昭和の終わりを飾った53連勝
昭和天皇は大の好角家として知られた。大相撲観戦の回数は、学習院初等科から数えるとじつに71回におよぶ。1988(昭和63)年9月18日にも両国国技館を訪れる予定だったが、折から高熱が続いており、大事をとって中止となった。天皇の容体が急変したのはその翌日の夜中のことだった。
このあと昭和天皇の病状は一進一退を繰り返す。9月24日には最初の危篤状態に陥るも、何とか乗り切った。あくる日、意識の戻った天皇は「全勝か」と侍医らに訊ねたという。ちょうど大相撲秋場所の千秋楽で、第58代横綱・千代の富士貢(2016年7月31日没、61歳)の成績を気にしての質問だった。
千代の富士はこの年5月、夏場所の7日目に花乃湖に勝って以来、連勝を続けていた。7月の名古屋場所、そして秋場所と全勝優勝をはたす。これにより優勝回数は25を数え、北の湖の記録を上回り大鵬の32回に次ぐ歴代2位(当時)となった。それまで連勝など考えもしなかった千代の富士だが、この記録更新で一つ大きな仕事が達成できたと思い、楽な気持ちで相撲が取れるようになったという(『プレジデント』1989年12月号)。
千代の富士の連勝は11月の九州場所にも続いた。7日目には目標に置いていた大鵬の45連勝を抜いて歴代2位(当時)となる。その夜、当の大鵬親方と街でばったり会い、「連勝記録は一番一番の積み重ね。これからも一日一日、大事に取ってもらいたい」と激励された。ファンやマスコミからも、史上最多記録である双葉山の69連勝の更新を期待する声が高まる。本人にはそんな大それたことができるわけがないとの思いもあったというが、大鵬の言葉を胸に着実に連勝を伸ばしていった。14日目には53連勝にまで伸ばして優勝を決める。しかし11月27日の千秋楽、横綱・大乃国(現・芝田山親方)に敗れて双葉山超えはならなかった。
そのあいだ昭和天皇の病状は重くなる一方で、もはや九州場所をテレビ観戦する体力すら残っていなかった。結局、千代の富士が連勝を阻まれた取組が、昭和の大相撲の締めくくりとなる。翌89年1月、昭和天皇は崩御、元号は平成に改まった。千代の富士の目標は、元小結・大潮の持つ通算964勝という記録の更新、さらには前人未到の通算1000勝へと移っていく。
角界入りは「飛行機に乗せてやる」の言葉に誘われて
千代の富士、本名・秋元貢は1955年6月1日、北海道松前郡福島町に生まれた。津軽海峡に面する福島町は、青函トンネルの北海道側の建設基地として栄えた町だ。この町からはまた、第41代横綱の千代の山雅信が輩出されている。スポーツ万能だった秋元少年に力士の素質を最初に見出したのも、千代の山とつきあいのある地元の人たちだった。
地元の関係者から話を聞いて、1970年8月、中学3年生だった秋元少年の家に元千代の山の九重親方がスカウトに訪れる。それまで角界入りをすすめられても「相撲は好きじゃない」と断っていた秋元少年は、親方直々の誘いにも当初気乗りしなかった。しかし「飛行機に乗せてやる」の殺し文句に気持ちが一変する。飛行機のプラモデルをつくるのが好きだった彼は、本物に乗れるというだけで、東京行きを決めたのだった。
九重親方はこのとき地方巡業で福島町に来ていた。その弟子の北の富士勝昭は、ちょうど同年に第52代横綱になったばかりだった。北の富士は巡業中に親方から秋元少年と引き合わされ、「坊や、俺の名前を知ってるか」と訊いたところ、「知りません」と言われてガクッと来たという。それほど少年は相撲に興味がなかったのだ。しかし恥ずかしがったりおびえたりもせず、けっして視線をそらさない彼の態度は、北の富士に強い印象を残した(『文藝春秋』1989年12月号)。
上京した秋元少年は、9月の秋場所の新弟子検査に合格して、本名の「秋元」で初土俵を踏む。続く11月の九州場所は「大秋元」、さらに翌71年1月の初場所に際して「千代の冨士」の四股名を親方より与えられた(千代の「富」士となったのは75年初場所)。だが、もともと陸上でオリンピック出場を夢見ていた彼は、いまひとつ相撲になじめなかった。転入した台東区立福井中学では、区立中学連合の陸上競技大会に出場し、あこがれの国立競技場にて砲丸投げで2位に入賞までしている。そもそも約束では中学卒業まで相撲をやって、いったん北海道に帰り、それから先は相談して決めることになっていた。千代の富士は71年の春場所が終わると、郷里の高校に入って陸上に打ちこむつもりで、荷物も実家へ送り帰してしまった。あわてた九重親方は、何とか東京に引きとめるべく、明治大学付属中野高校に入学させる。
しかし高校では陸上部ではなく、相撲部に入れさせられた。しかも通学するうちに学業と相撲の両立の難しさに気づく。結局、高校は半年で退学し、相撲一本で行くことを決心した。これに親方は泣いて喜んでくれたという。
1971年の九州場所では三段目に昇進しながら、場所前の稽古中の骨折により全休、翌年の初場所には序二段に逆戻りする。それでも千代の富士は、けがの回復とともに猛烈な闘志で稽古に励み出した。兄弟子の北の富士から「オオカミ」というあだ名をつけられたのはこのころだ。一説には目をランランと光らせながら稽古する姿からつけられたとも、あるいはチャンコを
自腹を切りタクシーで出稽古にまわる
幕下時代の千代の富士の写真を見ると、痩身で鋭い目つきをしており、たしかにオオカミにそっくりだ。しかし彼には大きな弱点があった。それは肩だ。幕下となっていた1973年夏場所で左肩を脱臼してからというもの、何度も肩を抜いては休場を余儀なくされた。もともと肩の関節のかみ合わせが浅く、根本的に治すには手術をするしかないと医者から言われていたという。しかし手術するカネも、回復まで待てる時間も、若い千代の富士にはなかった。
1975年の秋場所では東前頭11枚目として初入幕したものの、こんどは右腕の筋肉を断裂する大けがを負う。完治までには時間がかかり、次の九州場所では十両に降格したあげく、翌76年の春場所から夏場所にかけては幕下陥落という屈辱を味わった。さらにこのあと十両から幕内に復帰するまでは1年半、9場所もかかることになる。おかげで一時やる気を失った千代の富士は、タバコや酒に夜遊びと自暴自棄な生活を送ったという。この間、師匠である元千代の山の九重親方が1977年10月に死去、九重部屋は北の富士(当時、井筒親方)が引き継いだ。
けがの頻発は、力まかせに投げ飛ばす強引な相撲が原因だった。それが1979年の春場所に右肩を脱臼したのをきっかけに、劇的に変わっていく。このけがのため再び十両に落ちた千代の富士だが、公傷扱いとはならなかった。そこで、次の夏場所には、肩に大きなサポーターをつけながら3日目から出場する。はたして千代の富士はこの場所で9勝をあげ、みごと2度目の幕内復帰を決めた。
これを境に、彼は相撲の型を根本から変える必要性を感じるようになる。強引に投げ打つ取り口では肩に負担をかけ、また脱臼するかもしれない。そこで、素早く相手の左前
こうして変えた型にたしかな手ごたえを感じたのは、東前頭3枚目だった1980年の春場所10日目、横綱・若乃花(二代目)から金星をとったときだ。このとき、元北の富士の九重親方から「あの相撲をとればおまえは伸びていく」と言われ、自分でも満足感を抱いたという(『WILL』1989年2月号)。同場所では初の技能賞を獲得、同年11月の九州場所は関脇として迎える。
なお、当時の九重部屋には千代の富士を除けば関取が一人しかおらず、場所前には相手を求めてほかの部屋へ出稽古にまわった。初めは部屋所有のマイクロバスを使っていたが、関脇にもなると自腹を切ってタクシーを利用するようになる。それでも彼は《さすらいの一匹狼だよ。(中略)出げいこのタクシー代、しめて六万円ナリさ》とさらりと言ってのけた(『現代』1981年2月号)。
「ウルフ・フィーバー」が始まったのは、このころだった。その精悍な顔立ち、力士らしからぬ筋肉質の体に魅了された女性は多く、彼を一目見ようと部屋や場所中の会場にはファンが殺到した。また国鉄(現JR)が1980年10月、千代の富士をモデルにしたポスターを各駅に掲示したところ、盗難があいついだ。
ちょうど大関の貴ノ花(初代)や増位山(二代目)といった人気力士たちの全盛期がすぎたころで、相撲協会も千代の富士の早い大関昇進を期待した。それは1981年の初場所での幕内初優勝により実現する。その後も勢いは止まらず、同年7月の名古屋場所後にはついに横綱に昇進した。いったん入幕しながらも幕下にまで落ちて再び幕内に復活した力士のうち、横綱にまで到達したのはいまのところ千代の富士だけである。この年、前出の2大関のほか、横綱・輪島も引退、世代交代のなか「ウルフの時代」が訪れようとしていた。
「短命横綱」と予想されながらの奮起
とはいえ、小兵という先入観から、千代の富士が大鵬や北の湖に並び立つ大横綱になると予想した人はほとんどいなかったらしい。横綱として初めて迎えた秋場所も、直前の巡業中で負ったけがのため、3日目から休場という幸先の悪いスタートだった。おかげで「短命横綱」との見方も出るなか、続く九州場所では12勝3敗で横綱昇進後初の優勝を決める。逆境に立たされながらも執念で賜杯を手にして、インタビューでは大泣きに泣いた。《あの苦しさの中でつかんだ優勝の自信は、その後横綱で十年も相撲を取ることができた原動力となった気がする》と、のちに彼は語っている(陣幕貢『負けてたまるか』)。
師匠の九重親方もまた当初は、千代の富士がまさか10年近くも横綱の地位を守り続けるとは思っていなかったようだ。その証拠に、彼が横綱になったとき《太く短くやれ。そして、もし横綱として相応の成績が残せない場合は、スパッとやめよう》と忠言したという(『文藝春秋』1989年12月号)。だが、千代の富士は結果的に「太く長く」横綱を務めることになる。
両国に現在の国技館が完成した1985年の初場所では、それまで千代の富士の大きな壁となっていた北の湖が引退する。北の湖は千代の富士よりわずか2歳上、引退時31歳だった。それに先立つ昭和の大横綱・大鵬も1971年、31歳になる直前に引退している。しかし千代の富士の場合、その年齢に達した1985~86年に全盛期を迎えた。85年には優勝4回(うち全勝2)、86年には優勝5回を記録する。このうち新国技館では87年の初場所まで7連覇を成し遂げた。これと前後して、幕内力士の大型化が著しかった。小錦、大乃国、北尾(のちの横綱・双羽黒)らの台頭で幕内平均体重は150キロ台に突入、そのなかにあって千代の富士は体重120キロ台(身長は183センチメートル)の小兵ながらトップに君臨し続ける。
それでもけがをしなくなったわけではない。横綱在位59場所中、休場は11回(うち全休は6回)におよぶ。だが、先述の「涙の優勝」以来、「休場後の千代の富士は強い」というジンクスが生まれていた。事実、休場明けの優勝は6回を数える。医者と相談して正しい治療をしながらも、横綱としての責任感から、多少痛くても稽古を続けた賜物だろう。冒頭にあげた53連勝のスタートも、1988年春場所を全休したあとだった。
一代年寄という名誉を辞退して部屋を継ぐ
平成と改元された1989年は、千代の富士にとって波瀾の1年となる。春場所では優勝したものの、けがのため千秋楽は不戦敗を喫した。このとき2月に生まれたばかりの三女を抱きながら賜杯とともに記念写真を撮っている。続く5月の夏場所は全休。悲劇はその翌月、次の場所で復帰するべく懸命にトレーニングを続けるさなかに起こった。三女が生後3カ月あまりにして乳幼児突然死症候群で急死したのだ。知らせを聞いた九重親方が駆けつけると、千代の富士は声をあげて泣いていたという。葬儀を終えてからもなかなか立ち直れず、稽古場で弟弟子の横綱・
次の名古屋場所は、調整がままならないうちに初日が来た。このとき、千代の富士は東京後援会の寺の住職から贈られた数珠を首にかけて場所入りする。ふたを開けてみれば、千秋楽まで12勝3敗で北勝海と並び、初の同部屋横綱による同点決勝となった。ここ一番で勝負強さを見せてきた千代の富士は、この決定戦も制する。ちなみに引退までに経験した優勝決定戦は、このときも含め6戦全勝だった。
9月の秋場所の12日目の
千代の富士が引退を発表したのは1991年の夏場所、3日目(5月14日)に貴闘力に敗れてからだった。初日には貴花田(のちの横綱・貴乃花)に敗れているが、引退の覚悟を決めたのは2日目の板井戦に勝ったとき(通算1045勝目)だという。もし翌日負ければ初日から3日間で1勝2敗となる。だが、そんな場所は関脇昇進以来なかったとの思いから、実際に負けたのならやめようと決意したのだ。
板井に勝って帰宅した千代の富士は、「いやあ、体が痛い、痛い」と口にする。ダジャレのつもりだったのかもしれないが、夫人からは「いつもそんなこと言わないのに、痛いって言うんだから、そうとうガタが来てるんじゃない」と心配されたという(『文藝春秋』1991年7月号)。事実、そうだった。引退会見で「体力の限界! 気力もなくなり、引退することになりました」と語ったとおり、現役末期の千代の富士からは、最後の目標だったはずの大鵬の優勝記録を破る気力ももはや失われていた。
引退とともに年寄・陣幕を襲名した彼は、翌92年、九重親方が50歳になったのを機に部屋を譲られる。じつは国民栄誉賞決定時、相撲協会からは一代年寄の打診を受け、自分の部屋を興す選択肢も用意されていた。しかし彼はそれを身に余る光栄と感じつつも、けっきょく辞退し、同郷の恩人である千代の山の興した九重部屋を継承する道を選んだのだ。以後は九重親方として、大関・千代大海(現・九重親方)をはじめ力士たちの育成に尽力する。
一方で相撲協会ではナンバー2の事業部長を2012年より務め、北の湖のあとの理事長候補の呼び声も高かったが、2014年の理事候補選に落選、平委員に格下げの憂き目にあう。翌15年11月に北の湖理事長が急逝したあと、その後任に就いたのは弟弟子である元北勝海の八角親方だった。この間、千代の富士は国技館で還暦土俵入り(2015年5月31日)を行なうも、直後の名古屋場所を病気で全休、やがて病名が膵臓がんと公表される。
手術をして一度は全快を宣言したものの、2016年に入ってがんの胃や肺などへの転移が発覚。各場所には監察委員として出続けたが、この年の名古屋場所4日目(7月13日)、「きついなあ、きついよ」と、引退直前と同様に珍しく弱音を吐いたのを最後に翌日から休場する。亡くなったのは同場所の千秋楽から1週間後のことだった。
現役時代、けがに泣かされて何度も休場した千代の富士だが、いつしか休場中は治療だけでなく充電のための貴重な期間となっていた。引退する3年ほど前から、休場中にはやれる範囲で稽古をする一方で、陶芸に凝っていたという。
《焦りや「もう俺はだめなんじゃないかな」というような不安など感じる暇もないくらいに陶器づくりに没頭するんだ。それができたことが、精神的に次のがんばりにつながったような気がする》(『文藝春秋』1991年7月号)
このほか、絵画や書にも親しみ、《いいものを見ていると、心が洗われるようで気持ちが大きくなり、視野が広がってくる気がする》とも語っていた(前掲『負けてたまるか』)。亡くなる直前に刊行された『月刊美術』2016年8月号では、かねてより親交のあった画家の瀧下和之と対談しており、これがおそらく生前最後のメディア出演と思われる。同号の表紙を飾った「大相撲力士図」は、瀧下の描く赤鬼を気に入った千代の富士が、これに綱をつけてほしいとリクエストして描かれたものだという。鋭い目つきで四股を踏む赤鬼は、やはり現役時代の千代の富士の姿と重なる。昭和最後の大横綱は、それを見て心をなごませながら、いずれ病気に打ち克ち、復活することを期していたのかもしれない。
■参考文献
千代の富士貢『私はかく闘った 横綱 千代の富士』(向坂松彦との共著、日本放送出版協会、1991年)、「独占 「あとは頼むぞ 貴花田」」(『文藝春秋』1991年7月号)、『負けてたまるか』(陣幕貢名義、東京新聞出版局、1991年)、『不撓不屈』(日之出出版、1992年)、『ウルフと呼ばれた男』(九重貢名義、読売新聞社、1993年)、『綱の力』(九重貢名義、ベースボール・マガジン社、2011年)
石井代蔵「千代の富士 「ウルフ」が歩む大横綱への道」(『プレジデント』1989年12月号)、『千代の富士一代』(文春文庫、1991年)
岩本晢『一流の瞬間 星野仙一・落合博満・千代の富士』(エフエー出版、1993年)
鎌田忠良「千代の富士は双葉山を超えられるか」(『潮』1990年4月号)
九重勝昭「国民栄誉賞・千代の富士が月に吠えてた頃」(『文藝春秋』1989年12月号)
佐竹義惇「戦後新入幕力士物語 千代の富士貢の巻」1~6(『相撲』1991年10月号~1992年3月号)
杉山桂四郎「千代の富士 貴ノ花を人気で抜いたウルフ」(『現代』1981年2月号)
高橋紘編著『昭和天皇発言録 大正9年~昭和64年の真実』(小学館、1989年)
藤竹暁「大衆現象の神話学15 「ヒーロー待望の社会的気分」 初場所にみる千代の富士報道」(『月刊アドバタイジング』1981年3月号)
「個性NOW 千代の富士貢 第五十八代横綱」(『WILL』1989年2月号)
「すい臓がんで13キロ体重が落ちた「九重親方」が明かさない心労」(『週刊新潮』2015年9月24日号)
『月刊DVDマガジン 大相撲名力士風雲録 第2号 千代の富士』(ベースボール・マガジン社、2016年)
「対談 九重親方VS瀧下和之 技に生きる男が語る力強さと美しさ」(『月刊美術』2016年8月号)
『千代の富士貢 追悼号』(『スポーツマガジン』2016年9月号)
イラスト:たかやまふゆこ