好き大好きかなり好きどうしようもなく好き。
この気持ちの不法滞在に通報しそうになるくらい好き。
餃子のなかの合いびき肉みたいにもうどれが豚でどれが牛か、どっちがわたしでどっちがあなたか二度と別々に戻れなくなってもいいくらい好き!
というように好きにもいろんなレベルがある。恋人だけじゃなく友人、先生、クライアント、親族、飼ってるフェレット、相手によっても限りなく種類がある。
その気持ちは本来こころの中にあり、目には見えず、本人にしか感じられない。
だけど、それをどうにか言葉にしたり、手紙に書いたり、はたまた詩か絵か音楽か「別の何か」に置き換えて、相手に共有せずにいられない、そんなタイプのひとがいてそれがわたしです。
今回はそんな「すぐに相手に好きだと伝えてしまう派」=「コクリコちゃん」(と名付けますが異論は受け付けません)のひとりとして、それがなぜなのか?目的は金かカラダか一時のモテか?紐解きます。
好きと言いまくる目的はセックスなのか?
なぜ好きといいまくるのか。
まず大前提として、コクリコちゃんが飲み会などで誰彼かまわず「好き」と本人に伝えているのをみると、周りは寄ってたかって「思わせぶりや!」「八方美人や!」「ビッチや!」という3大コールを浴びせる。歌舞伎?
ほんとうにビッチな場合も少なくないとおもうけど、そうじゃないパターンもあると言いたい。
わたしの場合、初対面のひとにも友人にも恋人にもまったく脈がない異性にも友人の夫にさえも、分け隔てなく、好きと思ったら好きと言いまくる傾向がある。
レジのお姉さんがいい声ならすぐ好きと言うし、飲み会で髪型が好きな男性がいたら髪型が好きと言うし、好きな作家さんに原稿用紙8枚の好きを送ったこともあるし、男友達を突然恋愛として好きになりそれを瞬時に伝えたこともある。だけどそこにはコミュニティを崩壊させようとか合体したいとかでない、ピュアすぎる尊い目的が2つあるのだ。
全「好き」をレポートしたい。
1つは、貴重なそれぞれの「好き」を相手にレポートしたいということ。
冒頭でも触れたように「好き」という気持ちはすべて微妙に感覚や大きさや何もかもが違う。3日間固形物が喉を通らない「好き」もあったし、その人のことを考えながら自転車に乗っていたら標識にぶつかった「好き」もあった。胸のあいだがギシギシ痛い「好き」もあるし、肺から綿菓子を混入されたような甘く広がる「好き」もあるし、嫉妬で気づく「好き」もある。
好きの理由も、シンプルに顔面への「好き」、言葉遣いや所作への「好き」、思考への「好き」、行動への「好き」など無限。
好きはすべてが新種であり特別で、その相手がいなければ発生しなかったという理由において、天然記念感情。
だからわたしはその感情の共同制作者である相手にできる限り「いまこの瞬間このような理由であなたのことがこのくらい好きだ」と、正確にレポートしたい。
「好き」が与える勇気を知っている。
2つめは勇気を付与するという目的。
わたしは今まで誰かに「好き」と言われたことによりたくさんの勇気をもらった。
わたしの書く文章が「好き」という言葉にはエッセイを晒し続ける勇気をもらったし、わたしの歌声が「好き」という言葉には人前で歌う勇気をもらった。わたしの髪型が「好き」という言葉にはおしゃれな街に出る勇気をもらうし、わたしのことが「好き」といってくれた恋人には次に誰かを好きになる勇気をもらった。
それを知っているので、「好き」というのは言えば言うほどその相手の勇気になる可能性があると信じている。
だからわたしはわたしのなかに「好き」という薬草を発見した瞬間、相手に速攻投げまくる。
このようにあまりにピュアいい理由で勇気を付与しまくり感謝されるのだけど、これをすると副作用として「人にいいものを与えているという自尊心が高まり気分が良くなる」という効果があり自分に最高に酔えるというおまけタイム付き。
ゴスペラーズの過失
上記の理由でわたしは夫にも毎日、LINEでも会ったときも相当頻繁に好きだと言いまくっているのだけど、そうではない夫婦も多くいると思う。その理由のひとつに、某ボーカルユニットの名曲が影響していると思う。
「愛してるって最近言わなくなったのは、本当にあなたを愛しはじめたから」——
2001年以降、60万枚売れたこの名曲の一節により「本当に愛してる人にはあえて愛してると言わない派」が市民権を勝ち取った感がある。売れた曲のメッセージというのはやはり強い。
(これは2003年以降、オンリーワンよりナンバーワンだよねと言いづらくなったことにすごく似てる)
だけど、よく考えてほしい。
あなたの愛が真実に近づいたかどうかは知らないが、そんなことより「愛してるって最近言わなくなる」のは誰得ですか?メリットありますか?途中の歌詞に「わだかまりも夏に溶けてく」とありますが自分の言葉で溶かしたらどうですか?
「好き」というデメリットはない。わたしがアメリカの大統領になったとして公の場で「北朝鮮大好きまじ愛してる」などというのはリスキーだと思うが、妻子ある上司に「好き」と言うことだって、それは別に男女関係でなく人間関係の話だと整理して“伝えかたさえ間違えなければ”ビッチ予備軍でもなんでもないし誰も傷つけない。
「好き」に理由をつけまくりビッチ回避。
伝えかたのポイント。それは「なぜ(どこが好きなのか)」を必ずセットで伝えるということ。理由をつけず「好き」を繰り返すことは「誰にでも言ってるんでしょ感」を生み、八方美人感ましまし。これがコクリコちゃん(=ビッチか八方美人)という風評被害をうんでる。
理由をつければ誤解もうまない。
ホームパーティー中に友人の夫には「子供達といつも遊んでくれて料理もうまくて声もクッキングパパみたいだから」好きでみな平和。
SNSで友人の夫には「いつも被ってるキャップが似合ってるのと顔が小藪に似てるところが」好きと伝えれば「ああわかってくれる?ありがとう!」と相手も応えかたに迷わない。
さいごに話はかわるけど、「妻を好きかどうかわからない……」という声がある。それって「僕はいま馬に乗ってるかどうかわからない……」といってるようなもんで、わからない時点で絶対馬には乗ってないし、妻のことは好きじゃない。
でも、絶望するのはまだ早い。まだ嫌いなわけでも、これからまた好きになる可能性がないわけでもない。感情は、蝶のようにつかまえて標本にできないからおもしろい。
次回は、それでもそのときどきの「好き」をコレクションしまくりたくて、夫に「見て見て見て」としまくった果ての話に、つづく。