思い出されるのは、投票日の翌日、11月9日に発信されたトランプのツイートだ。
「なんと美しく、重要な夜なのか! 忘れ去られた男たちと女たちは、二度と忘れられることはない。これまで一度もなかったような形で、我々はみんな一緒になるのだ」
自らの勝利を受けてのこの発言は、彼の支持者である「忘れ去られた男たちと女たち(the fogotten men and women)」の心の奥深くまで染み込んだことだろう。
もちろんこれはポピュリズムだ。だがしかし、9月9日に「やらかして」しまったヒラリー・クリントンの失言とまったく逆の位相にあるような、「温かい」言葉だったことだけは間違いない。
その日、クリントンは、LGBTを中心とするニューヨークの支持者集会で、トランプではなく「彼の支持者層」を、つい侮辱してしまう。あらゆる意味での差別主義者が多い、として、「トランプ支持者の半数は『嘆かわしい人(deplorables)』だ」と言ってしまうのだ(後日、彼女はこの発言について後悔の念を表明した)。
クリントンのこの発言は、つねに「忘れ去られている」と感じている者にとっては、どれほど残酷な言葉であったか。それが事実だったとしても、なお。
僕はこの選挙結果を望まなかった。予想もしていなかった。だから、これからアメリカ社会がどうなるか、ということについても、楽観的なイメージはなにもない。日本もその一部を担う、大規模な戦争が始まるような気もしている。
まさに「アポカリプス」が始まるのかもしれない。ちょうど、墓場や死体安置所からゾンビが這い出てくるように、これまで「いないも同然」とされていた、ヒルビリーを中心とする層が、21世紀のアメリカ社会を、そしてこの日本をも浸食し、影響を与えていくことを、我々は覚悟しなければならない。
なぜならば、本稿でずっと書いてきたヒルビリー像とは、日本にも「よくいる」と僕は思うからだ。とくに、日本人の「男らしい男」なんて、そっくりだ。
先祖代々日本で生まれ育ち、自らも同様に「日本のなかにいる」ということが誇りの源泉で、親兄弟や生まれ故郷に強い帰属心を持つ。フィクション上では近親相姦や母胎回帰の願望まで抱き、戦前の家制度の名残りである「戸主」の概念に寄り添うあまり、いつになっても男性優位の思想を捨てられない。
よって、「およそ人口の半分を占める」女性を男性が差別し続けている、という発想を持つことがどうしてもできない。差別されているのはつねに、数の上での「マイノリティ」で「なければならない」から。
なぜならば、それを救うことができるのは、誰あろう「この日本国でのマジョリティ」であり、「生来の強者」である日本人男性の自分でなければならない、から。「マイノリティ」を生かすも殺すも、この国の「既得権益層」(注2)の俺様だから……。
こうした意識は、容易に「自分とは異質な者」に対しての歪んだ認識を生む。人それぞれの多様性など、認めるわけがない(優位性の根源が崩れるから)。
そしてその上で、日本人男性によくある、なんの根拠も一切ない、中国人や韓国人に対する民族的優越意識や、あたかも「自分たちだけは」アジアのなかでは「白人に近い」という歪んだ思い込みまで醸造してしまえば――これはヒルビリーどころではない、「AWM」の立派な日本人男性版だ。トラッシュ化するまで、あと一歩だ。
多様性ゆえの豊穣な社会を否定し、幻想の優位性にしがみつくのであれば、洋の東西を問わず、そのつぎに起こることは同じだ。「我こそは主流だ」と述べるその者こそが、逆に「どんどん追いつめられていく」ことになる、潜在的弱者と化す。
日本版のトランプなんて、明日にでも登場してくるだろう。いや、もうすでにいたのかもしれない。レザーフェイスだって、もういるのかもしれない。ずっと前から、あなたや僕のすぐ近くに。