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くるくる!クルマ業界裏話

クルマに関する裏話をコソーリ教えるブログです

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この人と比べれば人生もっと粘り強く頑張れる!ゴムを実用化したグッドイヤーの裏話

人物 裏技・豆知識

今回はこの人がいなかったら、タイヤはおろかエンジンの防振ゴム、ガソリンホース、冷却ホースといった車の各部品、靴の底や浮輪、はたまた建物用の制振ゴムなど、ありとあらゆるゴム製品は存在しなかったという、ゴムの革命家

チャールズ・グッドイヤー
【1800年12月29日~1860年7月1日】

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についてのお話です。グッドイヤーと聞いて車好きの皆さんはタイヤメーカーの『GOOD YEAR』を思い浮かべるでしょう。

しかし、チャールズ・グッドイヤーとタイヤメーカーのGOOD YEARは全くつながりがありません。ただし、タイヤメーカーのGOOD YEARはチャールズ・グッドイヤーの功績にちなんで命名された社名だそうです。

彼は決してあきらめず、絶え間ない努力を続け当時イマイチ使えない新素材であったゴムを工業製品として利用できる素材へと変化させる事に成功した人物です。

彼がゴムに改良を加えることを考えなければ、ゴムは生ゴムのままで、使えそうで使えないイマイチな素材のままだったかもしれません。

チャールズ・グッドイヤーは最終的にゴムの改良に成功しましが、何度も失敗して亡くなった時には20万ドルもの借金を抱えたままでした。

それでは、その波乱万丈に満ちたチャールズ・グッドイヤーについてお話を進めましょう。

■ 6人兄弟の長男として生まれた機械大好き少年

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チャールズ・グッドイヤーは1800年12月にアメリカの北東部コネチカット州、ニューヘイブンというところで生まれます。歴史あるイェール大学があるところで有名です。

グッドイヤーの家庭はアメリカへ入植してきた農民だったそうです。

チャールズはそのグッドイヤー家6人兄弟の長男として生まれました。彼の父、アマサ・グッドイヤーは農業に加えて製粉工場、ボタン製造業と仕事の手を広めます。長男だったチャールズは父の仕事をよく手伝いました。

小さいころに製粉工場やボタン工場などに慣れ親しんでいたせいか、16歳になると機械学を学ぶため、コネチカット州から西側にあるペンシルバニア州、フィラデルフィアへ渡ります。

■ 故郷に戻り結婚、事業を開始

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チャールズは21歳になると父親の工場へ戻り、家業を手伝います。その傍らで、当時輸入品が中心であった農機具の製造にも取り組み始めます。

この時に、生涯チャールズを支え続ける事となる妻と結婚します。

結婚後、再びフィラデルフィアへ行き、チャールズは農機具製造販売店を開店しました。彼の製造する農機具は評判がよく、事業はうまく軌道に乗りました。

■ 事業の破産、ゴムに興味を持ち始める

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しかし、30歳になった時チャールズは体を壊します。それと同時に経営が傾き始め、努力の甲斐むなしく、事業は破産してしまいます。

なんとか事態を脱出しようとチャールズは必死に次の事業を考えます。

そこで彼は当時としては珍しく新素材であったゴムの製品に興味をしめします。新聞に掲載されているゴム関連の記事は全て切り取り、情報収集しました。

そんな中でフィラデルフィアから北東にある都市、ボストンにあるゴム製品製造販売会社 ロクスバリー・ラバー・カンパニーのゴム浮き輪を買ってきて、製品のヒドさに驚きます。

当時のゴム製品は温度変化に弱く、夏はベトベトに溶けて、冬はカチカチになって弾力性のないものでした。ロクスバリー社のゴム浮き輪も例外では無く、実用に耐えうる耐久性と浮き輪としての安全性を持つものではなかったのです。

■ ゴムを改良して自信満々売り込みに行ったが・・・

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チャールズは自分でいくつかの実験をしてゴムを改良、ゴムチューブを試作してロクスバリー社に持ち込んだのでした。

ロクスバリー社の担当者はこの改良版チューブを気に入って、採用。1年間のテスト販売をしてみました。

この時、チャールズもロクスバリー社の担当者もこのチューブには自信がありました。

でも、彼らの自信とは裏腹にゴムの劣化を原因として何千ドル分にもなる商品が返品されてきました。

チャールズはフィラデルフィアへ戻って実験をやり直し、ゴム製品の欠点である耐久性を改善させようと強く決意します。

この時、チャールズの実験資金は借金でまかないました。なかなか成果を上げられず、借金を返済できないチャールズは債権者に訴えられ、何度も刑務所に入れられましたが、研究実験を続けました。

■ 事業は一気に進むかに見えたが・・・

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チャールズはゴムを熱して練ったものに酸化マグネシウムを加えると、白くなって粘着性が少なくなるということを発見します。

チャールズは大発見をしたと考え、資金を集めて生まれ故郷のニューヘイブンに小さな工房を建て、まずはゴムの靴を作ろうとします。

妻と子供が生活する自宅も作業場にしてしまい、家の屋根は煙ですすけ、ゴムや科学薬品の溶ける臭いが異臭を放っていました。

そんな努力と苦労を続けたのですが、ゴムが熱に溶けてしまう問題は解決できず、出資者たちは愛想をつかしてしまい資金を引き上げます。

■ ニューヨークでの屋根裏部屋生活

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チャールズはそれでもあきらめませんでした。

工房と家を売り払い、家族を下宿屋に住まわせ、単身ニューヨークへ出ていきます。彼はニューヨークで薬剤師の友人の屋根裏部屋を借りると、そこで実験を継続します。

チャールズはニューヘイブンで失敗に終わった酸化マグネシウム入りゴムをアルカリである生石灰(せいせっかい)と煮沸すると粘着性がとれることをここで発見します。

この実験成果は評判になって、ついにやったかと思われました。

しかし彼は弱酸を改良ゴムにたらすとアルカリが中和され、再び粘着性を持つことに気付きます。チャールズは素材として使用するには未完成だと判断しました。

その後、チャールズはニューヨークの中でもグリニッチ・ヴィレッジへ住まいを移して 引き続き改良のための研究、実験を続けます。

様々な薬品を火にかけて実験をしているうちにチャールズは有毒なガスを発生させてしまい死にかけたこともあったそうです。

■ 酸加硫法を発見!今度こそはうまく回り始めた。が・・・

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そんな努力がなかなか実らないチャールズでしたが、とうとうゴムから粘性(ベタベタ)を取り除く方法を発見します。硝酸にゴムを浸す酸加硫法という方法です。

この成功について当時の大統領から直々の励ましの手紙を受け取ったチャールズはこれを機にまた出資者を募ります。その資金で今度はニューヨークの中にあるスタテンアイランドに工場を建て、衣類、救命具、ゴム靴など様々なゴム製品を製造し、販売し始めました。

全てがうまく回り始めました。

チャールズは自宅を建てて家族を呼び寄せます。

ところがここで悲運が彼を襲います。

1837年恐慌がやってきました。

1837年恐慌はアメリカの金融危機です。景気後退が続き銀行は破綻し、多くの事業主も破綻、価格は下落し、数多くの失業者をうむことになりました。

チャールズの工場も例外ではなく、彼は再び全財産を失いました。

■ また無一文になってしまったチャールズ

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無一文になったチャールズはそれでも再起を図ってボストンに出向き、以前の関係からロクスバリー社のハスキンス氏に借金をしてゴム製品の開発製造を再開します。

この時に酸加硫法の特許を取得します。

そして政府から150枚の郵便袋の注文を受けたのでした。

ほどなく郵便袋を製造し終えた彼は納品前に1か月ほど郵便袋を部屋に置いてみることにしました。1ヵ月経って袋を置いていた部屋を開けてみると、完成した袋は溶けてしまって、使い物にならない状態になっていました。

どうやら酸加硫法も完全な方法ではなかったようで、袋を保管していた部屋は暖かく、部屋の室温でゴムの袋が溶けてしまっていたのです。

もちろん郵便袋は納品できませんでした。他の客からも溶けたり、硬化したりした商品が次々と返品される状況が続きました。

■ 遂に大発明!耐久ゴム

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そんな状況の中1839年に今度こそ、重大な発見がされました。

ゴムに硫黄を混ぜて加熱するとゴムは溶けずに焦げて、周りに粘性のない弾力のある褐色の物質が残りました。

チャールズはとうとうゴムに耐熱、耐久性を持たせるには硫黄と混ぜて加熱することだという事を発見したのです!

一説によると、チャールズは硫黄薬品のかかったゴムの靴を履いたまま居眠りをしてしまい、ストーブで焦がしてしまったと言われています。

とにかくこの時に発見された『加硫』という方法はその後の工業に絶大な影響を与え、現在もタイヤやゴム製品に利用されています。

チャールズは、どの程度硫黄を加え、どんな方法、どれくらいの時間熱を加える必要があるのかをその後も研究しつづけます。この時、チャールズは胃痛と痛風を患っていましたが足を引きずりながら研究を続けたそうです。

■ 研究と共に極貧生活も続いた

そんな大成功までのあと一歩を進めていた頃、彼の一家は極貧生活を送っていました。実験を続けるため、家財道具を売り払い、ついには食べることすら欠くようになってしまいます。

ある日、チャールズは所用でボストンに行き、ホテル代の5ドルを払えずに拘留されました。釈放されて自宅に戻ると、彼の息子の一人が死んでいました。

実は彼の12人の子供のうち、6人が幼少時に死亡しています。

それでもチャールズは研究を続行して、一定の結果を得られる方法を発見します。

その実験研究結果を基に、まずはニューヨークへ行き、工場の資金出資を仰ぎましたが、失敗しました。

次にマサチューセッツ州スプリングフィールドで紡織業者として成功していた義弟から資金援助をとりつけ、1842年にゴム工場を立ち上げます。

■ 特許取得と特許侵害裁判の日々

1844年6月15日にチャールズは加硫ゴムの特許を取得します。

特許取得後、特許侵害が頻発したため、彼は訴訟で対抗し、32件もの裁判を連邦最高裁で戦うことを強いられました。

チャールズは国務長官に大金を支払って弁護してもらい、許権侵害に対する差止命令を勝ち取ります。そのことは新聞で大きく報道されましたがその後も特許侵害がやむことはありませんでした。

チャールズは特許取得の前にイギリスで防水コートを共同開発していたトーマス・ハンコック(※これもまたハンコックタイヤとは無関係)に加硫ゴムを売り込もうとサンプルを作成して送付しました。この時加硫ゴムの製法は秘密にしていましたがハンコックはそのサンプルを分析し、表面に硫黄が付着していることに気付き、秘密を暴いてしまいます。

ハンコックはこのサンプルを基に1843年に加硫ゴムの製造法を再現することに成功します。その後、チャールズがイギリスで特許申請を行った時には、数週間前にハンコックが特許申請を行った後でした。

その後ハンコックは加硫ゴムの開発はチャールズの製品サンプルから分析して研究したことを認めましたが、イギリスにおける特許を主張し、その後訴訟にまで発展しました。

一方、フランスでは加硫ゴムは新兵器に採用され、1855年には皇帝ナポレオン3世(前回のアルミのお話にも出てきましたね)はチャールズに勲章を授与しました。

■ 死んでも借金は払いきれなかったけど

チャールズ・グッドイヤーは1860年7月1日にニューヨークのホテルで死去し、故郷ニューヘイブンの墓地に埋葬されました。

彼が死去したとき、まだ莫大な借金は払い終えておらず20万ドル残った状態でした。

しかしその後、チャールズの家族は彼が必死で守った特許収入で安定した生活を送ることができたのでした。

■ 幾度のどん底からも立ち上がったチャールズ・グッドイヤー

どうだったでしょうか、どん底を何度も味わいながらも決してあきらめずに立ち上がり、私たちの現在の生活を大きく変化させたチャールズ・グッドイヤー。

仕事でツライ事があった時や、努力が無になってしまった時、くじけそうな時、彼のことを思い出してみましょう。きっと勇気が湧いてくると思いますよ。

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