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英明で慈悲深く 国民統合の柱 

タイのプミポン国王=AP

 タイ国民から絶大な支持を集めたプミポン国王がこの世を去った。国軍との協力の下、王室の権威と議会制民主主義を併存させる「タイ式民主主義」を確立し、長く国の安定と発展を支えた。しかし近年、国内は政治対立に揺れており、カリスマ国王亡き後「タイ式」は、大きな転換期を迎えることになりそうだ。【岩佐淳士】

 タイ人が国王に抱く「国父」としてのイメージと権威は、1946年に即位したプミポン国王が1代で築いたものだ。タイは32年の立憲革命で絶対王制が廃止され、王室の影響力は弱まった。再び影響力が強まったのは、軍人のサリット元首相がクーデターで政権を掌握した57年以降だ。

 サリット氏は、国王の権威を利用して政権の求心力を高め、開発独裁と反共産主義政策を進めた。プミポン国王も地方視察や開発事業を積極的に実施し、ラオスに近い東北部など貧しい農村に活動の重点を置き、共産化を防いだ。

 「私たちは誰とも戦っていない。飢えと闘っているのです」。70年代に撮影された英BBCのドキュメンタリー映像。「経済開発で共産ゲリラに打ち勝とうとしているのか」との質問にプミポン国王はそう答えた。

 英明で慈悲深い言動に国民は理想の君主像を重ね、プミポン国王は名実共に国民統合の柱となった。92年に国軍と民主化運動グループが衝突した「5月流血事件」では、双方を王座の前に座らせて仲裁し、その政治的影響力の大きさに世界が驚いた。

 一方「タイ式民主主義」は政治的安定をもたらしたが、王室に連なる軍や官僚、財閥といった支配者層に富と権力を集中させた。70年代以降の民主化運動を受け、議会制民主主義の比重は徐々に増したが、旧来の支配者層は隠然たる影響力を維持し続けた。

 そうした「ゆがみ」に目を付け「タイ式」を揺るがしたのが、2001年に首相に就任したタクシン氏だ。タクシン氏は「ばらまき」とも言われる政策で農村住民や貧困層から圧倒的な支持を得ると、大胆な行財政改革で既得権益に切り込んだ。

 自ら新興財閥を率いる強権政治家は、保守層にとって「王室を頂点とするタイ社会への挑戦者」と映り、タクシン派と反タクシン派の対立が生まれた。

 軍は06年9月に「王制護持」を掲げてクーデターを決行し、タクシン氏を政界から追放。しかし、タクシン派の影響力はその後も衰えず、国内分断はより深刻化した。反タクシン派政権下の10年には治安部隊がタクシン派のデモを強制排除し、約90人が死亡した。

 14年5月のクーデターでタクシン派政権を再び打倒した軍部は、王制護持を柱に政治改革を進めている。政党政治の影響力低下を狙った新憲法に国民は不満を抱くが、8月の国民投票では賛成が多数を占め、国王の承認を待つばかりとなっていた。王室に対する不敬罪の取り締まりも強化している。

 ただ、こうした動きは「タイ式」を支えてきた軍部の危機感の表れとも言える。

 告発サイト「ウィキリークス」が明らかにした在タイ米大使館公電(08年5月)は、国王の権威を「長年にわたる努力に培われた国王個人に由来するもので、後継者に受け継がれるものではない」と指摘した。

 京都大東南アジア研究所のパウィン・チャッチャワーンポンパン准教授は、クーデターの背景には、政治が混乱する恐れもある王位継承を前に軍が政治をコントロールする狙いがあったのではないかとみる。

 王室を敬うほとんどのタイ人は、在位70年に及ぶプミポン国王以外の王様を知らない。最大のカリスマを失った後、非民主的とも批判される「タイ式」が維持できるのか。タイ現代史は、王位継承という未知の領域に入ろうとしている。

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