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「世界のオンリーワン」を目指して、地球の頂上へ-生涯現役 ― チャレンジし続ける人生(三浦 雄一郎さんコラム-第1回)

コラム

三浦 雄一郎(みうら ゆういちろう)

私が、ずっと憧れていたエベレストの頂上に初めて立ったのは70歳の時でした。そして、75歳、80歳の時にも登頂を果たしています。そんな高齢になるまでなぜ登らなかったのか。また、一度登れば十分じゃないか。そうした疑問や意見をお持ちの方は少なくないでしょう。

そこで、3度の登頂に挑むまでの経緯と、その背景にあった想いなどをお話したいと思います。

三浦 雄一郎(みうら ゆういちろう)
画像元:ミウラ・ドルフィンズ

他人ではなく自分に打ち勝ち、唯一無二の存在になる

もちろん、70歳になって初めてエベレストに登ってみようと考えたわけではありません。壮大な夢の始まりは、そこから50年も前、20歳の頃に遡ります。当時、私は北海道大学の学生で、山岳部に所属していました。それ以前、標高8848mはあまりにも気圧が低いため「人間はエベレストの頂上にたどり着く前に死んでしまう」と言われていましたが、エドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイという2人の男がそんな定説をあっさり覆し、人類初の登頂に成功したのです。その快挙を知った時、私は山岳部の仲間たちと「いつか自分たちもエベレストの頂上に立とう」と誓い合いました。

では、なぜ半世紀もの間、夢を眠らせていたのか。簡単に言えば、エベレスト登頂よりも情熱を注ぐべきことがあったのです。それは、スキーで世界一になること。そして幸運にも、1964年にイタリアで開催されたスピードスキーの大会で世界新記録(当時)を樹立し、夢に手が届きました。ただし、いくら栄光を極めても、いずれ体力的に若い選手にかなわなくなる。そこで、「ナンバーワンになれないのなら、スキーで誰もしなかったことにチャレンジしてみよう」と考え始めました。そして挑んだのが、背中にパラシュートを付けての富士山直滑降だったり、世界七大陸の最高峰でのスキー滑降だったりしたわけです。

目的を成し遂げるたびに感じたのは、達成感よりも「よく生きて還って来られたな」という安堵感でした。でも、命が惜しかったら無謀とも思えるチャレンジを続けたりはしなかったでしょう。命に代えても手に入れたかったものは何かと言えば、「世界のオンリーワン」になったという実感でした。他人と戦うのではなく、自分自身に打ち勝って世界が認める唯一無二の存在になることが、私の目指すものだったのです。

家族の支えがあったからこそ実現できた登頂

1985年に、南アメリカ大陸最高峰のアコンカグアから滑降したことで、世界七大陸の最高峰でのスキー滑降を完遂したのが53歳の時でした。詳しくは次回お話ししますが、大願を成就したことで目標を見失い、不摂生な生活を送った私は、命の危険に及ぶほどの不健康な状態に陥りました。65歳の時には、深刻なメタボリック症候群により「余命3年」と医者から宣告されたほどです。

危機的な状況から脱するため新たな目標としたのが、エベレスト登頂でした。「高齢者でもここまでできる」ということを自らの肉体をもって証明する、いわば加齢による人間の限界を自分の力で引き上げてみたいと思ったのです。しかも世界最高齢(当時)での頂上到達となるので、また「世界のオンリーワン」になれるかもしれない。そして、トレーニングにトレーニングを重ね、2003年に70歳でのエベレスト登頂に成功しました。

ただしその年は、人類が初めてエベレストの頂上にたどり着いてからちょうど50年後にあたるアニバーサリーイヤーということもあり、山は非常に混んでいました。頂上へのルートは一つしかない。途中で動けなくなっている人たちを見つけ、彼らの救出作業を手伝っていたら、到着が予定より3時間も遅れてしまったのです。計画通りの時間に着いていれば晴れわたった景色が迎えてくれたのに、頂上はすっかり雲に覆われて何も見えません。死ぬような想いで登って、雄大な眺望を拝めなかったことが無念でたまりませんでした。

そこで、5年間の準備期間を置いて、75歳に再チャレンジすることにしたのです。最初、家族には反対されました。しかし、私の生き様をずっと見てきた彼らは、最後は納得というか、あきらめたようです(笑)。それどころか、全員で一生懸命サポートしてくれたのです。特に、初登頂の時も付き合ってくれた次男は、それこそ命がけで再登頂を支えてくれました。家族には本当に感謝しています。

やれることを精一杯やり抜き、年をとっていく人生に

5年サイクルというのは、心身を整えるのにちょうどいい。初めの2年はゆっくり休んで肉体を癒し、あとの3年で徐々にトレーニングを進めていくことができるからです。そして2008年、2度目の登頂に成功。ついに晴れ渡った絶景を堪能することができました。その時、「75歳で登れたんだから、80歳でもできるんじゃないか」という考えが脳裏をよぎりました。そして、さらに5年後の2013年、本当に80歳で3度目のエベレスト登頂を実現させたのです。

歳をとればとるほど、加齢による人間の限界を引き上げることに挑める。成功すれば、その都度「オンリーワン」になれる。そのような想いが、私をエベレストへ誘い続けました。私は単に長生きしたいとは考えていません。精一杯やれることをやり抜きながら年をとっていく、そんな人生を送りたいと思っています。

3度にわたるエベレスト登頂までのエピソードを駆け足でご紹介してきましたが、もちろん「余命3年」の宣告を受けた高齢者が、「地球の頂上」にたどり着くまでの道のりは険しいものでした。次回はそのあたりをお話しましょう。

※このコラムは、保険市場コラム「一聴一積」内に、2016年5月18日に掲載されたものです。

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PROFILE

三浦 雄一郎(みうら ゆういちろう)

三浦 雄一郎(みうら ゆういちろう)

プロスキーヤー、クラーク記念国際高等学校校長

1932年青森県生まれ。1964年イタリア・キロメーターランセに日本人として初めて参加、時速172.084kmの当時の世界新記録樹立。1966年富士山直滑降。1970年エベレスト・サウスコル8,000m世界最高地点スキー滑降(ギネス認定)を成し遂げ、その記録映画 「THE MAN WHO SKIED DOWN EVEREST」 はアカデミー賞を受賞。1985年世界七大陸最高峰のスキー滑降を完全達成。2003年次男(豪太氏)とともにエベレスト登頂、当時の世界最高年齢登頂記録(70歳7カ月)樹立。2008年、75歳2度目、2013年80歳にて3度目のエベレスト登頂(世界最高年齢登頂記録更新)を果たす。

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