「新自由主義」の妖怪 稲葉振一郎

2016.10.27

14産業社会論の失敗(2)

 

 産業社会論の「失敗」の理由の内在的解明はまだ十分に行われてはいません。外在的に見れば、新自由主義の台頭や社会主義の崩壊といった時流に鑑み、少なくとも後知恵的にはむしろ自明にさえ思えるのですが、それにしてもなぜそうした時流に十分に抵抗できなかったのだろうか、という疑問も湧きます。晩年の村上泰亮の仕事なども、新自由主義に呑み込まれないリアルな保守主義の構築への必死の努力ではあったのですが。

 ここで私が念頭に置いている仮説は「産業社会論、のみならず70年代、ひょっとしたら80年代頃までの社会科学の大勢としては、技術革新というファクターを社会科学的に内生変数化することがうまくできず、それゆえに技術革新の現実を見誤っていた」というものです。
 技術革新、技術の発展、それによる生産力の拡大は、少なくともマルクス以来、そしてカール・マルクスが『資本論』で参照しているデイヴィッド・リカードウやチャールズ・バベッジ以来、社会科学にとって重要な問題であり続けましたが、大体において社会科学は、技術の発展を与件、外生変数としてきた、つまりそれを使って何か別の社会科学的な課題を説明するために使ってきても、内生変数、つまり社会科学的モデルによってその変化を説明する対象としては扱ってきませんでした。平たく言うと、科学技術は社会の外側にあって、それ固有のリズムでもって勝手に発展してくるもので、社会はその時々でそれに対応する――このようなモデルが大勢を占めていたのです。
 もちろんマルクス自身の議論は、技術の発展が階級闘争によって影響を受けることを示唆してはいましたが、その後のマルクス主義の全体としての展開は、「生産力と生産関係の弁証法」が云々される場合にも、両者が対等であるというよりは「生産力(技術)の変化に生産関係(社会体制)が適応できなくなると革命が起きる」という風に、生産力(技術)の側に主導力があるような捉え方によって導かれてきました。
 1960~70年代にはトマス・クーン以降のいわゆる「新しい科学論」や、大学闘争に呼応してのラディカル社会科学運動の中から「科学技術の政治経済学」的な試みが現れ、たとえば「資本主義社会の下での技術革新は、科学技術の自動的な発展によっておこるのではなく、技術を支配する資本家の階級的利益、それと対抗する労働者との闘争などによってその方向やスピードが左右される」といった問題提起も見られるようになったとはいえ、まだまだそれらは先駆的な問題提起にとどまりました。ですから、この時代のオーソドックスな経済学のモデルにおいて技術革新は、経済主体の選択行動によってそのスピードや方向が決定される内生変数ではなく、あらかじめ経済社会の外側で起きて、経済主体はそれを与えられた環境制約として受容して行動する、という風に扱われるのが普通でした。経済主体の主体的な選択行動(研究開発のための投資など)の結果技術変化が起きる、といった設定での経済成長モデル(内生的成長理論)が一定の完成を見たのはようやく1980年代半ばのことです。
 この「技術変化を社会にとっての外生変数として扱う」というアプローチは、社会学、政治学、経営学を主戦場とする産業社会論においても支配的な立場でしたが、経済学においてもこの事情は同様でした。その結果のひとつが、この時代における、主流派経済学の枠組みを踏まえての比較経済体制論における意外な議論――自由な市場経済体制と、社会主義計画経済との間の優劣は、一概には言えない――というものでした。有名なオスカー・ランゲの「市場社会主義」――計画当局が市場取引のシミュレーションという形で経済計画を設計し計算するという戦略――までをも「社会主義計画経済」のうちに数え入れてしまうならば、計画経済によっても競争的市場経済と少なくとも同程度の効率性は達成できるし、更に言えば公共財や公害、あるいは自然独占を引き起こしてしまうような大規模装置産業においては、競争的市場経済はうまくはたらかないのだから、総体としての自由市場経済と、社会主義計画経済の優劣はそう簡単につけられない、と。これに社会保障やケインズ的マクロ政策の必要性を加えれば、なおのこと両体制間の優劣は不分明となります。
 繰り返しますが、このような分析を行う理論モデルにおいては、技術革新が外生変数として扱われ、それ自体は分析の対象とはなりませんでした。この分析の欠如に対する言い訳としては、「現代の技術革新においては、非営利的な学術セクターその他の公共部門の貢献が極めて大きく、その意味で西側自由主義圏と東側社会主義圏の間では極端な差はない。西側市場経済における営利企業にとっても、技術革新は外生的な要因として扱ってもそれほど大きな問題はない」といったものが想定されていました。東西冷戦下で、先端技術における軍需のウェイトが高く見積もられていたこと、またそれが特に東側では技術革新総体の牽引車となっていたことを意識した議論です。また、科学的知識をはじめとする情報には公共財としての性質が強くあり、私的所有制度、ひいては市場経済メカニズムになじみにくい、という議論も引き合いに出されました。物財とは異なり知識、情報は開発者によって独占することが難しく、模倣され盗まれる危険が高い。つまり知識生産に対しては、その費用を負担せずに利用しようとするタダ乗り行為(free riding)の誘惑が強く、結局過小供給になってしまう、というわけです。それゆえ技術開発を含む知識生産には、市場システムは不向きで、公的な学術研究組織が必要になる、と。
 しかしいつの頃からでしょうか、このような想定では現実と理論モデルとの間の乖離を到底埋められるものではないことに、実務家たちも研究者たちも気づき始めます。技術革新に占める民需のウェイトが軍需のそれを優に上回ったということなのか、あるいはもともと両者のバランスには大した意味がなかったのか、私にはよくわかりません。(軍事セクターと学術セクターに起源をもつインターネットの民間ビジネスへの爆発的普及は90年代以降のことであり、新自由主義の流行も、社会主義体制の崩壊もそれにはるかに先立っています。)ただここで言えることは、80年代半ばのソ連におけるペレストロイカから、急激なドミノ倒しのごとき体制転換の嵐の中で気づかれていったのは、社会主義計画経済と資本主義的自由市場経済のパフォーマンスを決定的に分けたのは、民間の営利企業部門における技術革新能力の違いだったのだ、ということです。
 産業社会論をとる社会学者・政治学者たちも、あるいは技術革新抜きの比較経済体制論を研究していた経済学者たちも見落としていたのは、民間の営利企業の旺盛な技術革新意欲でした。たしかに新技術の開発においては、非営利的な学術セクターの貢献も無視できません。しかしながら、ことに民需が期待できる産業技術の開発においては、民間企業の方が中心的役割を担っていた、ということです。知識の私有財産制度へのなじみにくさに対しては、特許権や著作権といった知的財産権制度の強化という戦略で、それを私有財産制度、市場経済に取り込み内部化するという努力が行われました。しかしある意味それ以上に重要だったのは、営利企業は市場競争の中でライバルに勝つことを目指す以上に、競争の外に出てライバルを出し抜くこと、つまりは一時的にでも独占的地位につくことを目指すものだ、ということです。画期的な新技術の開発は、ライバルに追い付かれるまでの一時的なことではあれ、ただ単にライバルに優越するのではなく、ライバルを全く寄せ付けない独占的な優位性を企業に与えることがあります。こうした新技術の特性は、タダ乗りされる不利にもかかわらず、民間の営利企業をして新技術の開発に乗りださしめる刺激に十分になるのです。

 

 

(第14回・了)

 

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次回2016年11月22日(火)掲載