大瀧詠一の「分母分子論」
川原伸司とカバーブームの源流については、もう一つ、興味深い話がある。
それが、1982年にリリースされた金沢明子「イエロー・サブマリン音頭」を巡る話だ。ビートルズの名曲を音頭調にアレンジして民謡歌手の金沢明子が歌い、大きな話題を呼んだこの曲。当時は賛否両論を呼んだが、ポール・マッカートニー自身も高く評価するなど現在は広く認められたカバーとなっている。
(PHOTO: Getty Images)The Beatles
この曲のプロデュースを手掛けたのが大瀧詠一だ。そしてディレクターをつとめたのが、やはり川原伸司だった。ビートルズの楽曲を音頭にするというアイデア自体も、もともとは川原の発案によるものだったという。
そして「イエロー・サブマリン音頭」が発表された翌年の1983年、大瀧詠一は雑誌『FMfan』(共同通信社)に「分母分子論」という自説を発表する。音楽評論家の相倉久人との対談によって語られたのは、日本のポピュラー音楽の成り立ちを「世界史分の日本史」という言葉で表現する論だ。
相倉 (中略)これだけサウンドが浸透しても、日本人の感性では、やっぱりバック・サウンドとボーカルが別な扱いでしょ。
大滝 近づきましたね。今日のテーマの、世界史分の日本史っていうのは、そこなんですよ。サウンドはいつも輸入で、ここがいつも変化してくる。で、そこに日本語がのっかるというのがひとつの形になってますね。(『文藝別冊 増補新版 大瀧詠一』河出書房新社)
明治以来、日本のポピュラー音楽は洋楽のサウンド(=世界史)をベースに発展してきた。そこに日本語の歌詞とメロディ(=日本史)を折衷させてきた。つまり、分母である「世界史」の上に、分子として「日本史」が乗っかっている構造が、日本のポピュラー音楽の基本だと大瀧詠一は論じる。
しかし、時間が経つにつれて、大衆の中で「世界史」という分母が忘れ去られ、分子にある「日本史」だけが意識に残るようになっていく。さらには分子にあったはずの「日本史」を分母にした新たな「日本史」が作られ、3層構造の音楽が生まれるというのが「分母分子論」の骨子だ。
そうした80年代前半の状況において、大瀧詠一は自らの音楽活動を「分母の確認」、つまり洋楽のルーツを露わにすることと位置づけている。
大滝 (中略)『ロング・バケイション』も「イエロー・サブマリン音頭」も、僕にとっては同じ。分母の確認なの。(前掲書)
そして、大瀧詠一が「分母分子論」を発想していた1982年に、その一つの実践であった「イエロー・サブマリン音頭」を共にプロデュースしていたのが川原伸司だった。
さらにその10年後、20年後に川原伸司が仕掛け人の一人となったカバーブームは、まさに1982年の時点で大瀧詠一が論じた「『日本史』を分母にした新たな『日本史』」の実践だった。
カバーブームは、00年代以降に生まれた日本のポピュラー音楽の新しい潮流を象徴する現象だった。その背景には、はっぴいえんどの登場以来、数々の作り手によって繰り広げられた思考と試行が横たわっているのである。
次回につづく!