ローマ人の物語 (1) ― ローマは一日にして成らず(上) (新潮文庫)
著者もすすめる文庫版を手にする喜び
『ローマ人の物語』は素朴に向き合える本でもある。単純に「ローマ史というものが知りたいからこの著作を新しく読みたい」という場合だ。その場合、どのような指針があるだろうか。もちろんどのような書籍であれ、ただ黙々と冒頭から読めばよいとも言える。だが、本書は大著である。指針があってもよいだろう。
本書は1992年から毎年1冊ずつハードカバーの単行本で刊行され、2006年12月15日に15冊目で完結した。2007年元旦の朝日新聞では、その完結の告知に全面広告すら出された。塩野七生自身も完結に際しては感慨をもち、自筆でこう記した。
そして、読者もまた読み終えた後に「わかった」と思ってくれたとしたら、私にとってはこれ以上の喜びはない。なぜなら、書物とは、著者が書き、出版社が本にし、それを読者が読むことで初めて成り立つ媒体だが、この三者をつなぐ一本の赤い線が、「想いを共有する」ことにあるのだから。
二〇〇六年、秋、ローマにて 塩野七生
読み終えた人なら彼女のその思いは伝わる。私も「ローマ人」がわかったという思いをともにした。では何がわかったか。一言で言えば、国が始まり国が終わるということ、そしてその過程で偉大な人物が現れるということだ。それ以上については、彼女と同じく、具体的にこの長い物語を読んで欲しいという共感に極まる。
同書は、2002年からは単行本1冊を文庫本の2冊から4冊に分冊して、2011年に全43冊でも完結した。新しい読者にしてみると、43冊の厚さは40センチを超える。普通の読書人であれば、通常の文庫本一冊は3時間ほどで読めるので、単純に計算すれば、130時間の読書というところだろう。毎日1時間の読書時間をこれに充てると、だいたい4か月はかかる。だが、その継続する読書習慣の意義は確実にあるだろう。
著者である塩野は、文庫版で読まれることをむしろ願っている。それは文庫版の第一巻冒頭「『ローマ人の物語』の文庫版に際しての、著者から読者にあてた長い手紙」に説明されている。思いの極まるところは「タスカービレ」である。
こうして、十六世紀初頭ヴェネツィアで誕生した「文庫」はその後ヨーロッパ中に広まり、十七世紀に入ってポケット(イタリア語ならタスカ)が一般化するにつれ、「タスカービレ」の名で定着していったのでした。現代でもイタリアでは、廉価版であるソフトカバーと区別するために、文庫版は「タスカービレ」と呼ばれているのです。
『ローマ人の物語』の文庫化に際しては、アルド式の「タスカービレ」にもどることを考えたのです。つまり、文庫の源泉にもどってみよう、と。
地中海文明では、「美」は常に重要な要素であったのです。ローマ時代の街道や橋のような土木事業でさえも、耐久性や機能性に加えて、見た眼にも美しいことが不可欠な要素とされたほどに。背広のポケットから取り出したときでも、ハンドバッグから取り出したときでも、それを手にした人の気分が良くなるような美しい小冊でなければならないとが、自作の文庫化に際しての私の最大の願いでもあったのでした。
その思いは文庫一冊一冊から十分に伝わる。文庫という「物」を手にするときときの喜び、紙のページを捲る喜びが感じられる。もちろん、本書は電子ブックでも発売されているし、内容に違いはない。だがそこは、アニメ『PSYCHO-PASS』の主人公のひとり槙島聖護のセリフを想起する経験でもある(彼のセリフ部分のみ引用)。
紙の本を買いなよ。電子書籍は味気ない。本はね、ただ文字を読むんじゃない。自分の感覚を調整するためのツールでもある。調子の悪い時に、本の内容が頭に入ってこないことがある。そういう時は、何が読書の邪魔をしているのか考える。調子が悪い時でも、スラスラと内容が入ってくる本もある。何故そうなのか考える。精神的な調律。チューニングみたいなものかな。調律する際大事なのは、紙に指で触れている感覚や、本をペラペラめくった時、瞬間的に脳の神経を刺激するものだ。
塩野七生『ローマ人の物語』は、そうした手に触れる読書の終わりなき楽しみが長く続く書籍である。紙を捲る読書習慣の喜びを学ぶ「タスカービレ」だとも言える。
この大著はどのように構成されているか
実際にこの大著に向き合うにあたって、地図を見るように全体構造がわかると読書もわかりやすくなる。また、できれば全巻を通して読むべきだが、部分的な読書さえ可能になる。なおこの連載では、ハードカバー単行本の区分で見ていく。
まず書名である『ローマ人の物語』が暗示するように、この物語は基本的にはローマ史というより、人物史・皇帝史として描かれている。皇帝の系図のように描かれているといってもよい。このため、人物史観を嫌う歴史学者に好まれないのはしかたがないが、逆に各ローマ皇帝のキャラクターはとてもわかりやすい。
次に『ローマ人の物語』は、歴史学者が嫌うわりには、同時代文献、特に、皇帝などの自著に直接依存している部分が多く、そのためこれらを直接書き残した皇帝であるカエサル、マルクス・アウレリウス、ユリアヌスなどの記述に偏っている。なかでも、カエサルについては、同時代の友人でもあり政敵でもあったキケロの文章も残っているため、全体比率からして、カエサルとキケロの扱いが重たい。
このことがもたらす塩野七生のローマ史観は(実際には塩野七生だけの特性とも言えないが)、特にカエサルの事実上の著作である『内乱記』に見られるローマ史観、つまり、グラックス兄弟の改革を起点とする政体論の枠組みに拠っている。簡単に言えば、カエサルのローマ帝国のビジョンをかなり忠実に再現してから、ローマ帝国の公共概念・市民概念に着目し、さらにエドワード・ギボン『ローマ帝国衰亡史』のように、国家の衰亡にテーマを移していく。またこの間、地中海世界とその周辺世界という意識が常に念頭に置かれている。
次回からは更に具体的に全体構造を眺めてみたいと思う。