ララランドの面白さを色んな人と分かち合いたい僕なのですが、
僕の周りにはこの映画に対して否定的な意見を言う人しかいなくて困っています!
仕方ないので僕のポリシーに反するとは思いつつも、
ちょっときつめの言葉も交えて全力ネタバレで考察を綴ってみます。
ちなみに、引用文含めて8000字ほどあります。
前半部分は酷評記事に対して思ったことを書いているので、考察だけ読みたい人は後半部に飛んで下さい。
酷評されるラ・ラ・ランド
僕の周辺の反応
僕は以前ララランドの感想記事を書きました。
これに対して周りからは、
「少なくとも誰にでもおすすめできる映画ではない」
「あんな脚本エ〇ゲの文法」
「ミュージカルにする意味が分からない」
などなど、凄まじい反響をいただきました笑
まあ正確には僕の記事にというよりは映画そのものの評価なわけですが。
ネタバレせずに書いてしまったため、
解説記事にならず微妙な記事になっていることは確かですし、
こんな感想じゃ「もう一回見てみよう」という気にもなってもらえんだろうと。
今でも「誰にでもおすすめできる」という考えは変わっていませんし、
今回の考察記事で「それならもう一回見てみるか?」と思わせられたらいいなーと思います。
こりゃダメだと思った酷評記事
僕は昨日、とんでもない記事を目の当たりにしました。
もうなんというか、またあなたか…と笑
菊地成孔さんを知らない人のために説明しておきますが、
この人もの凄く偉大な人なんですよ。
最近では『機動戦士ガンダム サンダーボルト』の音楽を担当した人と聞けば身近に感じる人もいるのでは?
ところがこの人のすごいところは、引用した記事の中でも自慢されていますが、
日本人ジャズミュージシャンとして初めて「インパルス!レコード」と契約したことなんです。アメリカ人以外では初らしいです。
「インパルス!レコード」はジャズ専門のレーベルで、名門中の名門です。
なのでジャズ界では日本どころか世界でも有数の人物。
だからこそ、こんな記事で自ら悪者を買って出るようなことはやめてほしかったんですね。
酷評記事のずるいところ
上記記事を読んでなんとも言えないモヤモヤ感を抱えてしまった僕は、思わずこんなことを呟きました。
映画批評で「空気」を評価対象にしなければいけないのは、評価する人間が脚本や演出を理解できなくて「空気」でしか論じることができなかったってことなんだよね。それで適当に絶賛するのはファンとして大いに結構なんだけど、批評で飯食ってる人間が「空気」で酷評するのは一番やっちゃいけないこと。
— めっちゃ地鶏(雛) (@hinazidori) March 6, 2017
人の感性ですからね。
どんな作品だって「面白くない」って言う人は当たり前ですが存在するんです。
「つまんない」でも「合わなかった」でも構わないんですよ。
ただ、酷評するからには「~だから面白くなかった」って言ってほしいんです。
議論になるように論理的な理由をちゃんと述べてほしいんです。
どうしてこんなことを書くのか?
ちょっと上記記事から引用してみます。
そしたら理由が分かるから。
(ちょっときついこと書いたりします)
菊地成孔氏の記事は批評じゃない
以下、引用しながら進みます。
批評記事として書いたかどうかも微妙ですし、元から「炎上させて下さい」って依頼を受けて書いてる可能性もあるのですが、ちょっとその思惑にまんまと乗ってみます。
考察だけ読みたい方は、読み飛ばした方がいいです。
しかしそれでもまだ作曲賞と主演女優賞には不満がある。どちらも明らかに『ジャッキー』のが優れている。嘘だと思ったらご覧頂きたい。驚くから。『ラ・ラ・ランド』程度で喜んでいる人々は、余程の恋愛飢餓で、ミュージカルについて無知で、音楽について無知で、ジャズについては更に無知という4カードが揃っている筈、というかデイミアン・チャゼルの世界観がフィットする人々である。
観客罵倒してどうすんですか。
「ご覧頂きたい」じゃなくて、記事を書く仕事を貰ったあなたは論理的に『ジャッキー』の方が優れている理由を解説しなきゃいけないんですよ。
『セッション』を酷評した筆者のジャッジ・ポイントは、「ジャズ映画なのに、監督がジャズについて半可通すぎる」「脚本が、何が言いたいか全くわからない。最初に一発強烈なカマしがあり、客がパンチドランキング効果でクラクラきているうちに、適当で稚拙な脚本/物語が進み、エンディングに、取ってつけたような乱暴などんでん返しがあるだけの、粗悪ドラッグ」の2点だったが、どういう訳か、前者ばかりがクローズアップされた。後者を認めるのが何らかの理由で怖かったのであろう。
脚本を読み解けないのは勉強不足です。
解釈するコードを持っていなかったからです。
「適当で稚拙な」理由を論理的に説明しなきゃいけないのだから、分からないなら酷評なんてしちゃいけないんです。
分かったうえで酷評してください。
だが、この映画は、ヤオイとして、取ってつけたようなストーリーが存在し、名人によるダンスシーンだけを見せようとする、ザッツ・エンターテインメントではない。一流の演技力を持つ名優に、唄わせ、踊らせること、この事の価値は今、ハンパじゃない。面倒だから書かないが、完全にそういう時代なのだ。そうでしょ実際。じゃないと『逃げ恥』の説明がつかない。アイドルのスキルが高値安定している限り、この傾向は続く。
確かに、この論の展開の仕方は、評論する人が求められる仕事の内の1つかもしれない。
テクスト論から逃げて、作品を社会性や流行に照らし合わせるという俯瞰的な論調。
でもこれを一作品の評価記事でやり始めてしまうと、過去作品との中途半端な比較に終始してしまうんです。
そういう作品の相対的な評価は、類似のあらゆる作品を縦に並べてそれぞれ一つ一つ評価して、共通項を割り出した後に比較するという別の主旨の記事になってしまいます。
「ヤオイ」っていう言葉を今日日誰も使わない用法で出してきて、似てる映画を列挙するだけ列挙して、作品を外側から酷評する。
これは「ヤオイ論」という記事の中で他作品も個別に同時に論じ上げる中で、ララランドを扱うという手順にしないと作品に対してはアンフェアになる。
要するに作品外から作品を評価するのは、作品の中身の評価には繋がらないし、作品の中身を酷評した流れで書くべきことではないということ。
まとまりも説得力もなくなるし、ちょっと勉強した人ならこの時点で読む価値のない記事だって思ってしまうはず。
どんでん返しと言っても、ネタのあり方が派手なだけで、物語としては、古典的というか(前述の通り、これは『シェルブールの雨傘』を見て、良いなと思った。程度にしか思えないが)「今は成功をつかみ幸せ。でも、この幸せを、本当はあの人と掴みたかった。という想い、ありませんか?」というやつで、何つうか、結局最後もヤオイなのである。
ここを読んで僕は「ああ、やっぱりちゃんと見てないじゃないか」と思いました。
後ほど考察書きますが、表面的な筋しか辿れてないんだな、と。
でもたぶんこの人は最初から酷評するつもりで見ていたはずなので、深く考えるまでに至らなかったのでしょう。
ジャズによるレコンキスタを渇望するライアン・ゴズリングの夢は、「昔は由緒あるジャズクラブだったが、ジャズが廃れてからインチキな観光ラテン・クラブになっている店を、ジャズクラブとして奪還すること」であり、ちんまり自分の趣味の店がやりたいだけなのか、ジャズカルチャーを本気で復権させたい革命家志望なのか、ものすごく微妙なまま話が進むので、主人公の葛藤が、葛藤として機能していない。
唯一議論できる部分。
たぶんこの人の悪癖なのだろうと思うのですが、
「ちんまり自分の趣味の店がやりたいだけなのか」「ジャズカルチャーを本気で復権させたい革命家志望なのか」と、自分の知識によって「目の前で提示される映像」以上のキャラクターの背景を補完しようとしています。ここで既に作品外の要素を持って作品を見てしまっているのです。
でもむしろ、この相反する2つの志向を感じ取ったなら、どっちつかずで微妙なままになっていること自体を葛藤だと感じなかったのが不思議なんですが、どうですか?
たぶん菊地成孔氏は「海賊王に俺はなる!」っていうくらい分かりやすい主人公が好きなのだと思いますが、キャラクターが複雑な感情を持っている映画の方が多いと思うんですけどね。
でもこの部分も…
アステアなんてとんでもない役までやっている(『気儘時代』なんて、精神分析医である)。ショービズと関係無い人が突然歌い踊るのが戦前合衆国流、軍人や商売人など、リアルな町の人々が歌い踊るのが、仏流(というか、ジャック・ドゥミ・マナー)であるが、そもそも「ミュージカル」と「モダンジャズ」というのはファンクとヒップホップみたいなもので、似たような全然違うもののような、微妙な関係だ。
という流れから語られてしまった部分なんですよね。
(だから作品外から燃料持ってくるなら別記事でやれって話)
『ラ・ラ・ランド』のネタバレ考察
もう偉大なる菊地成孔氏に一般人のお前が偉そうなこと言った挙げ句にまだ考察なんてやんのかって話ですよね!笑
ただまあ菊地成孔さんの専門は評論ではないわけですし。
「ララランドの音楽部分」だけ批評していてほしかったなーという感じではあります。
対して僕は脚本寄りの人間なので。
で、お前はどんな凄い考察をするんだ?
という話になるわけですが、
「感動して家に帰って批評見たら酷評されてて言い返したいのに具体的にどこが良かったのか言い返せずもやもやしている人が、どうして感動できたのか」をテーマに考察していきたいです。
ミュージカルである理由
この映画は、主題だけ取り出すとすごく地味な映画なんです。
なぜならラストシーンにあった「後悔」という誰しもが抱える普遍的な感情を極限まで演出した映画だから。
演出さえ完璧なら観客が望まなかったであろう終わり方でも、こんなに感動できるのかと思いました。
で、その演出というやつは順を追って説明していきますが、
まず、見終わった人の中にはこれが「ミュージカル映画」と呼ばれていることに違和感を持った人もいるのでは?
恐らく、「ミュージカル映画を作ろう!」と思って作られた作品ではなく、
「この脚本ならダンスシーンがあった方がいい」という逆の手順で作られたであろう作品だからなんです。
脚本上では「ミアはピアノを弾くセブを見て過去を思い出し、後悔する」とだけ書いてあるのがラストだと思います。そのラストシーンの「後悔」をダンスで表現します。
その「後悔」を表現するためには、当然過去の出来事をフラッシュバックさせる必要があります。
ところが、ラ・ラ・ランドではちょっとやり方が違う。
突然5年後に飛んで劇中で語られなかった部分の記憶を「相手を入れ替えて」フラッシュバックさせます。
2人で過ごしていた日々の思い出は短いものでしたが、
「成功して子どもを産んで幸せな家庭を持って」という本来あり得たはずの未来と、もしかするともっとずっと先の未来をも「後悔」という感情の中に入れてダンスシーンで表現しています。
時間的な深さはもちろん、あるかもしれない一生分の「後悔」があのラストシーンには詰まっていました。
「感動したけどうまく説明できない」という人は、この巨大な感情によって無意識的に感動できたんだと思います。
いきなり5年後にスキップするのは唐突と言う人の気持ちも分かります。
ただそれは、ラストのダンスシーンを見れば、「未来の後悔」を描写しその可能性を示唆するための必然だったと気づくはずです。
そして僕は、最初から酷評するつもりでもなければ、
この映画はそこに至るまでにダンスシーンで巧妙に感情のセットアップをしていたと思っていますし、
だから感情移入できて、万人が「後悔」という普遍的な感情で感動できる作品だと思ったのです。
遡及的な脚本
この作品の主人公はミアです。
セブではなく、ミアです。
ということが、あの感動的なラストシーンで明らかになる構成になっています。
ラストシーンに至るまでのダンスシーンは、
ミュージカル的な演出の一部だと思いながら観るのが普通だと思います。
なぜならそういう売り方をしているから(ちょっとずるいですよね笑)。
ところが、ラストのダンスシーンでネタ晴らしがあります。
ラストシーンは明確にミアの完全一人称であり、ミアの「妄想」だったわけですよね。
ここで、「今までのダンスシーンはミアの心情を反映したものだったのでは?」という考察の切り口の示唆を与えてくれます。
冒頭のダンスはミアが「つまらないなー何か面白いことないかなー」という妄想を描写したもの…
つまらなかったパーティも同様に…
あの天文台のシーンは「ミアが」宙に浮かぶほど嬉しかったということなんだ…
といった具合に。
このようにダンスシーンが脚本的な意味を持ってしまうので、
「ミュージカル映画」という売り方や呼び方に違和感を感じてしまう人が多いのだと思います。
舞台的なダンスシーンと見せかけて、実は一人称的なダンスシーンなのですから。
ラストのダンスシーンが終わって「現実は違う」と分かってしまった瞬間、
同時に過去のダンスシーンがそのまま「ミアの感情」であると理解し伏線が回収され、
ダンスシーンをミアと一緒に楽しんだ観客だからこそ、
「あんなに楽しかったのにもう元には戻らないんだ」とリンクしてしまった上での「後悔」を感じる…ここに最高レベルで感動できるのです。
そういう意味で遡及的というか逆行的というか倒置法的というか、本来「ダンスはミアの心情だよ」として始めればいいところを最後まで隠し通すという手順が逆になってしまった脚本なのでした。
大博打的な脚本構成
ラストシーンに全てを持ってきたという意味で、この映画は大博打だったのです。
ラストシーンまでに適切な感情のセットアップがされなかった観客は、
ダンスシーンと脚本を切り離してしまい「ありきたりで陳腐な脚本」だったと言ってしまう危険性があります。
なぜならラストシーンは「それまでのダンスシーンを楽しむ」ことができて、「ミアに感情移入した人」しか理解できないシーンだからです。
そしてここで理解してもらわなければ、
遡及的であるからこそ意味のある脚本も同時にまったく理解されずに終わってしまうということなのです。
博打でしょう?
どんでん返しが存在しているのに、そのどんでん返しは「面白くないと思っている人の評価を覆すもの」ではなく、
「ここまで面白いと思っていた人のためのもの」だったのです。
さらに付け加えて言うなら、
「ここまで面白いと思っていてハッピーエンドになるだろうと予想した人を裏切るため」のどんでん返しなんです。
なのにそれでも「後悔」とか「切なさ」といった感情が、
脚本によって最高潮にまでセットアップされて、トドメのダンスシーンの描写で大きな感動になるんです。
こんな意欲的な脚本が脚本賞を逃したことに対して、僕はショックを覚えているほどです。
あの万人ウケしそうなダンスシーンで乗せられた観客なら、最後でちゃんと感動できる構成になってはいると思うのですが、
僕の想像に反して意外と楽しめなかった人が多いのかもしれませんね。
僕はもちろんこれに感動して面白いと思った上で、さらにもの凄い脚本だと思ったので絶賛しています。
脚本が槍玉に上がるのはある意味で正しい
菊地成孔氏も「チャゼルは脚本が書けない」と言っていますが、これはある意味では正しい指摘だったりします。
ララランドの脚本は大きく分けて3パターンの解釈のされ方があると思います。
・脚本とダンスシーンを切り離してしまった上で脚本を批難
・脚本とダンスシーンの繋がりに気づいていながら脚本を批難
・脚本とダンスシーンの繋がりに気づいていて脚本を称賛
脚本とダンスシーンの繋がりに気づかずに称賛するパターンが、
「感動して家に帰って批評見たら酷評されてて言い返したいのに具体的にどこが良かったのか言い返せずもやもやしている人」だと思うので、
解釈のされ方からは外しています。
で、「脚本とダンスシーンを切り離してしまった上で脚本を批難」の場合は、もう脚本が書けないって言われても仕方ないと思います。
それはもう博打に負けたってことなのですから。
ありきたりで陳腐な脚本だと思われて当然の見方をされると思います。
「脚本とダンスシーンの繋がりに気づいていながら脚本を批難」する人の気持ちも分かります。
この脚本構成を僕は意欲的と評価しますが、
脚本構成まではある程度の客観性を保ってはいても、「意欲的」の部分は僕の主観的な評価なわけですから。
この構成を「お高く止まってる」とか「サムい」とか評価する人だっていると思います。
その上で「脚本書けない」って言われてもまあ仕方ない気はします。
正確には「脚本書けない」じゃなくて「好きになれない」なのかなあとは思いますが。
そしてこの全員が全員同じように感動できるわけではないことから、
万人ウケしない映画と言われるのも分かります。
僕は「脚本とダンスシーンの繋がりに気づいていて脚本を称賛」する派でした。
上記で全て説明した通りなのですが、似たり寄ったりの脚本で溢れるハリウッド映画の中では抜きんでていると思いました。
これがまずちょっと脚本かじっているタイプの人に称賛される理由になると思いましたし、
あとは菊地成孔氏が「観た者全員が絶賛」と表現していた僕の中ではなかなか見つからない「全員」が、その通り何も考えずに絶賛しているのだと思います。
だからわりと誰にでもウケていると思うんですが、
酷評記事ばかり目に付いてしまうのは、やはり酷評記事に共感する人が多いからなんでしょうね。
まとめ
『ラ・ラ・ランド』は伏線を回収するかの如く、ラストのダンスシーンで感情を回収していった意欲的な脚本でした。
僕と違う見方をした人がほとんどだと思います。
結局、大事なのは作品それ自体ではなく、作品を観たときに抱いた感情や感動の方です。
感想記事や批評記事を読んで「感動した自分」を偽る必要はありませんし、
逆に「クソつまらないと思っていたけど、そういうことならもう一回観てみる」というのもありだと思います。
批評でやっちゃいけないのは、
よく分かんなかったけど作品の外からそれらしい理由集めてきて「分からなかった自分」を正当化した上での作品への罵倒だと思いますし、
挙げ句に作品外の要素をせっせと集めた上で「『ラ・ラ・ランド』程度で喜んでいる人々は、余程の恋愛飢餓で、ミュージカルについて無知で、音楽について無知で、ジャズについては更に無知という4カードが揃っている筈」などとファンを罵倒しにかかるなんていう2カード揃ったやり方に、何の意味があるのかもはや分かりません。
もう売名なんて必要無いくらい有名な人がやっているというのも、どういう心理が働いてこうなってしまったのか全然理解できません。
そりゃ世界中を敵に回しますよ。
だってただの悪口ですからね。
(これで菊地成孔ファンの方々にフルボッコにされるんだろうなあ…)
僕の記事に対して「ここは私と違う解釈」とか「ここはこいつ素人」とか「ここは恋愛飢餓」みたいな指摘があったらリンク貼りまくっていただいて大丈夫ですよ。
本来批評記事ってそういう議論の材料として引用してもらって初めて価値が出てくるものですし。
(そういう意味では菊地成孔氏も大成功なのかな)
僕は「この作品を理解できないヤツは4カードマンだぜ!」なんて思ったりしませんから。
批評について
基本的に解説記事は「作品の面白い部分」「楽しみ方」を紹介する記事で、
批評記事っていうのは、それらの「面白い部分」を把握し、「楽しみ方」に沿って楽しんだ末に書けるものだと思っています。
それでも自分はこういう理由で「楽しめなかった」というのが、正しい酷評記事です。
楽しんだ上でも酷評記事は書けます。
楽しめるかどうかと批評で下す評価は別のものですから。
菊地成孔さんはネームバリューと話題性と炎上商法を買われて抜擢されたと思うのですが、ガチな映画の解説記事が必要だってんなら僕が書きます。
こちらの名義での実績はないですが、条件が合えばお仕事させてください。
僕はニートです!