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精神科医・松本俊彦のこころ研究所

コラム

人はなぜ薬物依存症になるのか

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誤解されている病気

人はなぜ薬物依存症になるのか

 今年の5月、ある著名人が覚せい剤取締法違反で逮捕されました。その際、その人が逮捕される際に麻薬取締官に言った、「ありがとうございます」という発言が、マスメディアのあいだでちょっとした話題になったのを覚えているでしょうか? 

 私は、この一件を一生忘れないでしょう。というのも、この一件に関して、あるワイドショー番組でタレントやコメンテーターがしたコメントに、私は心底腹が立ったからです。そのコメントとは、「ありがとうなんて軽いね。反省が足りない」というものでした。

 これまで私は、何人もの覚せい剤依存症患者が、「逮捕された瞬間、思わず『ありがとう』って言ってしまった」と苦笑まじりに語るのを聞いてきました。そしてその理由を聞くと、みな一様にこう言いました。「これでやっとクスリがやめられる、もう (うそ) をつかないでいい。そう思ったら、何だかホッとしてしまって」と。

 要するに、あの「ありがとう」という言葉は、その人がそれだけ悩んでいた、苦しんでいたということを意味するものなのです。「軽い」「反省が足りない」などという批判は見当違いもはなはだしいというべきでしょう。

 それにしても、つくづく薬物依存症者は誤解されていると思います。たとえば、ある薬物依存症者が「やめられない」と告白した状況を想像してください。その状況、専門家であれば、「よく言えたね。回復の第一歩だよ」と褒めるところです。しかし、世間一般の反応はどのようなものでしょうか? おそらく「反省が足りない」と非難され、さらに、「ダメな (やつ) 」「完全に終わった奴」と切り捨てられ、社会から排除されるのがオチです。

なぜ一部の人だけが依存症になるのか

 ところで、人はなぜ薬物依存症になるのでしょうか?

 もしもあなたが多少とも見識のある方ならば、こう答えるはずです。「依存症の原因は、性格や意志の弱さなんかじゃない。薬物に手を出したからだ。その結果、薬物の強烈な快感が脳に刻印付けられてしまい、脳が支配されてしまっているからだ」と。

 なるほど、その通りです。確かに依存症になりやすい性格傾向など存在しませんし、薬物を使ったことがない人はどうあがいても薬物依存症にはなれません。そして、脳に刻印づけられた欲求に対して、意志はあまりに無力です。なにしろ、依存症になった脳は、隙あらばその人の耳元で甘言を弄し、誘惑します。

 「たまの1回なら大丈夫」「これが最後の一発」「バレなきゃ平気」……。

 これに打ち勝つのは容易ではありません。

 しかし、さきほどの回答はまだ完璧とはいえません。なぜなら、薬物に手を出しても、依存症になる人とならない人がいる、という事実を説明できていないからです。

 たとえば、アルコールはれっきとした依存性薬物ですが、それでも依存症になるのは習慣的飲酒者のごく一部です。また、睡眠薬や鎮痛薬、あるいは市販のかぜ薬でも依存症になる人がいますが、それも使用経験者の一部に限られます。

 意外に思うかもしれませんが、覚せい剤の場合も同じなのです。覚せい剤依存症患者の大半は、最初のうちは仲間と一緒に覚せい剤を使っていたのに、気づくとひとり取り残されてしまった人たちです。彼らはよくこう愚痴ります。「昔、一緒にクスリをやっていた奴は、今じゃ、みんな家庭を持ってちゃんと家族を養っている。いまだクスリから抜け出せないのは自分だけ。どうして自分はダメなのか……」と。

 依存症になる人とならない人、その違いはどこにあるのでしょうか? 

「ネズミの楽園」が教えてくれること

 興味深い実験があります。1980年にサイモン・フレーザー大学のブルース・アレクサンダー博士らが行った、「ネズミの楽園Rat park」と呼ばれる有名な実験です。

 この実験では、ネズミは、居住環境の異なる二つのグループに分けられました。一方のネズミは、1匹ずつ金網でできた (おり) の中に(「植民地ネズミ」)、そしてもう一方のネズミは、広々とした場所に雌雄十数匹が一緒に入れられました(「楽園ネズミ」)。

 ちなみに、楽園ネズミに提供された広場は、まさに「ネズミの楽園」でした。床には、巣を作りやすいように常緑樹のウッドチップが敷き詰められ、いつでも好きなときに食べられるように十分なエサも用意されました。また、所々にネズミが隠れたり遊んだりできる箱や缶が置かれ、ネズミ同士の接触や交流を妨げない環境になっていました。

 アレクサンダー博士らは、この両方のネズミに対し、普通の水とモルヒネ入りの水を用意して与え、57日間観察したわけです。その結果は実に興味深いものでした。植民地ネズミの多くが、孤独な檻の中で頻繁にモルヒネ水を摂取しては、日がな一日 酩酊(めいてい) していたのに対し、楽園ネズミの多くは、他のネズミと遊んだり、じゃれ合ったり、交尾したりして、なかなかモルヒネ水を飲もうとしなかったのです。

 この実験結果こそが、「なぜ一部の人だけが薬物依存症になるのか」という問いの答えではないでしょうか? それは、自分が置かれた状況を「狭苦しい檻」と感じている人の方が、「楽園」と感じている人よりも薬物依存症になりやすいということ、つまり、しんどい状況にある人ほど依存症になりやすいということです。

 もちろん、「人間をネズミと一緒にするな」という反論もあるでしょう。しかし、国家レベルで見れば、薬物汚染が深刻な国は、きまって貧困や経済格差に (あえ) ぐ、「暮らしにくい国」なのです。同じことが、個人レベルでも認められたとしても不思議ではない――私はそう考えています。

安心して「やめられない」といえる社会

 「ネズミの楽園」実験には続きがあります。

 アレクサンダー博士らは、檻の中でモルヒネ水ばかりを飲んでは酔っ払っていた植民地ネズミを、今度は、楽園ネズミのいる広場へと移したのです。すると、彼らは、広場の中で楽園ネズミたちとじゃれ合い、遊び、交流するようになりました。

 それだけではありません。驚いたことに、檻の中ですっかりモルヒネ漬けになっていた彼らが、けいれんなど、モルヒネの離脱症状を呈しながらも、いつしかモルヒネ水ではなく、普通の水を飲むようになったのです。

 この実験結果が暗示しているものは、一体何なのでしょうか?  

 私はこう考えています。それは、薬物依存症から回復しやすい環境とは、「薬物がやめられない」と発言しても、排除もされなければ孤立を強いられることもない社会、むしろその発言を回復の第一歩と見なし、応援してもらえる社会であるということです。

 一言でいいましょう。

 それは、安心して「やめられない」と言える社会なのです。

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松本俊彦_300

松本 俊彦 (まつもと・としひこ)

 国立研究開発法人 国立精神・神経医療研究センター 精神保健研究所 薬物依存研究部 部長

 1993年、佐賀医科大学卒業。横浜市立大学医学部附属病院精神科助手などを経て、2004年に国立精神・神経センター(現、国立精神・神経医療研究センター)精神保健研究所 司法精神医学研究部室長に就任。以後、同研究所 自殺予防総合対策センター副センター長などを歴任し、2015年より現職。日本アルコール・アディクション医学会理事、日本精神科救急学会理事、日本社会精神医学会理事。

 『薬物依存とアディクション精神医学』(金剛出版)、『自傷・自殺する子どもたち』(合同出版)、『アルコールとうつ・自殺』(岩波書店)、『自分を傷つけずにはいられない』(講談社)、『もしも「死にたい」と言われたら――自殺リスクの評価と対応』(中外医学社)、『よくわかるSMARPP――あなたにもできる薬物依存者支援』(金剛出版)、『薬物依存臨床の焦点』(同)など著書多数。

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