作ってみた。
茄子、里芋、豚挽き肉のスパゲティ。
材料と作り方
こちらに倣った。
アレンジ
- 里芋を厚めにスライスしてレンチンし、茄子に続けて投入。
- きゅうりの味噌漬けを絞って添えた。
うまい。
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ここから先はできれば読まないでくれ。理由は読んでくれればわかる。
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高橋まつりちゃんは俺の後輩筋にあたる。俺は96年東大文学部卒、そのまま人文社会系修士課程に進み、博士には見込みがなかったので就職した。誰もが名前を聞いたことのある証券会社とメーカーでやくざな仕事をしながら週末には翻訳をしたり、予備校で英語や国語を教えたりしながら、ほどよく壊れ、休んでいる間に旅をし、酒をくらい、本をよみ、女たちと戯れた。現在はまあまあ聞いたことのあるかもしれない名前の外資でやっぱりやくざな仕事をしている。堀江(高卒)と、貧困村に取り組んでいる法政のセンセイがほぼ同期。TOEICは945くらいだ。
実にばからしい。人間の価値はその生涯に好いてくれたねこちゃんの数で決まる。
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東大では電通のヒエラルキーはトイアンナがいうほど高くない。そもそも、民間企業が高くない。いちばん偉いのは教養課程から教養学部(本郷を知らない子供たち)に進み卒業前に昔でいう外交官試験に受かって中退任官する。次が昔の国家一種か司法試験。同じくらい偉いのが理3医学部で開業医。それら特A級かS級かから漏れたらメガバンク、商社、証券、キー局、広告代理店DかH、JR東海、東電、NTTD、日本生命、向こうから電話がかかってくるので適当に収まればよい。授業をちゃんと受けていて民間企業に希望が見いだせなければ研究室に残ることもさほど苦労しない。少なくとも96年当時はそうだった。不況と社会変動はあれど、構造はいまだってそう大きくは変わらないだろう。
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ということは、だ。少々のOB訪問、OG訪問をするなり、サークルの先輩から話を聞けば、電通の鬼十則のことなんて大学1年で耳に入る。なぜか。先輩がサークルの後で食事に連れていってくれるからだ。それでも選んだのだろう。そこは今回のケースでいえば、高橋まつりちゃんの甘さだった。俺は到底務まらないと思って勉学にいそしんだ。逃げた。だが追い詰められ結果的に生命を賭すことになった抗議を論う(あげつらう)まい。悪いのは長時間労働「だけ」ではない。例えば、カラオケルームでストリップをせねばならないような空気、同調圧力、上の世代や、同級生や家族親類からの「重さ」が絶えずかかってくるような、要因それぞれに、非は求めなければならない。
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その中で本当はいいたくなかったのだがどうしても書かねばならないと思ったことが1点ある。まつりちゃんのお母ちゃんが、まつりちゃんと交わしたとされる最後のやりとりのことだ。
「死んではだめよ」
「うん、うん」
これがひとつの決定打になったのではないかと俺は訝しむ。批判ではない。まして非難するつもりもない。お母さまの中では数千回数万回自問しているはずの(おそらくは、これからも…)会話をどうこうできる第三者はいない。しかし教訓が得られる可能性はある。
慶応的な社会資本や人脈に乏しい、地方高校出身で東大を出てしまった右も左もわからないおねえちゃんがいるとして、まず、「いい子」だったろうと思う。「こうしなさい」「こうしてはだめ」という躾がなされてきたとして、本当に死にたい、死ぬしかないというところまで追い詰められた、最後にすがった、お父様がいない環境で片腕で育ててくれた母親にSOSを投げかけた、その答えが「死んではだめよ」だったとしたら、申し訳ない、それは死を選ばせてしまうに(駱駝の一毛程度に)十分だ。俺(28)がそうだった。ダブルバインドからも説明はつく。だが、その説明をしたところであまり意味はなかろう。
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「こんなふうにするために金をかけて育てたのではない」と言い放った父親を、俺は生涯許すことがないと思われる。「どうしてこんなふうになったんだ」。そのひとことを黙って聞いてから電話を切り、パスポートの有効期限を確認するなり、どこでもいい日本を離れたいと思って俺は成田行きのバスに乗った。俺が聞きたかったのはそれとは違う科白だった。だがそれが何であるかを語ることは俺にはできない。
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68年に九州で生まれ、優秀に育ったおねえちゃんがいた。彼女は高校を出るときに模擬試験で東大のA判定をもらう。教員を務めていた母親はとにかく古風の厳しい人だったという。女が大学に進む条件は1つ。手に仕事がつくこと。いくらなんでも東大理3は難しい。その医学部だって出るまでに6年かかる。「お嫁に行けなくなったらどうするの」「だったらせめて親元から通えるところにしなさい」。地元の国立大学医学部に軽く合格し、医師国家試験にも少々の労力で受かってしまい(ご本人談)、右も左もわからないまま指導教官の推薦のもとに都心の大学病院に入り、親の望むままに仕送りをして、睡眠薬と精神安定剤をぽりぽりやりながら、それでもなんとか睡眠時間4時間の日々を30歳までは持ちこたえた、と聞いた。
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SOSの送り方を知らなかったとも彼女はいった。正される(糺される)ことがわかっているから。そのような母娘関係を基調としたままの30年だったと、知ったのは後付けの知恵。玄関と窓に目張りをし、ガス管をひねり、もうろうとしたところで命拾いをしたのは、もともとやせっぽちだった身体が40kgを切ったあたりから同僚が怪しんで気を付けていてくれたからだった。迷わず大家を説得してドアを開けて救急車を呼んでくれた。
彼女が2ちゃんねるの上のスレッドに足を踏み入れ、よよん君と出会ってしまったのは、そこから再起を図ろうとするリハビリの最中のことである。
「つらかったら、逃げてもええの。血液グループ先生には、上手に、たたかわない先生になってほしいと、ようちゃんは心配してよう話してました」
お通夜に足を運んだ彼女に、よよん君のお母さまはそうことづけた。
彼女はそのとき、何か自分を律してきた長年の呪縛から解き放たれたことを感じたと僕に話してくれた。涙の大半を流し切ったあとと思える、澄んだ、とても美しい表情をしていた。
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俺なら、高橋まつりちゃんのお母さまに、20年くらい経った後で、取材をする。聞く側もつらい。だが避けては通れぬ。「あのときの電話の、別のいいかたを、僕も探してきました。どうでしょう。見つかりましたか」と、俺だったらそう口火を切るだろう。
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批判ではない。まして非難するつもりもない。俺はトイアンナのように自分に引き付けるネタにするためにこれほどの長文を費やすような趣味を持たない。ただ、スパゲティを作っている間に涙がこぼれて止まらなくなったので恥知らずにも歯を食いしばって記録しておこうと考えた。
「よよん君以後」を生きる俺にできることは、それくらいしかない。よよん君は、ねこが好きだった。ねこもまた、よよん君を好いていた。
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多謝多謝。
ここまで読んだら、この記事のことは忘れて、トイアンナのほうに戻ってくれればと思う。
関係がないといえば関係のない話。取り乱して、失礼をした。