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発刊:2016年7月21日(文藝春秋)
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December 6, 2016 08:30
by 牧野武文
リチャード・マシュー・ストールマンは、強烈なフリーソフト運動家として知られ、その独特の風貌もあいまって、一部の人からは変人とすら見られている。しかし、ストールマンはきわめて優秀な人工知能の研究者だった。ニューヨークという大都会で生まれ、小さい頃から数学の才能に秀でていた。そして当然のようにハーバード大学に進み、最難関の数学講座であるMath55に出席し、そこで数学の才能を開花させた。Math55は、ビル・ゲイツが挫折したほどの高度な数学講座だ。
物理学の学士号を取得し、マサチューセッツ工科大学(MIT)大学院に進み、ここで人工知能研究室に入る。しかし、生まれた時代が不幸だった。
人工知能の研究は、1957年にパーセプトロンが考案されて、一気に60年代をリードする最先端学問となった。人工知能の原理は実は単純だ。人間の脳の神経組織をコンピューターやプログラムでシミュレートしようというところから始まった。たとえば、三目並べという単純なゲームを人工知能に対戦させてみよう。三目並べの盤面は9マスあり、一手ずつ交互に打っていくのだから、9手で必ずゲームが終わる。ゲームの結果は、勝ち、負け、引き分けの3種類だ。先手の第1手は3種類ある。角打ち、中打ち、辺打ちだ(角打ち、辺打ちとも4種類あるように見えるが、盤面を回転させれば同じ手になる)。それに対応する後手の打ち方があり、さらにそれに応じて先手がまた打ちと考えていくと、この三目並べの打ち方は枝分かれをしていく樹形図に描けることがわかる。
こうして、最初はランダムに手を選ばせて、ゲームをおこなう。その結果、勝った場合は、樹形図の中の一連の手の筋にあたる部分の枝を「太く」する。つまりは、手を選ぶ確率が高くなるように修正するのだ。逆に負けたときは、手の筋にあたる枝を「細く」する。つまり、その手が選ばれる確率を低くするようにする。こうして、何千ゲームも対戦を繰り返していくと、「学習」をして、勝ち筋の枝が太くなっていく。学習をした樹形図は、常勝になっていくというわけだ。
この勝ち筋が太くなり、負け筋が細くなるというのは、まさに脳神経の成長そのものだ。ここから、このような仕組みはニューラルネットワークと呼ばれる。ニューラルネットワークは、発展をしていけば人間の脳のように複雑な判断ができるはずだと考えられ、またニューラルネットワークを研究することで、人間の思考や思索のメカニズムも解明されていくと考えられ、1960年代にはこのニューラルネットワークを研究することが科学の最先端なのだと考えられていた。
そして、60年代末にパーセプトロンが考案された。パーセプトロンは、学習するニューラルネットワークをひとつの演算素子のような単位にまとめたものだ。コンピューター上でプログラムを組むこともできるし、技術が進めばLSIのようなチップにすることもできる。このパーセプトロンをさまざまな機械に組み込みことで、機械は人間以上に賢くなるのだという夢をだれもが描いた。自動車は自律運転をするようになり、車内で暇をもてあましてしまう人間のために、わくわくするおとぎ話を話してくれすらする。洗濯機は、衣料の素材を自分で見分け、洗い方を自動で変えて、シミひとつなく洗いあげてくれる。ワイシャツにはアイロンをかけ、きれいに折りたたんで仕上げてくれるだろう。もちろん、糸くずを溜めこんで、人間の手をわずらわすことなどありえない。未来は光り輝いていた。
ところが、希望に胸を膨らませて1週間に130時間も研究に没頭していた人工知能の研究者たちに、冷水を浴びせたのが、マービン・ミンスキーだった。ミンスキーは、パーセプトロンの重大な欠陥を指摘した。「パーセプトロンは線形分離可能な問題しか学習できない」ということを理論的に証明してしまったのだ。
「人工知能の父」マービン・ミンスキー(2008年撮影)Photo by Wikipedia
線形分離可能な問題とは、雑多な集合を1本の線で区切ることができるような問題のことだ。たとえば、男性と女性をたくさん集めて、横軸に身長、縦軸に血中の女性ホルモン量をとり、それぞれに座標上の適切な位置に点を打つ。これであれば、一本のひもで男性と女性をわけることができそうだ。なぜなら、男性は往々にして背が高く、女性ホルモン量は少ない。ということは座標上の右下部分に集まりそうだ。一方で、女性は逆に座標上の左上部分に集まりそうだ。その間に、区切りのひもを置けば、多少の誤りはあるかもしれないが、だいたい男性と女性をわけることができる。多少の誤りについては、ひとつひとつ確かめて、「学習」をしていき、ひもの置き方を最適化していけばいい。このような線形分離可能な問題は、パーセプトロンはきわめてうまく学習する。
しかし、自動運転している車が、正面から反対車線を逆走してくる車を発見した。このままでは正面衝突をして、乗客に甚大なダメージを与えてしまうので、なんとか回避しなければならない。左にハンドルを切るべきだろうか、右に切るべきだろうか。左右どちらが回避確率が高いかはなんとも言えない。なぜなら、相手が向かって左に寄ってくるなら、こちらは右に切るべきだし、相手が向かって右に寄ってくるならこちらは左に切るべきだ。相手の動きに応じて、戦術を考えなければならないような問題は、あらかじめ「右、左」と決めておくことができない。ジャンケンでグー、チョキ、パーのいずれをだすと勝率があがるか。これも相手の傾向次第だ。
このような問題に対してはパーセプトロンは、うまく学習をすることができない。しかも、追い打ちをかけるようにミンスキーは言う。「世の中のたいがいの問題は、このような線形分離不可能な問題なのだ」。つまり、人工知能はごく幼稚な問題しか学習することができないと言っているのも同然だ。世界の人工知能研究者は、職探しを始め、投資家は投資資金をいかにうまく引き上げるかに奔走するようになり、役人は人工知能研究に注ぎこんだ莫大な税金の責任を市民から追求されるのではないかと、コートの襟を立てて、隠れるように庁舎から帰宅するようになった。そんな状況のときに、ストールマンは、当時世界最先端の人工知能の研究拠点だったMITの人工知能研究室に入った。
MITのAI研は、ハッカーの巣窟にもなっていた。パーセプトロンなどという最先端のプログラムを開発するには、常識だけは足りず、ハッカー特有の超常識が必要とされたため、自然とエキセントリックな研究者が集まってきた。だからこそ、AI研は、他大学を大きく引き離す成果をあげることができていた。また、莫大な予算がDARPA(国防省高等研究計画局)から流れこんでいたため、研究費は使い放題だった。
ところが、ストールマンがAI研に加わってから数年で、AI研の雰囲気はがらりと変わった。DARPAが資金を大幅に削り始めたからだ。以前は、現場の研究者はお金のことなどまったく考えなかった。しかし、研究者みずから資金を提供してくれそうな企業や個人を回って、プレゼンテーションをし、資金を引き出さなければならなくなった。
このようなときに頭角を現すのは、要領のいいやつだ。ストールマンのように原理を尊重し、実験や研究を行うために、道具から作り始めるような人間は、のろまで要領の悪いやつとして隅の方へ追いやられるようになる。ストールマンは、このこからAI研にいづらい感覚を持つようになった。周囲に「AI研は死んだ」とよく漏らしていたという。
さらに、ストールマンにとってショックなことに、ストールマンが愛用していた伝説の名機PDP-10が老朽化してきた。このミニコンはすでに生産停止になっていたので、AI研ではKL-10という最新型に入れ替えることになった。従来、PDP-10で使っていた作業環境を、新しいKL-10で再現するのは、以前のAI研のハッカーたちにとっては朝飯前のことであって、しかも彼らはそういう仕事が大好きだった。しかし、KL-10にはDEC社製の商用OSが乗っていて、それを使うことが強制された。PDP-10の環境を移植するにはストールマン一人ではさすがに重荷で、商用OSをDEC社から派遣されたシステムエンジニアが管理することになった。
PDP-10 コンソール Photo by Wikipedia
ストールマンはこのDEC社のエンジニアが好きになれなかった。その人柄ではない。彼の立場が好きになれなかったのだ。なぜなら、ストールマンは自分の使いやすいようにOSを修正したいと考えても、そのエンジニアは契約を盾に拒否するのだ。ストールマンがOSの仕組みを知りたがっても、そのエンジニアは企業秘を盾に拒否する。結局、企業が開発したOSには、まったく自由がないのだということを思い知らされた。
(その4に続く)
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