夏目漱石が同僚に宛てた未公開書簡を発見
文豪、夏目漱石が新聞社で同僚だったジャーナリストに宛てた書簡が、千葉県我孫子市で見つかり、当時、珍しかった電話のかけ方に戸惑う様子がつづられるなど、漱石の素顔がうかがえる貴重な資料として注目されています。
見つかった書簡は夏目漱石が入社した「東京朝日新聞」で同僚だったジャーナリストの杉村楚人冠に明治43年と大正元年に宛てた2通で、楚人冠が住んでいた我孫子市にある「杉村楚人冠記念館」が遺族から借りていた資料を調査していて見つけました。
このうち、大正元年の書簡には、「先刻電話をかけたれど通じた様(よう)で通じないやうで一向不明不得巳(いっこうふめい/やむをえず)」としたうえで、「小生社の電話には田舎ものなり。一寸(ちょっと)教へて下さい」と当時、珍しかった電話をうまくかけることができない漱石の戸惑いがつづられています。
また、楚人冠の娘が9歳で亡くなった直後に送られた明治43年の書簡には、「定めて御力落しの事と存候(さだめて/おちからおとしのことと/ぞんじそうろう)」、「さぞ気を落としていらっしゃることでしょう」と楚人冠を気遣う思いがつづられています。
2通の書簡はこれまで知られていなかったもので、杉村楚人冠記念館の高木大祐さんは「書簡には、漱石の人間臭さやユーモア、それに気配りが感じられる。2人の親交の深さを知るうえでも貴重な資料だ」と話しています。
このうち、大正元年の書簡には、「先刻電話をかけたれど通じた様(よう)で通じないやうで一向不明不得巳(いっこうふめい/やむをえず)」としたうえで、「小生社の電話には田舎ものなり。一寸(ちょっと)教へて下さい」と当時、珍しかった電話をうまくかけることができない漱石の戸惑いがつづられています。
また、楚人冠の娘が9歳で亡くなった直後に送られた明治43年の書簡には、「定めて御力落しの事と存候(さだめて/おちからおとしのことと/ぞんじそうろう)」、「さぞ気を落としていらっしゃることでしょう」と楚人冠を気遣う思いがつづられています。
2通の書簡はこれまで知られていなかったもので、杉村楚人冠記念館の高木大祐さんは「書簡には、漱石の人間臭さやユーモア、それに気配りが感じられる。2人の親交の深さを知るうえでも貴重な資料だ」と話しています。