その日、笑福亭鶴瓶はラジオの公開収録のため、あるホテルのプールサイドにいた。
プールには、普通に泳ぐために来た人、公開放送を見るために来た人など、多くの人で埋め尽くされていた。
鶴瓶はそんな光景を見ながらいつものように軽快にしゃべっていた。
しばらく、しゃべってふとプールに目をやると、そこにいるはずのない人の姿があった。
なぜかプールにプカプカと浮いているのだ。
遠距離恋愛中の怜子である。
怜子の行動力が起こした運命の事件
のちに妻となる玲子は、大学卒業後、実家のある松山に戻り会社勤めをしていた。
数日前から玲子は会社の有給を取って松山から大阪に訪れていた。だが、この日は帰らなければならない、もう飛行機に乗るために空港に向かっていないといけない時間だった。
プールにプカプカと浮いている玲子を見て鶴瓶は焦った。
(何してんねん? 間に合わないやないか)
玲子は鶴瓶の視線に気づくと、鶴瓶の心配をよそにのんきに手を振り始めた。
そして、小さな紙切れを掲げ、それを細かくちぎったかと思うと、紙吹雪のように散らしてしまった。
プールに美しく散る紙吹雪。それは帰りの飛行機のチケットだったのだ。
玲子は鶴瓶のいない松山に帰りたくなくなって、仕事や自分の家族を捨てる決心、いや有無を言わせぬ行動を起こしたのだ。
まさに「影の笑福亭鶴瓶」。どちらが鶴瓶かわからないような大胆な行動力が起こした“事件”だった。
玲子こそが鶴瓶的な思想の体現者なのである。
そして、2人の結婚にまつわる話やそれに関わった人たちはことごとくスケベな鶴瓶の血と肉になっている。
キスや初体験の前のプロポーズ
彼らが結婚の約束をしたのは、その“事件”よりもずっと以前のことだった。
それどころか、キスや初体験の前だ。
交際を始めて2ヶ月足らずのとき。
大学の学園祭で2人が所属する落研は「お茶漬け屋」を出店した。その主人役が「童亭無学(どうてい・むがく)」こと鶴瓶、奥さん役が「レモン亭円(まどか)」こと玲子だった。落研の仲間たちが冷やかし半分で決めたものだ。
学園祭も終わり、帰りに2人で喫茶店に寄った。
夫婦役をしたばかりだからだろうか、自然と結婚の話になった。
「むがくちゃん(鶴瓶)は、結婚って、どない思ってんの?」
切り出したのは玲子からだった。
鶴瓶は、自分が落語家を目指していること。だから金銭的に苦労するであろうこと。それに巻き込みたくないから、養っていける収入を得られるまでは考えられないこと、などを語った。
「そんなこというてたら、いつまでたっても結婚でけへんのと違う。それに、私は夫婦って、苦労する時は、2人でしていくべきやと思うわ」
「円(玲子)は、もう結婚なんて考えるのんか?」
「そりゃ私ももう19歳やし、こうして男の人ともつきおうてたら、当然結婚のことは考えてしまうよ」※1
鶴瓶にはひとつの強い結婚観があった。
それは、「最初につきあった女と結婚しよう、結婚したからには添いとげよう、それが当たり前や」※2 というものである。
だから、結婚相手は玲子だともう決めていた。
「ほんなら、ぼ、僕と結婚してくれるか?」
本気だった。それを本気で断られるのが怖かった。だから冗談半分に聞こえるような口調で言った。
だが、その言葉を聞いて、玲子は真剣な顔になった。慌てた鶴瓶は玲子の答えを遮るように言った。
「ちょ、ちょっと待って。こんな大事なこと、すぐには返事でけへんやろうから、僕、今からこの店のまわりを一周してくるわ」
鶴瓶は玲子がちゃんと考えられるように時間を作った。というよりも、自分自身も冷静になれる時間が欲しかったのだろう。
店のまわりを歩いて戻ってきた鶴瓶は再び同じ質問をした。すると、彼女はコクリとうなづいた。
10年後の鶴瓶の誕生日、つまり1980年12月23日に結婚しようと決めた。
2人はたまたま持っていた『米朝落語独選』の裏表紙にその日付を書き込み、誓いの印としてお互いの血判を押したのだった。
この人を絶対に悲しませたくない
玲子はこのプロポーズの少し後、鶴瓶も驚く行動をとる。
突然、鶴瓶の実家を黙ってひとりで訪れたのだ。しかも、そこで鶴瓶不在にも関わらず、一泊している。
さぞかし、鶴瓶の両親も驚いただろう。なにしろ、いきなり見ず知らずの若い女性が訪ねてきたのだから。鶴瓶以上の行動力である。
実はこの少し前、鶴瓶と玲子との交際が両親の知るところになっていた。鶴瓶は両親に呼び出され、こんこんと言い聞かされていた。
「無茶なことだけはしてくれるな」と。
けれど、玲子は、その交際や将来の結婚を親に認めてもらおう、といった意図もなにもなく実家に行ったのだという。
ただ、未来の亭主が、どんなところで生まれ、どんなところで育ったのか、自分の目で確かめたかったのだ ※1。
けれど、物怖じしない彼女を、鶴瓶の両親も受け入れた。
いきなり行って、泊まる方も泊まる方だが、それを許し、泊める方も泊める方だ。
出てくる登場人物すべてが出会いに照れない“鶴瓶的”スケベな人たちなのだ。
だが、先のプロポーズで交わされた誓いは結果的に破られることになる。
鶴瓶は急速に忙しくなっていった。
連日のようにテレビやラジオに出演しつつ、並行して弟子修業で、師匠の家の掃除や雑用などもこなさなければならない。
一方で玲子も大学に通い就職活動もしていた。
次第に2人はなかなか会えないすれ違いの日々が続くようになった。
苦しかった。
たまらず鶴瓶は「アルバイトに行く」と師匠に嘘をつき、玲子のもとに向かった。
京都の鴨川で2人はおちあった。
すると、うつむきがちに玲子は言った。
「私、好きな人がいるねん」
鶴瓶は絶句した。何がなんだか分からなかった。今まで何のためにがんばってきたのか。せっかく落語家になっても、玲子がいなくなっては意味がないじゃないか。
あまりにもショックが大きかった。
けれど、“ええ格好しい”の鶴瓶は、そんな自分の思いとは裏腹な言葉を振り絞って言った。
「お前が好きやったら、大事にしてもらえ」
失意の鶴瓶は、鴨川から師匠の家までまっすぐ帰ることはできなかった。
3時間以上かけてたどり着くと、電話が鳴っていた。
受話器を取ると、相手は玲子だった。
「ゴメン、さびしかったんや」
電話口の玲子は泣いていた。
「今日、言うたこと忘れて」
心身ともにボロボロで帰ってきて受けたその電話に鶴瓶も泣いた。玲子の深い苦しみと愛情を感じたからだ。
その日のことを回想しながら鶴瓶は言う。
「オレ、いまでもウチのやつのことがいちばん好きやねん。この人を絶対に悲しまさせない、と思ってる。あのときの自分のことを、そしてふたりの歴史を大事にしたいからなんやろね」※3
1980年に結婚する、そう誓いあった2人は、その約束を破った。
約束の日の6年も前の1974年10月12日に入籍することになったのだ。
次回「親の反対を押し切り、さびしさを乗り越えた結婚の宴」は11/24更新予定
※1 笑福亭鶴瓶:著『哀しき紙芝居』(シンコーミュージック)
※2 『ソフィア』95年3月号
※3 『pumpkin』00年4月号