避難所で朝食用の割りばしを配る小学生=鳥取県倉吉市の成徳小学校で2016年10月22日午前7時40分、小関勉撮影
鳥取県で最大震度6弱を観測した21日の地震で、被災地では余震を恐れる多くの人たちが自宅を離れて一夜を明かした。「何度も揺れて、ほとんど眠れなかった」。慣れない避難生活がいつまで続くのか。被災者の表情に疲れがにじんだ。【小野まなみ、森野俊、園部仁史、釣田祐喜、井上卓也】
■車で一夜
最大震度5強を観測した三朝(みささ)町。役場に隣接する町総合文化ホールでは約150人が朝を迎えたが、駐車場にとめた自家用車で一晩を過ごした人もいた。
同町三朝の森下正美さん(77)は「人が大勢いるところで寝られないし、車のほうが安全だと思って……」と軽乗用車で夜を明かした。シートを倒して横になったが落ち着かず、「何泊もできないので、今晩は家に帰ろうと思う」と語った。
地震発生時は鳥取市内にいて、ホールに着いたのが21日午後7時過ぎだったという地元の主婦(71)も、毛布などを家から持って来て乗用車の中で休んだ。「一度離れたら駐車場が埋まってしまうかもしれないので、離れられない。これからどうしたらいいのか」と声を落とした。
■ビニールハウスで
「なるべく広くて安全な道を通って広場に集まってください」。北栄町国坂では地震発生の約15分後に、国坂浜自治会会長の山信幸朝(ゆきとも)さん(73)が有線放送で住民に呼びかけた。
広場は普段、グラウンドゴルフ大会などで利用。卓球台などが置かれたビニールハウスもあり、避難訓練でも使っている。放送を聞いた住民約30人がすぐに毛布や飲料水などを持ち寄り、ビニールハウスでストーブを囲んだ。結局約15人が自宅に帰らず朝を迎えた。
自宅が築60年以上という岡本祐子さん(65)は「家がミシミシ鳴って怖かったので逃げてきた。顔なじみがたくさんいるので安心でした」。山信さんは「ビニールハウスは軽くて崩れず、熱を逃がさないので避難所に適している。余震が落ち着くまでどれくらいかかるか分からないが、ここにいれば大丈夫だ」と話した。
■避難所で
「眠れそうになると余震で目が覚めて、周囲から『またか』という声が出ていた」。倉吉市立成徳小学校に家族で泊まった主婦、岩瀬敦子さん(44)はこう振り返った。同居する母(72)と同小に避難している介護士、近衛藍子さん(32)もほとんど眠れなかったといい、「家の安全性を確かめて今夜にも帰りたい」と話した。
倉吉市立河北小学校で子供5人と朝を迎えたパート従業員の女性(38)は「毛布があったが寒く、子供たちもたびたび目を覚ましていた。一番下の3歳の息子は余震のたびに抱きついてきて、とても怖がっている」と語った。22日はいったん自宅に戻り、棚から落ちた物などを片付ける予定だが、「余震が続くようだとまた避難所に来るかもしれない」と表情を曇らせた。
■炊き出しも
最大約200人が避難していた湯梨浜町のハワイアロハホールでは22日朝、赤十字のボランティアらによる炊き出しがあった。町が備蓄していたアルファ米の五目ご飯を使い、400食が避難者に配られた。
近くの自宅から避難した本田百合子さん(90)は「温かくておいしい。ほっとしました」と喜んだ。長男夫婦と暮らすが、「広い場所の方が安心」と避難所に身を寄せた。1943年の鳥取地震の際は「揺れが収まらずに外で1週間寝た」といい、「余震が続かないか不安だ」とつぶやいた。