあげ地区の小さなお宮。
今日は6年目の震災忌ですね。(正式には7回忌)
毎月11日は質素な食事で過ごし、静かに暮らします。
私の良く知っている人では2011年3月11日の日、同級生のT君(校長先生をされていて、沿岸部に出張中でした)や大学同窓会でお世話になった美女でホテルの若女将Mさん、父の仕事仲間のご家族、そして従姉妹の独り息子さんS君(当時26~7歳ぐらい)が亡くなったり行方不明になられました。
気づかないだけで、もっといらっしゃるかもしれません。
従姉妹は父の兄弟の娘さん、私と一つ違いで、お母様ともども心優しい素敵な人たちです。息子さんとは大きくなってからはお目にかかったことはありませんでしたが、仕事の休みの日で飼い犬をひしと抱きしめたまま、亡くなっていたそうです。(ゆりあげ地区にお住まいでした)
身につけていた携帯から母親である従姉妹が「彼だ」と判断でき、荼毘に伏すことができたと聞きました。当時はお互いとても辛かったのを思い出します。
今でも、まだ皆がいるようでなんともいえない気持ちです。
T君とは小・中・高と同じ学校。あだ名で呼び合う仲でした。
一方、宮城の沿岸部にお嫁に行ったHさんのことが気がかりで、ずっと折に触れ調べていましたが、なかなか判りかねていました。
しかし昨年暮れ近く、宗鑑さんや慈光さんが托鉢に行った際、「ここではないか・・?」とご主人の勤める病院を探し出してくれ、なんと連絡がついたのです!
ちょうど私が入院して一ヶ月経った頃のことで、すぐお手紙を書きました。
そしてメールが届き、うん十年ぶりに喜びの声の交換をしたのでした。本当に嬉しかった。Hさんも小学校からの友人で、高校も同じ。笑窪のある、とても可愛い方です。
「こっちには津波来なかったのよ!!牧ちゃん(私の本名)、なんて嬉しいの~~!!また絶対、会おうね!!」
と、元気な声が携帯を通じ、耳に響きました。
彼女は震災後、石巻で毎年ボランティアをされているとか。4人のお嬢さんを育て、何かとお忙しいご様子。元気になったら、是非会おうと思っています。
時はうつろい、現実の事象も無常です。だからこそ、辛い記憶は辛いだけで終わらず、うつろうままに少しずつ「今」に融け、生かされていくことができるのか・・と感じます。勿論、ご家族をこういった形で亡くすということは衝撃であり、心に大きな傷を残しかねません。時間が経っても、そういった方々は確かにおられるでしょう。
それでも、残された人たちが前を向き、周りの人々を助け、歩んでいかれる姿にただただ熱いものを感じ、合掌するほかありません。(テレビで被災地の様子をよく番組として観ることができます)
皆さんがお店を出したり、笑顔で進路に向っておられる様子には、いつも涙してしまいます。
実は私は、怖くて震災のあった場所へは大分経ってからしか行けませんでした。
皆と一昨年、ある方を拝みに宮古へ行ったとき、浄土ヶ浜へ立ち寄りました。
波打ち際の美しい真っ白い石の海岸に、まだ強烈な匂いが残っていたのを思い出します。
うちの僧侶の皆さんは震災時からずっと拝んで歩いておられ、それが、弱虫の私のなかでほっとできる事実であり、有難いことでもあるんです。
何もできないけれど、11日だけでも、生きとし生けるものすべてに、そして震災や災害(東北だけでなく)で苦労された方々の御心に思いを馳せることができますように、と手を合わせています。
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今日の陽射しは明るく、気温は少し低い。青空が見えると、心がパッと晴れます。
地球は生き物ですから、世界中にいろんなことが起きますけれど、結局「自分」というもの(命として)は、地球そのもの・・なのかもしれませんね。
どうぞ皆様の今日のひと日が、無事で素敵な時空間でありますように・・・