それから二週間後の5月連休明け、ぼくは当時済んでいた独身寮を離れ、山梨県に向かっていた。
なぜ山梨かというと、当時そこに会社の工場があり、その工場の技術をアメリカに移設すつことが決まっており、僕たちはビザが降りるまで、研修とOJT(On The JobTraining:実地訓練)を兼ねて一時的に転勤になったのだ。
そこはレーザーディスクを作る工場で、それまでの研究所とは全く違う「工場」だった。
そこでぼく達は製造の工程、機器のメンテナンス、また品質管理の手法まで、様々な実習を受けた。
ところが待てど暮らせどビザがおりない。
なんでもアメリカはビザ無しで一回90日、年間半年の渡航が許されている。しかし就労ビザがおりにくくなっている。ぼくの場合は専門職駐在員なのでL1ーBビザになるのだが、この専門職が本当に専門職なのかの審査に時間がかかっているらしい。
当時のアメリカはかなりの不景気で、失業者が街にあふれていた。一方で日本はバブルの絶頂期だった。アメリカにしてみればぼくのような若い人間ができることがなぜ専門職なのか?という疑問があったらしい。それにぼくが一人アメリカで暮らすということはアメリカ人の雇用が一人減ることを意味する。それ故、ビザがおりなかったのだ。
当初半年間の予定だったぼくの国内訓練は9ヶ月間ほど待たされることになった。
しかしその間、海外に移住することに対して何もしていなかったわけではない。
山梨に引っ越して3ヶ月後、ぼくはアメリカ、ロサンゼルスの工場建設予定地に視察に行くことになった。
なぜぼくかというと、それはズバリ、「英語がまるで駄目だから」だ。場数を踏ませることと、現地の人間の教育とコネクションを作ることで、ぼくのビザを取りやすくし、かつ英語力を底上げしようという会社の意図があるらしい。
しかし英語が全く話せない人間を講師にするとは、無謀な事をするものだ。
でも生まれて初めて太平洋を超える。ぼくは胸がドキドキした。