日本のラップ・ミュージックの〝歴史〟はいつ始まったのか

「ラップの言葉はどこからやってきてどこへ向かっていくのだろう」ーー「日本語ラップ」の歴史をはじめてひもとく、音楽ライター・磯部涼さんによる新連載2回目。今回はB-BOYパークから今はラジオパーソナリティとしてもおなじみ、宇多丸が日本語ラップ史において果たした役割について。同日公開の「日本語ラップの言葉はどこからやってくるのか――まえがきにかえて」もあわせてお読みください。

 そこは、彼らにとっての約束の土地だった。1999年、8月22日。東京を代表する消費地区・渋谷の、54ヘクタールという範囲を占める代々木公園。木々が生い茂り、芝生が広がり、池には満々と水を湛えるが、日本においては、こういった都会のオアシスでさえも夏は決して心地の良い季節とは言えない。空気中の湿度が沸き立ち、文字通り茹だるような暑さの中で過ごそうとする者は少なく、コンクリートの城に閉じこもって、エアーコンディショナーの排気で街の熱をさらに上げていく。また、暑さは日が沈んでも収まる気配はなく、今日も熱帯夜がやってくる。しかし、公園の南側にある広場に集った若者たちは活き活きとしていた。彼らは群衆の中に知人を見つけると、生き別れた兄弟に再会したみたいに声を上げ、握手をし、逆手に組み直すとお互いの身体を引き寄せて肩をぶつけ合い、最後に拳を打ち付けた。その、日本の慣習からすると奇異に思える派手な身振りは、パートナーを変えながら至るところで繰り替えされていて、通り掛ったひとは、まるで異なる部族の集会に紛れ込んだ気持ちになったことだろう。

 ただし、そこにいるほとんどが日本人のようだったが、ファッションの統一感もまた部族を思わせた。男はベースボール・キャップを被ったり、頭にタオルを巻いたりしていて、上はエクストラ・ラージのTシャツ、下は膝小僧が隠れるぐらいのショーツ、足元は真新しいスニーカーという格好が標準だ。女は焼けた肌を露出したセクシーなタイプもいるものの、やはり、オーヴァーサイズのバスケットボール・シャツなどを着たボーイッシュなタイプも多い。そんな若者たちがたむろする広場にはドームがついたステージがあって、スプレー缶で描かれた巨大な絵画が飾られている。日中はその前で、格闘技や呪術かと見紛う動きが繰り広げられていたが、それは、ミキサーと2台のターンテーブルを素早い手捌きで操作してつくり出すパーカッシヴなビートに合わせて行われる、ダンスだった。やがて、パートが移り、今度はそのビートの上で、歌というよりは語ったり、会話をしたり、煽ったりしているようなパフォーマンスが次々と繰り広げられた。しかし、それもまた決して出鱈目ではなく、巧みに押韻が行われ、統制が効いた表現だった。そして、すっかり日が暮れた頃、ステージにひとりの男が現れると若者たちの盛り上がりは最高潮に達する。彼の声がサウンドシステムで拡張され、広場に響き渡った。

知っておきなよ HIP HOPシーン 日本に育つヒストリー
日曜日 おれを筆頭に STREETのHEROはB-BOYS
四角いマット 男のRING 本格派だけに少人数
今や誰もが口にする B-BOYS この街のKING
愛してるチーム RSC 変えていくシーン
君のはいてるジーンズやプーマ、アディの理由は何?
ファッションばかりじゃまだ甘い オンリーワン
オリジナル マネじゃなく スニーカーに有り金はたく
さらに開拓 未知の可能性 君を誘うぜ
(*1)ライムスター『リスペクト』収録、「「B」の定義 feat. クレイジー・A」(NEXT LEVEL RECORDINGS、99年)より

 日本のラップ・ミュージックの歴史はいつ始まったのだろうか? 同文化の歴史について考察する書籍は、そのような問いから始まるべきなのかもしれない。しかし、結論から言えば、それに対して明確に答えることは難しい。何故なら、答えは無数に存在するからだ。もしくは、〝歴史〟が歴史化という欲望の表出で、そのヴァージョンが無数に存在するのであれば—そして、論争の結果、勝ったものが正史として語られていくのであれば、むしろ、こう問うべきだろう。日本のラップ・ミュージックの歴史はいつから今のような語られ方になったのだろうか? と。

 〝フロント〟—前線、と名付けられた、代々木公園に集う若者たちがバイブルとして読み込んでいた雑誌の、97年10月号の冒頭には、辛辣な言葉が掲載されていた。それは、『Jラップ以前~ヒップホップ・カルチャーはこうして生まれた』という書籍のレヴューで、ライターのクレジットには佐々木士郎とある。ライムスターでラッパー=MCシローとして日本語によるライミングを探求し、『フロント』を始めとする音楽誌で批評家=佐々木士郎として日本のラップ・ミュージックを体系付けていた彼は、書く。「まだまだ未検証の部分も多い〝ヒップホップ日本史〟を補完する試みとして、現在この手の出版物が果たすべき役割というのは非常に大きいし、またそのぶん、責任も重大と言える」。しかし、「〝現在のシーン〟と直接的な連続性を持っている[…]流れ」が、「ここでは完全に黙殺されている」と。そのような傾向は「これまでに文章化された多くの〝日本史〟同様」(*2)だと評していることからも、佐々木のフラストレーションは伝わってくるだろう。(*2) 『フロント』97年10月号(シンコ―ミュージック)より

 そんな、佐々木曰く、90年代後半に至るまでの日本のラップ・ミュージックにおける偽史の典型である『Jラップ以前』はこんなふうに始まる。

 若者が獲得し、のちに「文化」という称号を大人たちから授かることになるできごとのおおよそは、その初期の段階で、ごく少人数の先端的な人々によってもたらされる。
 ラップ、DJ、ブレイクダンス、グラフィティアートに代表される、いわゆるヒップホップ・カルチャーはNYの貧しい黒人たちの間から生まれてきたものとされている。それらはアメリカあるいはNYという、黒人が置かれた特殊な社会環境のなかで必然的に培われた「文化」である。
 そうした、きわめて民族性の強い「文化」がどのような形で流入し、日本の若者に支持されるようになったのだろうか。

(*3)『Jラップ以前~ヒップホップ・カルチャーはこうして生まれた』(TOKYO FM出版、97年)より

 そして、同書は〝先端的な人々〟である12人へのインタヴューを基に歴史を編んでいくが、そのメンバーは以下のようなものだ。いとうせいこう(ラッパー/作家)、近田春夫(ミュージシャン)、高木完(ラッパー)、鈴木賢司(=ケンジ・ジャマー、ギタリスト)、屋敷豪太(=GOTA、ドラマー/プログラマー)、小玉和文(トランペット奏者)、ECD(ラッパー)、川勝正幸(エディター/ライター)、ダブマスターX(DJ/PAオペレーター/エンジニア/リミキサー/プロデューサー)、東海枝尚恭(イベント・プロデューサー)、中村有志(=ファンキー・キング、俳優)、横山和幸(=パンプ横山、ファッション・デザイナー)、吉岡孝司(プロデューサー)、ランキン・タクシー(レゲエ・DJ)。

 まず、ヒップホップの歴史書だと謳っているのにも関わらず、肩書きに、先の引用で同文化の代表的な要素だとされていたラッパーやDJが少ないことに目が行くが、ましてや、グラフィティ・アーティストやブレイクダンサーに至っては影も形もない。むしろ、同書が描くのは、82年、神宮前にオープンしたライヴ・スペース<ピテカントロプス・エレクトス>で彼らが様々な音楽的実験を行う中、その素材のひとつとしてヒップホップ・ミュージックが使われたということであり、88年、彼らの一部が立ち上げたレーベル<メジャー・フォース>が、日本のラップ・ミュージックのプラットフォームのひとつとなったということである。また、「〝Jラップ〟以前」というタイトルには、出版当時の状況が反映されている。

 93年11月—それまで、アンダーグラウンドが主戦場で、時折、ノベルティ・ソングにその要素が取り入れられるぐらいだった日本のラップ・ミュージックに、光が当たることになる。ところが、姿を現したのは意外な人物だった。ブラックコンテンポラリーを志向していた富樫明生が、m.c.A・T名義でレイヴ・ミュージックにラップを乗せたシングル「Bomb A Head」をスマッシュ・ヒットさせたのだ。しかし、シーンではまったく知られていなかったこの怪し気な男が〝Jラップ〟というキャッチーなラベルを普及させたことで、ようやく、人々はラップ・ミュージックというジャンルを認知する。そして、その時流に乗るようにして、94年3月には、ポピュラリティを獲得していた殆ど唯一のグループであるスチャダラパーが、シンガーソングライターの小沢健二と共作したパーティ・ソング「今夜はブギーバック」を発表。8月にはスチャダラパーと同世代のイースト・エンドが、アイドルの市井由理ことYURIをフィーチャーして日常生活についてラップした「DA.YO.NE」を発表。結果、2曲はヒット。特に後者は、95年、日本の音楽エンターテイメントの頂点である年末のテレビ番組「紅白歌合戦」で披露されるまでになる。

 しかし、アンダーグラウンドでは、Jラップと真逆のベクトルの運動も起こっていた。例えば、ムロ、ツィギー、 P・H・フロン、マサオという4人のラッパーと、GOというDJからなるマイクロフォン・ペイジャーは、93年3月に発表した「改正開始」で、「行くぞ やるぞ 書くぞ 韻を踏むぞ/なくそう お笑いくさいイメージをなくそう」—つまり、現在の日本のラップ・ミュージックはライミングという基礎もなっていなければ、ノベルティじみている、だからオーセンティシティに欠けるのだと切り捨てる。そして、最後のヴァースでムロは、憤る他のメンバーたちをなだめつつ宣言する。「今に本場のやつらが認めてくれるような 日本語ラップ 改正開始しよう」(*4)。後年、佐々木は、92年の暮れに「改正開始」を収めたマイクロフォン・ペイジャーのデモ・テープが出回り始め、彼らの言葉に煽られるようにしてハードコアなラップを志向するムーヴメントが起こったと、自身のグループ、ライムスターもそのひとつだと振り返っている(*5)
(*4) コンピレーション『REAL TIME COMPACT』収録、マイクロフォン・ペイジャー「改正開始」(日本コロムビア、93年)より
(*5) リアルサウンド編集部『私たちが熱狂した90年代ジャパニーズヒップホップ』(辰巳出版、16年)

 一方、その頃、『Jラップ以前』の主役であるピテカントロプス・エレクトス/メジャーフォース派の多くは、同書に参加していない藤原ヒロシや中西俊夫、ヤン富田を含めて、既にラップ・ミュージックからは距離を置いていた。あるいは、彼らの中には、ジャンルではなくマインドとしてヒップホップを継承しているのだと—いや、むしろ、マインドこそがヒップホップなのだと主張するものもいた。『Jラップ以前』においても以下の近田の発言は、自分たちの試みから10年近くを経て、今なおラップ・ミュージックというジャンルの枠に囚われるなど時代遅れだと言わんばかりの手厳しいものだ。

 ラップをやめたのは、自分が進歩したからじゃないかな。飽きちゃったのね。[…]
 たぶん、どんな音楽でも、ある表現のジャンルが方法論的な新しさを求めるんじゃなくて、質の向上っていうことに全体のエネルギーがむいた瞬間にその表現は終わると思うんだ。自分がヒップホップから遠のいた一番の理由はそこだと思う。

 自分がロックやってた時間より、ヒップホップのバンドやってた時間のほうが長いんだもの。その僕のミュージシャンとしての歴史のなかで、実は表現としてはまったく新しいものじゃなくなっちゃったわけですよ。
 なのに、それが新しいんだっていうような意識を持ってちゃだめだと思う。いまやっていることは新しくないんだと、そうじゃなくてその精神を受け継ぐちがうものはなんなのかっていうところに、みんなどうしていかないのか。
(*2)『Jラップ以前~ヒップホップ・カルチャーはこうして生まれた』(TOKYO FM出版、97年)より

 また、当時、日本ではラップ・ミュージックがJラップとして受容される一方で、それを訝しく見る向きがいま以上に存在した。例えば、「Jラップこそ、ノー天気時代の「青年の主張」だ!!」と題して、日本のラップ・ミュージックに対する賛否両論を紹介する95年の雑誌記事では、イースト・エンドに続くだろうグループとしてマイクロフォンペイジャーやライムスターの名前を挙げながらも、そのオーセンティシティに疑問を呈する声を紹介している。「黒人(ブラザー)のラップはストリートの中から自然に生まれたもので、ラップが好きな人はそういう抑圧された人間の想いとかリアリティさに魅かれるんだよ。土壌が違うから、日本ではムリだと思う。オピニオンがないからJラップは浅いなってカンジ」「真似すんのはやめろっていいたい。似合ってねぇよ、Jラッパー! なんで格好ばっか真似すんだろうね。憧れるのはいいけど、なりきるんじゃなくて、その人の生き方とか姿勢とか、そういう精神的な部分を真似ないと。そうしないと自分自身の向上にはならないよ」。(*6)『スコラ』95年2月23日号より、音楽ライター・萩原氏とFレコード・木村氏の発言(スコラ、95年)

 それだけではない。「FOR HIP HOP/R&B FREAKS」と銘打たれていた『フロント』の誌面でさえも—いや、ヒップホップ/R&Bというアメリカを本場とする音楽の専門誌だからこそ、当初、日本のラップ・ミュージックは批判にさらされた。例えば、同誌にインタヴューを掲載された初めての日本人アーティストであるDJホンダは、92年にアメリカに渡り、ラップ・ミュージックのプロデュサーとして活躍するようになったが、「日本のラッパーをプロデュースしたいとかって思います?」という質問に、「したいよねえ、うん。ただ俺の知ってる限りじゃまだ(トラックに)のっけてもカッコ悪いだけだと思うけど」(*7)と答えている。あるいは、『フロント』は4号から日本のラップ・ミュージックを本格的に取り上げ始めたが、翌号の読者欄には「賛否両論、日本のヒップホップ」と題されたコーナーが設けられ、「日本でも誰かが、ヒップホップをどんどん広めていかなくてはだめだと思うけど、せっかく『フロント』は、すごく内容の濃いBlackの雑誌だからわざわざ日本人はのせないでほしかった」(*8)という意見も掲載された。ちなみに、佐々木によると「8:2、いや、9:1くらいで否定的な声が多かった」(*9)という。
(*7) 『フロント』3号(シンコ―ミュージック、95年)より
(*8) 『フロント』5号(シンコ―ミュージック、95年)より
(*9) 『フロント』6号掲載、佐々木士郎「B-BOYイズム」(シンコ―ミュージック、95年)より

 そういった四面楚歌の状況の中、佐々木は音楽だけでなく批評によって、日本のラップ・ミュージックのオーセンティシティを証明しようと考えた。その闘いの場となったのは、やはり、『フロント』だ。まず、彼は、創刊号でアメリカのヒップホップ・カルチャーのオールドスクールを再検証。すっかり、巨大化し、拡散しつつあったラップ・ミュージックをひとつの歴史として編み直す。この試みは、佐々木自身が認める通りアメリカの雑誌『ザ・ソース』93年11月号の特集に触発されたものだったが、そこにはもうひとつの目的があった。彼は書く。

 現在、ヒップホップほどに〝歴史〟を実感できる文化は他にないと思う。ほんの十数年、いや、数年前の出来事でさえ伝説たりうる世界、それがヒップホップなのである。それだけ若い文化ということだが、そのわりには、実際のところが分かりにくいことも多い……何しろ、世間一般にその存在が知られるようになった時点で、すでに何十年ものアンダーグラウンドな歴史を持っていた文化である。

 ここ数年のオールドスクール再評価という潮流は、若い世代にとって、そうした歴史観のギャップを埋めようとする作業に他ならない。過去を正確に把握することによって初めて、現在の位置から未来を照射することも可能になるだろう。ヒップホップが市場として巨大化していく中でこうした動きが出てきたことは決して偶然ではない。これはシーンが持つ健全な〝自浄作用〟だ(あちこちで書いてきたことだが、これにはロックと同じ轍を踏むまいとする意志が働いていると思う—〝エルヴィスがロックンロール・キングなら、ヒップホップ・キングがヴァニラ・アイスか?〟)。(*10)
(*10) 『フロント』1号(シンコ―ミュージック、94年)より

 ここで言うヴァニラ・アイス—ゲットー出身だと偽ってスターになった白人のラッパー、つまり、オーセンティシティにまったく欠けたアーティストは、m.c. A・Tになぞらえることが出来るのかもしれない。ここで言う〝歴史〟は、日本のラップ・ミュージックの歴史のことでもあるのだ。

 また、佐々木は、6号では前述した読者からの、『フロント』はブラック・ミュージックの雑誌なのだから、日本のラップ・ミュージックは載せるなという投書に反論する形で、自分たちはアメリカのオールドスクールの正統な分派だということを説明していく。黎明期のヒップホップ・カルチャーでラテン系アメリカ人が活躍していた事実からも分かるように、同文化は言わば〝混血児〟なのだし、もしくは、ヒップホップが一種の閉鎖的な性格を持っているのは確かだが、だからこそ以前は同じアメリカでもニューヨークのブロンクス以外のヒップホップは偽物として扱われていたのだ、と。そして、彼は続ける。

 では、なぜヒップホップはニューヨークの一地域の文化に収まっていなかったのだろうか。逆の言い方をすれば、なぜその外側の人間は、自分でもヒップホップを始めようと思ったのだろうか。サルマネと蔑まれてまで。本家との絶望的な比喩に耐えてまで。
 日本のヒップホップ・シーンに携わる人間は全員その答を知っている。つまり、そうせずにはいられなかったのだ。
 ヒップホップは〝一人称〟の文化だ。音楽にしろ、絵にしろ、全てが「俺は、こうだ」と叫んでいる。例えば、好きなラップの曲があったとする。だが、普通の歌のように無条件に感情移入を、それは許さないのだ。それはどこまでもそのラッパーだけに語ることが許されたストーリーであり[…]、一緒に歌ったところで決して〝自分のもの〟になることはない[…]。まして、そのラッパーと全く異なる環境にいるとしたら? だからと言って、その曲から与えられた力それ自体を否定することはできない。つまり、ヒップホップから受けた刺激、そこから生まれた衝動は、自らヒップホップで回答してみせることによってしか完全には昇華され得ないのだ。「で、てめえはどうなんだ?」……ヒップホップという〝思想〟は、必然的にここにたどり着くように出来ている。
(*9) 『フロント』6号掲載、佐々木士郎「B-BOYイズム」(シンコ―ミュージック、95年)より

 並行して、『フロント』では1号目のアプローチの延長で、日本のラップ・ミュージックの歴史化も試みられる。そのとっかかりとなる「ジャパニーズ・ヒップホップ、その歩みを綴る」という、ライター・荏開津広制作の年表において—それ以前のアプローチはノベルティだと線を引いた上で—起点に位置付けられているのは、83年10月に行われた、サウス・ブロンクスのヒップホップ・カルチャーを取り上げたセミ・ドキュメンタリー『ワイルド・スタイル』のプロモーション・ツアーだ。その文章は以下のようなものである。「映画『ワイルド・スタイル』公開される。キャスト、スタッフのブレイクダンサー、DJ、そしてラッパーが大挙来日、各地のディスコ、西武DPTなどでパフォーマンス。少数の例外を除いて日本のヒップホップ・シーンはこの影響から始まったといって良いだろう。各地のディスコ、路上でスクラッチ、ラップ、そして何よりブレイク・ダンスがこの後盛んになっていく」(*11)。要するに、日本のヒップホップ・カルチャーは、本場=サウス・ブロンクスからもたらされたのであり、そして、その文化をありのまま受け継いだのだと。
(*11) 『フロント』4号(シンコ―ミュージック、95年)より

 続いて、98年6月号からは「Real Japanese Scene~REWIND」と題した日本のオールド・スクールを検証するインタヴュー・シリーズが連載開始。第1回で佐々木を伴って登場するのは、ダンサー/ラッパーのクレイジー・Aだ。彼は83年に日本でいち早くブレイクダンス・チーム、東京Bボーイズを結成し、表参道の歩行者天国、及び代々木公園を拠点に活動、後に『ワイルド・スタイル』にも参加していたブレイクダンス・チーム、ロック・ステディ・クルーの日本支部を任される。日本のラップ・ミュージックの〝正史〟を編む上で、クレイジー・Aこそが、起点におかれるべきオーセンティシティを持っているというわけである。

 また、佐々木は、前述の『Jラップ以前』への批判を踏まえて、『JAPANESE HIP-HOP HISTORY』という、クレイジー・Aを中心とした、日本のラップ・ミュージックのオールド・スクールについての座談会を収めた書籍で司会を担当。その冒頭で述べる。「なにかっていうと日本のHIP-HOPは近田(春夫)さんとか、タイニー・パンクス(引用者注:高木完と藤原ヒロシによるラップ・デュオ)とかっていうところから語られがちだけれども、[…]その時点では既にシーンみたいなのがあった……はず、だと。[…]で、今のシーンを作ってるものっていうのは、どっちかっていうとそっちの血脈の方が強く流れているのは明らか[…]なのに本とかでは絶対に書かれ[…]なかったから(引用者注:世間は)知らない。こっちはこっちでちゃんとハッキリさせなきゃいけないだろうということで。ま、こういうコワモテのメンツを集めてお話を聞こうと」。(*12)『JAPANESE HIP HOP HISTORY』(千早書房、98年)より。

 もちろん、日本のラップ・ミュージックの歴史を巡る対立はもっと複雑なものだった。例えば、いわゆるJラップにしても、「DA.YO.NE」の歌詞をメンバーのガクと共に手掛けたのはライムスターのマミー・Dであるし、ハードコア・ラップにしても、ムーヴメントが脚光を浴びるきっかけとなったイベント「さんピンCAMP」を主催したECDは<メジャー・フォース>出身である。ただ、確かなのは、佐々木を始めとするオーセンティシティを求めるラッパーたちが、自分たちが過小評価されていると感じていたことだ。実際には、彼らにとっての〝敵〟は鵺のような存在だったが、何よりもその憤りこそがムーヴメントを動かす力となった。ライムスターの99年のアルバム『リスペクト』に「敗者復活戦」という楽曲が収められているように、日本のラップ・ミュージックは彼らが仮想敵から歴史を奪い返す形で始まったのだ。

 97年、クレイジー・Aは代々木公園で<東京Bボーイズ・フィフティーンス・アニヴァーサリー>と題したブレイクダンスのイベントを開催する(*13)。翌年にはそれが<Bボーイ・パーク>へと発展、ブレイクダンス、ラップ・ミュージック、DJ、グラフィティ・アートが顔を揃える、オーセンティックなこの催しは日本のラップ・ミュージックにとっての象徴になる。2回目の99年、クレイジー・Aに続いて登場したライムスターは同文化の国家としてつくられた「B-BOYイズム」を歌った。その姿は、まるで、横にいるレジェンドやステージの前を埋め尽くした若者たちと共に、勝利を祝っているように見えた。
(*13) 正確には14周年だった。

決して譲れないぜこの美学 ナニモノにも媚びず己を磨く
素晴らしきロクデナシたちだけに 届く 轟く ベースの果てに
見た 揺るぎない俺の美学 ナニモノにも媚びず己を磨く
素晴らしきロクデナシたちだけに 届く 轟く ベースのごとく
(*14) ライムスター「B-BOYイズム」(NEXT LEVEL RECORDINGS、98年)より

・同日公開!「日本語ラップの言葉はどこからやってくるのか—まえがきにかえて」もぜひお読みください。


磯部涼さんが明日25日、イベントを行います!

日本語ラップ批評ナイトVol.2
これまでの日本語ラップをめぐる言説を整理し、これからの日本語ラップ批評を基礎づける!日本語ラップ批評とは何か?日本語ラップに批評は必要か?批評に日本語ラップは必要か?日本語ラップと批評の関係性をラディカルに問い直し、日本語ラップ批評を新たに組織する契機となる夜!「日本語ラップについてどう話せばいい?」簡単さ。TALK THIS WAY!!!
日時:2月25日(土)19:00開演 22:00終了
出演:磯部涼、吉田雅史、佐藤雄一、中島晴矢 a.k.a. DOPE MEN、韻踏み夫
企画:有地和毅 a.k.a. お揃いのタトゥー 参加費:1,500円(1ドリンクオーダー制)
会場:文禄堂高円寺店イベントスペース 東京都杉並区高円寺北2-6-1高円寺千歳ビル1F
お問い合わせ:03-5373-3371(*予約満席のため当日券のみ)

この連載について

初回を読む
日本語ラップ史

磯部涼

「フリースタイルダンジョン」や「高校生ラップ選手権」の流行、メディアでの特集続き……80年代に産声を上げた「日本語ラップ」は現在、日本の音楽シーンにおいて不動の位置を占めるものとなりました。いとうせいこうらの模索からはじまり、スチャダ...もっと読む

関連記事

関連キーワード

コメント

Kawade_shobo 公開しました!|[今なら無料!]日本語ラップ史において、宇多丸が果たした役割とは? 約6時間前 replyretweetfavorite