どもども、Kitarouでございます。
魔の一週間を乗り越えてこうしてブログ欲が絶えない状態でございます。
そろそろ2nd ブログを更新しいこうと思いますので英語やドイツ語堪能な方は素人の文書ですがご覧いただければ幸いです。
ということで今日のテーマは動物です。
みなさんは日常で身の回りには動物は溢れていて彼らとは共に生きていると普段から思っていますか。犬や猫のペットさんであったり空を駆け巡る鳥や、時にはウサギだって散歩しています。
筆者この存在をどこか忘れていたような気がします。そのエピソードが次になります。
身の回りで奮闘する同じ命(筆者のエピソード)
ある日、筆者は通勤途中にふと空を眺めました。
そこには前日まで続いていた雲でいっぱいの東京の空ではなく、何か自然を肌で感じさせるような澄んだ青い空でした。
そのいっぱいの青のスケッチを鳥の軍団が遮る。何秒立ち止まっただろう、いやおそらくコンマ2秒かむしろ歩みすら止めていなかったかもしれない。
ふと我に返ったが、同時にふと自分の中に突如疑念が起きた。
鳥って動物だよな。人間て動物と共存しているよな。会社で勤めていると地上には人間しかいないと錯覚してしまっている。
もちろんペットを飼っている方には動物との共存など当たり前に聞こえるかもしれない。しかし動物とは甚だ縁のない筆者には他に生存する生き物をどこか内心引き離していたようだ。
動物恐怖症のトラウマ(今は触れますがまだちょっとビビります。笑)
昔ひどく動物にいい思い出がなかった。というのも3歳の園児の時だが幼稚園の運動に動物たちが遊びに来るというようなイベントがあった。
まだ幼い筆者は怖いものしらずでいろんな動物とスキンシップを試みた。ウサギ、カメ、さらには大型で馬まで来ていたことは未だに覚えている。
この馬だが筆者はその抑えきれんばかりの好奇心を馬にぶつけるべく横から先生と一緒にその馬にまたがろうとした。
柵から中に入っていざっ、という時だった。馬が背を向け、というよりケツを向けいきなりか、後ろ足で砂を駆け出したではないか。でもそれは砂というより水分やいろんなものが混じった泥であった。それを目一杯に浴びた筆者はなぜかその場で泣き出して以降、馬だけでなく動物に近づくことにトラウマを感じるようになった。
さらに小学1年生の時だ。ある友人の家での出来事だ。彼の家にはチワワくらいの小型の犬がいた。名前までは覚えていないが小柄な体格には似合わないくらい大きな声でいつも筆者を迎えてくれた。
何日も遊びに来ていたからかある日、筆者に向かって吠えることはなく、おとなしくなった。ある日、この犬は自分に懐いてついてくれたのかな?触ってみようかな。
これをふと本能的に感じ、普段は避ける友人の犬に今回は自分から近づきました。
かがみこんで撫でてやろう、そう手を差し伸べた瞬間でした。
ぐっ、ガジッ、ガリガリリリリ
なんとその犬は筆者の中指と人差し指に噛みつき、歯をガリガリさせました。
さすがに手は指はボロボロですぐに消毒しました。
よく考えれば病院行けよってレベルでしたが半年くらい跡が消えなかった気がします。
それから筆者は二度と動物に手を差し伸べることができなくなったしまいました。
それから中学、高校、大学、留学とペットのいる友人宅に赴くことはあっても、彼らには家族の一員とも言える存在に自分は距離を縮める子はできなかった。
まとめ
この経験を機に動物について一般的ではありますが、少し調べてみました。
かふぇいんさんという方が、動物について多くの記事を書いていらっしゃったので勝手ながらシェアさせていただきます。
中には環境省主導の社会実現プロジェクトがあるとも。
少し、犬にフォーカスしてしまいますが、盲導犬であったり、警察犬であったり、彼らは我々に非常にサポートしてくれています。
一方で、子供ができたが育てるのが面倒といって保護センターに引き渡されたり、最悪殺処分なんて言葉も残念ながら存在していまいます。
筆者は極論が苦手でデリケートな議論に対する意見はできませんが、あえて言わせていただくなら、
「最後まで責任が持てないことはしない。」
趣味や、一時の娯楽と安易に考えて命を扱うようなことは私には責任が持てません。
もし、周りに引き取り手がいないなどと言われたらあなたが最後まで責任とってくださいと言ってしまうかもしれません。
このような安易な意見が通用するほど世の中は甘くありません。
ですが、まずはどんな生物も共に生きていると実感することは筆者には新鮮に思えました。
さっき、また散歩中の犬に吠えられて後ずさりしちゃいました。。。笑
ではでは
Kitarou