私が最後に見た大河ドラマは「葵三代」でした。
この大河ドラマを最後に見なくなったのですが、
真田幸村を題材にした大河「真田丸」がやると知って久しぶりに
大河ドラマを見ることにしました。
戦国時代には自信があるので、真田丸を見ながらこういう解釈で物語を進めている真田丸が刺激的で、
非常に勉強になっている毎週日曜午後八時。
先週この真田丸は大きな節目を迎える大事な回でした。
ついに石田三成が挙兵し、天下分け目の戦と知られる関ヶ原の合戦へと動き始めます。
この戦いが開始される前に真田家は重大な決断を先週の真田丸では放映しておりました。
この時真田丸と全然関係ない韓信(かんしん)が、
大事な場面で話題に挙がって登場しているのをご存知でしたでしょうか。
今回は大河真田丸のお話と韓信(かんしん)がどのように参加していたのかを
史実の犬伏の別れと比較しながらご紹介していきたいと思います。
真田丸に関する記事一覧:真田丸全記事
史実における真田家の動向
(写真引用元:NHKオンライン 真田丸)
真田昌幸(さなだまさゆき)は史実ですと徳川家康が上杉討伐の軍勢を率いて会津に向かった際、
昌幸と息子の信幸(のぶゆき)、幸村(ゆきむら=史実だと信繁)達と共に徳川勢と共に、
会津へ向かう軍勢に参加します。
途中上田城によって軍勢の再編を行った後、犬伏へ向かっていきます。
彼らが犬伏に向かっている最中、
佐和山城(さわやまじょう)に蟄居していた石田三成(いしだみつなり)は、
ある人物と会見しておりました。
石田三成挙兵
(写真引用元:NHKオンライン 真田丸)
石田三成は親友である大谷吉継(おおたによしつぐ)と会見。
三成は「形部少輔殿。どうか家康挙兵に参加してくれないか。」と懇願します。
しかし吉継は「バカ野郎。内府に勝てるわけないだろう。」と
言って取り合ってもらえませんでした。
だが三成は何度も彼を説得。吉継も三成のしつこさに負けて、
親友である三成と共に死ぬことを決意し。
家康討伐の為の挙兵に参加することになります。
三成挙兵を知った幸村パパひとつの決断を下す
(写真引用元:NHKオンライン 真田丸)
昌幸は犬伏に到着すると兵士の陣形を整える目的で、数日駐屯します。
この時石田三成から昌幸に書状が届きます。
その書状は「我らは豊臣秀頼(とよとみひでより=秀吉の息子)を奉じて、
家康討伐を行うため挙兵することにしました。昌幸殿も我らに味方していただけないでしょうか。
我らが勝った時は甲斐・信濃を上げたいと思っています。」と書き記しておりました。
昌幸はこの書状を見て「幸村と信幸を連れてこい」と家臣に命じます。
犬伏の別れ
(写真引用元:NHKオンライン 真田丸)
昌幸は二人が来ると近くの祠に入ります。
祠に入ると昌幸・信幸・幸村の三人は長いあいだ話していたそうで、
心配した家臣が様子を見に来て祠の戸を開けると昌幸に激怒されたそうです。
その後三人は祠を出て昌幸と幸村は軍勢を引き返して上田へ。
信幸はそのまま徳川勢と共に会津討伐戦に参加することになります。
犬伏で一体何が話し合われたのか
(写真引用元:NHKオンライン 真田丸)
さて犬伏で昌幸・信幸・幸村の三人で一体何が話し合われたのでしょうか。
ここでの三人の話し合いは伝わっていないですが、
私が思うにこのような事が話されたのではないのでしょうか。
昌幸「石田三成から書状がきた。見てみよ」と言って書状を二人に見せます。
二人は書状に食い入るように見ている間に昌幸は「信幸。どう思う」と問いかけます。
すると信幸は「私は豊臣に味方するのは反対です。
なぜならば大名に嫌われている石田三成が大将となっているようでは、
勝ち目がないように思えます。ならば我らは家康公に味方するのが、
一番いいのではないのでしょうか。」と答えます。
昌幸は信幸の答えをきいて満足げに頷いた後、幸村に「お前はどう思う」と訪ねます。
すると「私はこのまま強い者に味方しても面白くないと思います。それに私の妻は大谷刑部殿の娘。
ならば西軍につくのが道理であると考えます。」と述べます。
二人の意見を聞いた昌幸は「うむ。お前たちの意見は大いにわかった。
ならば父は幸村と共に西軍に味方につこうではないか。信幸お前は東軍に味方せよ。
これならばどちらが勝っても真田の家名は残る事になる」と言った後、
三人は祠を出てバラバラに行動することになります。
上記は廉の私見ですが、あながちはずれではないように思えます。
ここまでは史実における犬伏の別れを紹介しました。
次のページからは真田丸における犬伏の別れを紹介しつつ、
史実との違いを見比べながら紹介したいと思います。
そしていつごろ韓信は登場するのでしょうか。
【次のページに続きます】