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<論点>働き方改革と最低賃金

 時給換算で823円--。労働者の生活を守る法定最低賃金の全国平均だ。政府が進める「働き方改革」で、安倍晋三首相は段階的に引き上げ、2020年に1000円とする目標を掲げる。低所得の非正規雇用がまん延する中、最低賃金引き上げは生活向上につながるのか。中小企業の雇用や経営にどう影響するのか。識者の分析とともに、低所得にあえぐ大学生や若者の訴えも聞いた。【聞き手・前田剛夫】

    生産性向上の有力ツールに 冨山和彦・経営共創基盤CEO

     日本の雇用の7割強はサービス業であり、非製造業だ。小売り、飲食、観光、介護などお客さんと対面で接する仕事だ。とくに地方の中小企業が多い。一方、製造業は海外に雇用を求めて空洞化し、賃金レベルが高い企業しか残っていない。つまり、サービス業における労働者の低い賃金レベルを上げることこそが日本の企業の新陳代謝を促し、マクロ経済への影響が大きい。サービス業は空洞化しようがない。中小のサービス業で働く圧倒的多数の人生をどうやって豊かにするか。そのためには最低賃金上げは有効だ。政府が言うように1000円にしたらいい。

     働く側から見れば、最低賃金を上げても雇用は減らず、失業率も上がらない。たしかに、最低賃金が払えないような生産性の低い企業は人を雇えず、廃業する企業も出てくるだろう。しかし、そこで仕事を失った人たちは高い確率でより生産性の高い企業に吸収される。その結果、事業と雇用がより生産性の高いところに集約されていく。背景に少子高齢化による構造的な人手不足があるからだ。

     労働市場は出生率と年齢構成で決まり、かつては団塊世代とそのジュニアがいて働き手が余っていた。ふたこぶラクダのようなものだ。さらにバブル崩壊後は製造業の空洞化も起きた。だが、そんな不況下でも欧米と比べて失業率が低かったのは、生産性の低い中小企業が雇用の頭数を吸収し、雇用と社会的な安定を選んだからだ。2人でできる仕事を低賃金で3人でするといったワークシェアリングのようなもので、生産性の向上や成長も犠牲にした。だがラクダの一つのこぶの団塊世代が一線から退き、もっぱら消費する側に回った。その結果、圧倒的に人手が足りなくなるという労働市場の「硬直化」が起きている。もはや、生産性の低い企業を社会が温存する意味がなくなってしまった。

     もちろん最低賃金を上げると借金漬けで必死に企業を維持している経営者は困るだろう。その救済は考えなければならない。現状は廃業しようにも連帯保証制度などがあり、個人破産やリタイアがしにくい。信用保証協会などが成長の見込みのない企業の貸し倒れを補償し支えている。そのために多額の税金も投入されているが、それでいいのだろうか。むしろ、自力で存続できない中小企業に対して、転廃業や店じまいのための十分な補償をし、経営者の老後の生活費も含めて手当てしたらどうだろう。そもそも、会社があることにいまは意味はない。生産性の高い事業こそが、質の高い雇用を生み出す。そのためには企業の新陳代謝を高めなければならない。

     かつては金利がその役割を果たし、金利が払えない企業が淘汰(とうた)された。だが、低金利にその役割はない。最低賃金はそれに代わり、企業の新陳代謝を促し、生産性を向上させる有力なツールになりえる。人手が余り労働の弾力性があるときに最低賃金をうかつに上げると失業者が増え、つぶれなくていい企業までつぶしてしまう。だが、いまはその状況になく、構造的な人手不足はこれからも続く。人間も生物も企業も産業も新陳代謝しなくなったら成長しない。

    むしろ給付付き税控除で 鶴光太郎・慶応大大学院教授

     第2次安倍内閣はデフレ脱却という大きな目標を掲げ、経済の好循環のため法人税を減税し、経済団体や労組にも異例の賃上げを求めている。その一環として、最低賃金も政府がリーダーシップをとれるので引き上げが政策課題となっている。これは、第1次安倍内閣の最低賃金上げとは性格が異なる。当時は生活保護費が最低賃金の所得より多くなってしまう「逆転現象」の解消が目的だった。

     政府がやや介入し、影響が出ないよう最低賃金を少しずつ上げることは否定しない。だが、一律の賃上げは必ずしも低所得者層の救済にはつながらないと考える。最低賃金近くで働く人は非正規雇用が多く、家計を担う人もいる。同時に一家の大黒柱がいる比較的裕福な家庭で、補助的にパートやアルバイトをしている主婦や学生もいる。最低賃金はそのすべてに及び、生活に困っていない人の所得まで同時に上げるので、低所得者や貧困対策としては漏れが多い。

     また、急激な上昇はとくに地方でマイナスの影響が出やすい。地方ではぎりぎりのレベルで従業員を雇っている中小企業が多い。急に賃上げすると人員削減などの雇用調整をせざるをえなくなる。東京などは人手不足が深刻で、最低賃金に上乗せして時給を払っている企業が多いが、労働需給が過熱していない地方はそうではない。

     賃上げの影響に関して、欧米の多くの実証分析も公平に比較検討してきた。その結果、生産性が上がらなければ、一律の賃上げは、最低賃金に近い労働者にとってはマイナスにしかならないという結論に至った。たとえば一律の賃上げで、スキルの低い人の給料が上がると、企業は同じ給料でスキルの高い人を雇い代替する。それが相殺され、低スキルの人の解雇など雇用全体の動きも見えにくくなる。また企業は、賃上げ分を販売価格に転嫁するだろう。ファストフードなど業種によって雇用にプラスに作用するという実証もある。しかし、そこだけを見てすべての低所得者にやさしい政策とは言えない。つまり経済全体では賃上げが相互に作用し、複雑に奪い合っている。うまい話などない。最低賃金上げはフリーランチ(ただ飯)でも魔法のつえでもない。

     だが、最低賃金上げで影響が出やすい中小企業向けに補助金を回す仕組みがあれば、反対はしにくいだろう。でも、それでいいのだろうか。解雇されなければ給料が上がってプラスだが、最低賃金ぎりぎりで働いていて解雇されてしまったら、たまらない。では代わりの低所得者対策はあるのか。むしろ、給付付き税額控除など本当に困っている人をピンポイントで救済することこそ求められる。所得が低く控除し切れなければその分還付(給付)をする税の仕組みで、経済学者の貧困対策のコンセンサスにもなっている。不正を防ぐため所得や資産を細かく把握する必要があるが、マイナンバー制度の導入でそのハードルは低くなる。検討してみたらどうだろう。

     また、最低賃金制度を改革するのだったら、10代の雇用への影響が深刻なので、年齢で差をつけるなどの配慮がほしい。すでに実施し、実績を上げている国もある。

    生活のため一律1500円必要 藤川里恵・エキタスメンバー

     20歳代中心のグループ「エキタス」はラテン語で公正、社会正義を意味する。東京、東海、京都などでデモをし、最低賃金引き上げを訴えている。全米の労働者が時給15ドル(約1600円)を求めた「ファイト・フォー・15」など世界の潮流もあり、全国一律最低賃金1500円を掲げている。なぜ1500円か。ぎりぎりの生活を保障するというリアリティーがあるからだ。

     現行の最低賃金(平均823円)で週40時間・年52週、祝日も含めて働いたとする。年収171万円で、生活保護費とあまり変わらない。でも、1500円だと祝日や正月も休め、税金や保険料などを天引きしても250万円ぐらいになる。都会は家賃が高いが、地方は車などの維持費がかかる。生計費はほとんど変わらないのに現行は都道府県で差がある。社会学者の後藤道夫・都留文科大名誉教授の試算では、ワンルームで1人暮らしするには最低でも時給換算で1400~1700円が必要で、一律1500円の根拠にしている。現実は最低賃金ぎりぎりで働き、家計を支えている非正規の男性やシングルマザーもいる。正社員でも残業が多いと時給換算で最低賃金を割ってしまう。だから1500円は最低生活を保障するためで、高すぎないし、安すぎないと思う。

     具合が悪くてもお金がなくて病院にいけず、3度の食事もとれない。働いて生活していくために必要な体調管理すらできない。そんな切実な声が聞かれる。とくに非正規は休んだら給料に響くから休めない。最低賃金が上がるとどうなるだろう。具合が悪ければ少しは休めるし、ダブルワークが仕事一つでよくなるかもしれない。ブラック企業は安い人件費で利益を上げている。最低賃金が上がるとそんなやり方も通用しないし、長時間労働の是正にもつながる。

     最低賃金は一律でこそ意味がある。何があっても会社にとどまらないといけないと思うから立場が弱くなり、みんな会社に忠誠心を示して上司のパワハラにも耐えている。でも、同じ職種で給与条件が横並びなら、我慢してそこにとどまらなくていい。もちろん、介護や保育など業種や資格・スキルによっては最低賃金とは別に職種別賃金を2000円に設定してもいい。

     大学生も苦しい。私は高校時代に父が失業し、奨学金を借りたうえ、学費や生活費をまかなうため、飲食店やスーパーなどでバイトをし、ダブルワークも経験した。でも、それってましなほう。週7で飲食店でバイトし、徹夜して朝1限に出て、部活までやる。何十日も続けて働く友人もいて、つらくても、文句を言ってはいけないという空気があった。

     給料が上がると会社がつぶれてしまうと経営者目線で語る人がいる。そして失業したら生きていけないからブラック企業でもしがみつく。たしかに正社員もバイトも人手は足りない。でも、正規でも次から次へと雇い1年で使いつぶしてしまう企業が多い。雇用状況がよくなっている実感はない。長時間働き、普通に生活しようとしてもこんなに苦しい。それってやっぱりおかしいし、当事者としてもっとみんな文句を言っていい。


    罰金でも多い違反企業

     不当な低賃金から労働者を守るため法に基づき時給換算の最低賃金が都道府県ごとに定められている。2016年度の最高は東京都の932円、最低は宮崎、沖縄両県の714円。正社員、非正規社員を問わず下回ると使用者に50万円以下の罰金が科せられるが、違反企業も多い。非正規の待遇改善やワーキングプア対策のため引き上げを求める声が高まっている一方で、経営状況の厳しい中小企業の経営者には「人件費がまかなえない」として反対意見が多い。


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     ■人物略歴

    とやま・かずひこ

     1960年生まれ。スタンフォード大MBA取得。産業再生機構などを経て現職。財務・経済産業各省、内閣府などの政府委員、大企業の社外取締役も兼務。経済同友会副代表幹事。


     ■人物略歴

    つる・こうたろう

     1960年生まれ。オックスフォード大で経済学博士。経済産業研究所上席研究員、内閣府規制改革会議委員(雇用ワーキンググループ座長)など歴任。近著に「人材覚醒経済」。


     ■人物略歴

    ふじかわ・りえ

     1992年生まれ。都留文科大卒。2015年からエキタスメンバーとして最低賃金上げを訴えている。4月15日、世界と連帯し東京・新宿でデモを予定。現在、東京の企業を病気退職し療養中。

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