今日からニューヨークでアドバタイジングウイークが開催されます。これは広告業界のウッドストックみたいなものです。

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しかし今回は開催前から波乱含みの様相を呈しています。

先週、フェイスブック(ティッカーシンボル:FB)が、FB上の動画に対するユーザーのエンゲージメントを大幅に過大報告していた事件が発覚しました。

具体的には、ユーザーが平均してどのくらい動画を視聴しているか?を計算する際、動画再生開始直後(=3秒以内)にその動画をスルーしてしまったユーザーを、平均を算出する際の分母から除外して計算していたことに気が付いたのです。

結果として、エンゲージしている視聴者だけを「選り好みして」抽出したことになり、数値が素晴らしいものになりました。

このエラーにより、過去2年間にわたり、動画平均視聴時間が60%から80%も過大に報告されてきました。

素晴らしいエンゲージメントをアピールすることで「動画広告を打てば、それが熱心に視聴される」という誤った印象を広告主に与えたわけです。

ただ今回の事件は過去の売上高の下方修正(リステートメント)などの経理上の問題は引き起こさないと思います。なぜなら現在の契約では3秒以上視聴された動画に対してのみフェイスブックが広告主に課金しているからです。

その意味で、今回の事件が足下のフェイスブックの業績に与える影響は、殆ど無いでしょう。

ただフェイスブック広告のエコシステム内では、大きな不満が渦巻いています。

一例として世界最大級の広告代理店、WPPのマーティン・ソレルCEOは「フェイスブックは自分の宿題の採点を自分でやるような行為を、すぐにやめるべきだ」と発言しました。

フェイスブックのプラットフォームはかねてから「秘密の花園」と言われており、サードパーティーが、公平な立場から広告のリーチを計測することが許されていませんでした。

フェイスブックはネット企業の中でも、とりわけ秘密主義の企業です。一例としてニュースフィードを検閲し、上位に来るニュースを自分の価値観に基づき取捨選択している疑惑が出ました。

この批判に応え、アルゴに変更したら、今度はデマがトレンディング・ニュースの上位に来てしまい、フェイスブックのアルゴのお粗末さがネット界で笑いものにされるという不祥事が起こったばかりです。

財務面ではフェイスブックの透明性はグーグルよりさらに低いです。なぜならグーグルならTACというデータポイントがあるため、ある程度、「裏が取れる」からです。

フェイスブックの場合、より多くの「いいね」を獲得した、より多くの「インプレッション」を獲得した……などの、本当に効用があるのかどうか、眉唾的なメトリックスに広告主は依存しなければいけません。

これは既存メディアにおける慣習と、かなりかけ離れています。アメリカの場合、たとえばテレビならニールセン、ラジオならアービトロン、新聞や雑誌ならビューロー・オブ・サーキュレーションという中立な評価者が存在します。

そろそろフェイスブックも、このような公正中立な第三者からの評価を受け容れるべきでしょう。

さて、冒頭で「これが業績に与える影響はない」と書いたのですが、中期的にはフェイスブック広告の単価が、今回の事件を契機に下がり始める可能性はあると思います。

これまでパブリッシャーは大きな予算を投入して、動画広告を製作してきた背景にはフェイスブック広告は良く視られてるという先入観があったからであり、もしその動画が視聴されていないのなら、お金をドブに捨てているのと同じだからです。

動画広告は、直ぐにトランザクションを促す場合もあることはありますが、主にブランド・ビルディングに利用されます。その意味ではテレビ広告に近いわけです。

インターネット広告の原点に立ち戻ると、グーグルが検索広告を最初に出したときは、広告を出稿した企業への問い合わせが殺到しました。つまり広告の費用対効果は、たちどころに分かったのです。

ところが今は、昔のテレビ広告と同じで、「みんながやっているから、自分も広告を出す」式の経営判断が多くなっています。

本来であれば「実際に販売促進に寄与したか?」が問題にされるべきです。

その点、世界最大の広告出稿主であり、ソフィスティケートされた広告のバイヤーでもあるプロクター&ギャンブルが「フェイスブック広告は、効果がいまひとつだったので、今後絞り込む」と発表したのは注目に値すると思います。

同様に日本で発覚した電通の不正問題にしても、結局、トヨタというソフィスティケートされたアド・バイヤーが「これはおかしい。効果がいまひとつだ」と疑問を挟んだことを契機として明るみになったわけで、これらの最終顧客に価値をデリバー出来ていないネット企業やエコシステム企業は、対価の下方修正を甘受するのは当然です。