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ある午後、わたしは20代の新婚さん(あきさん)と50代のベテラン奥様(みつよさん)と3人でおしゃべりしていた。
そのうち話はあきさんが朝起きれないせいで夫の朝ごはんとお弁当を作れない、という話題に。
あきさんは自身の事情をこんな感じで話した。
ちなみにご主人自身だが、体重の増加は気になるものの朝食を抜く習慣を自主的に改善しようとはしないらしい。
ただしあきさんが朝食を作れば出されたものは食べるという。
「それなら夜作ればいいんじゃないかな」
話を聞くや否やみつよさんはそう提案した。
「どうせご主人の帰宅を待っている間時間があるんだし」
その後も、
あたしも子どもが学生の時はほとんどのおかずを夜作って朝は卵焼き作るだけにしてたのよ
最近じゃ冷凍食品も優秀だしね
まあ急に毎日お弁当作るなんて無理だろうから週一回からでもやってみれば?
などアドバイスは続いた。
それを横で見ていたわたしはまともに聞いていられず視線を泳がせていた。
アドバイスが苦手
みつよさんのアドバイスはどれも真っ当で正しい。
それだけに気になった。
よその家庭の事情にこうも簡単に口出しして良いものか。
わたしは「こうした方がいいよ」などとアドバイスをするのが苦手だ。
というか恐い。
滅多なことを口にすれば良かれと思ってしたはずのアドバイスがたちまち嫌味、大きなお世話、無神経に人を傷つける価値観の押し付けとなり得るからだ。
かと言って、本当に有益なアドバイスにどのような情報がどれだけ必要かなんて分からない。
置かれた立場、状況、関係者の性格や特質など考えればきりがない。
加えてこれは極めて個人的なことだが、何が正しいのか分かっていてそれでもできない、なんて自分にはあまりにもよくあることなので、他者にあるべき道を説くなどという真似は自分なんかに到底できないのだ。
そういう考えが根底にあるから、自分以外の誰かがもう一人の誰かにアドバイスをするのを見かけるのも苦手だ。
アドバイスされる相手がどう感じるかが気になって仕方がない。
「事情をよく知りもしない人からこんなこと言われたくないな」
などと、まるで自分がアドバイスされているような気持ちにすらなる。
ところでみつよさんは親しみやすく、親身で、親切だ。
その上情熱的で他者に感情移入し易い。
そんなみつよさんが「~した方がいいよ」と言う時は、あくまでも良かれと思って言っている。
そして時と場合と相手によっては人生経験豊かなみつよさんのアドバイスが金言となることだってきっと少なくない
だからともすれば相手にしてみれば気に入らないことでも大胆に言えるのではないかと思う。
すべては相手を思うからこそ、なのだ。
アドバイスが苦手なわたしの問題
しかしながらそんなわたしの問題はアドバイスというものに対して弱腰すぎるという点だ。
(その他批判や反対意見に対しても滅法免疫低いわけだが今回は話がそれるので。)
正しいかどうか判別つかないならいっそ言わない!
というのがわたしのスタンスなのだが、自分の言動が正しいかどうかなんて瞬間的に答え合わせをすることなどできない。
運が良ければ後で解がもたらされることもあるが、神のみぞ知るレベルで迷宮入りすることだって少なくないのだ。
というわけでもしも、内容の正当性や適切さに確証が持てない限りアドバイスはしない、というわたしの信条が世の中で是とされれば人は互いに正しく「なんも言えねー」状態になってしまうだろう。
それは極端が過ぎるというものだ。
第一、わたしのこだわりは自分の正当性を守るためのもの。
正当化されたい、間違って恥ずかしい思いをしたくないというプライドの塊。
良かれと思い正しいことをアドバイスするのが価値観の押し付けになるのなら、
不用意にアドバイスなどすべきではない、とはなから決めつけるのも立派な押し付け。
そうか、押し付けヤローはわたしの方だったんですね。
きゃとらに🐈
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