「コンプレット (Completto)」はその単純性に最大の特徴があり、ルールの理解しやすさやプレイ時間の短さなども含めて、老若男女誰にでもお勧めしたい。
1から100までの数字が描かれた四角いブロック(タイル)のうち、手札として最初は22個を持ち、数の小さいもの→大きなものへと並べていくゲームである。
詳細は私が解説するよりも、他のブログや動画の方がずっと分かりやすい。
【ボードゲーム レビュー】「Complete (コンプレット)」- 数字を並べる。それだけで面白い
このところゲーム会に何度か参加して、かれこれ30種類ほどはプレーした。どれもこれも「初めて知って、その場でプレーする」という状況が続く中で、どうも頭の中が忙しくなりすぎる種類のゲームと、逆に頭の中がシーンとして、精神が穏やかになるような種類のゲームがあるらしいことに気づいた。
皆の口数が減り、場の雰囲気が沈静化していくような、気持ちが鎮まるようなゲームが時々あって「コンプレット (Completto)」はその代表格といえる。
このゲームを行うことによって、たとえば落ち着きのない子供が黙るようになるとか、大人でも雑念が排除されるとか、いわば「瞑想」に近い効果が得られるのではないかと思う。それほど単純でありながら、しかもその「単純」というのは「退屈」「つまらない」「作業的」という意味ではなくて、充実しており快感が含まれているのだ。
この快適さとは何であろうか。
たとえば十年ほど前まではパソコンの中に「メモリの最適化」という項目があって、実行するとバラバラな四角が整理されるように動いて、やがて四角いビルのように整理整頓される機能があった。私はこの単純な動きを見ているのが好きで、時々じーっと眺めすぎている自分に気がつくほどであったが、いつの間にか無くなってしまった。
もしこの映像を15分や30分の実験的なアニメーション作品として見せられたら「退屈だ」と言って観客は激怒するかもしれないし「癒される」と喜ぶかもしれない。あるいは「藝術だ」と言って感心するかもしれない。また精神科に行ってこれを見せられたら「治療」として成立するかもしれない。「コンプレット (Completto)」はそれらの効果の美点だけがうまく凝縮しており、味わえるゲームなのである。
ところで、これほど単純なゲームを仮に自分が思いついたら「よし!ゲームマーケット2016秋で売ってやるぜ!」と意気盛んになるであろうか。どうもそうはならないような気がする。逆向きの数字を上下ともに「あり」にするべきか云々といった、いわば誰でも考えそうな「処理」「判断」とは別の次元で、「ここまで単純でいいのか?」という根本的なレベルで自分自身とこのゲームを疑ってしまいそうに思う。
たとえば数字の描かれたタイルの材質を半透明のガラスのようなものに変えて、斜め45度からだけは透けて見えるようにして、4人のプレイヤーのうち対面でない2人には見えるようにする、さらに中央のバラバラなタイルは別のケースに入れるなど、複雑な処理を少し付け足してから、ようやくその複雑さに安心できるのではないだろうか。
シンプルなゲームを複雑にするのは簡単だし、複雑なゲームの些細な欠点や改善点を見つけるのも簡単だが、シンプルなゲームの単純性の良さは捉え難い。
もしも、「コンプレット」の存在しない世界で私がゲーム作りの講師にでもなって、小さな女の子が「コンプレット 」を提案してきたら、それを高く評価できるだろうか。「お嬢ちゃん、それは面白いけどちょっと味つけが足りない気がするよ。例えばタイルを半透明にして……」などと、自信満々でアドバイスする自分の姿……。考えれば考えるほど恐ろしい、素人ゲーム作家の悪夢といえそうな光景である。