「会社の飲み会は大事」
世のオヤジは数千年の歴史があるかのごとくしばしば言う。
「なんなんだよこれは!」と多くの人は思わないだろうか?
いや思っているはずだ。
だが、ほとんどの人がそれを行動に移さない。
嫌だと言いながらその場所へ向かう。
絶対におかしい。
何度でも立ち上がりいうが、「多くの時間を浪費するにもかかわらず、何も得られない社交」と多くの人は気づいているはずだ。
私は多くの人に今立ち上がってほしい。
そして、自分の尊厳を失わないでほしいのだ。
我々には人生においてなすべきことがたくさんある。
時間を浪費している場合ではない。
なぜ私は、こんなに深刻な面持ちで文章を書いているのか?
それは、飲み会とは全体主義を進行させ個人の自由を著しく損ねる場だからだ。
言い換えれば、飲み会とは、あらゆる個人を没我させ、<指導者>と呼ばれる「飲み会推進派」の奴隷にさせられる場なのだ。
そしてその影響は、飲み会の場のみならず、個人の人生をも台無しにする。
今日は、飲み会の恐ろしさを深刻な面持ちで伝えていきたい。
これを知ることで、読者諸氏は立ち上がってくれることを期待してやまない。
1.会社の飲み会と全体主義の共通点
2.なぜ多くの人々は「行きたくない」と言いながら飲み会に向かうのか
3.<指導者>は飲み会に連れてきて何がしたいのか
1.会社の飲み会と全体主義の共通点
まず、なぜ飲み会と全体主義が似ているかについて答えたい。
これは、一言で言えば、「演繹的イデオロギー」に支えられているからである。(2+2=4のようなもの)
これを否定することは断じて許されないという極めて排他的な性質を持つ。
例えば、私が仮に「ほら今日も何も生産性がなかったじゃないか!」と言う経験を伝えたとする。
しかし、<指導者>たちは決して考慮することはない。
真顔で「何を言い出すんだ君は。狂人かな?」という反応を行う。
イデオロギーは常に、前提からの展開によって全てを説明するためには一つの観念があれば充分であり、全てはこの一貫した論理的演繹の過程の中に含まれている以上経験などは何も教えないという仮定に立つ。
『全体主義の起源』
ここで勘のいい読者はすでに次のことに気づいてるかと思う。
「飲み会は必要」というイデオロギー自体もたどっていけば、ある経験からできているのではないかということに。
そうなのだ。そこが厄介なのだ。
「飲み会は必要」というイデオロギーの正体は、<指導者>の個別的経験を極限まで一般化したものだったのだ。
全体主義の指導者の手腕とは、経験可能な現実の中から彼のフィクションにふさわしい要素を探し出し、それらを検証可能な経験から切り離された領域の中に持ち込んで利用する技なのである。このことは、経験の要素を一つだけ抜き出し、それを一般化するという方法で行われる。
『全体主義の起源』
彼らは「イデオロギー化」することで、飲み会に対する自らの主張の絶対性を獲得できる。
演繹化すると何がいいのかというと本来であれば、ロジックの前提を覆す「飲み会以外でできるやん」という言葉を「2+2=5とか言い出した(笑)」という形でスルーすることができるのだ。
実に恐ろしい限りである。
ちなみに私のようにこのデタラメを察知し断固として反論し続ける人間に対しては彼らにとってはちと面倒なわけだが、対処するための隠し玉を彼らは持っている。
その隠し玉とは、「飲み会の必要性はそのうちわかる」という不確定の未来でもって飲み会の必要性を証明するというものだ。
内容がいかに荒唐無稽であろうと、その主張が原則的にかつ一貫して現在及び過去の拘束から切り離されて論証され、その正しさを証明しうるのは不確定の未来のみだとされるようになると、当然にそのプロパガンダは極めて強大な力を発揮する。
『全体主義の起源』
2.なぜ多くの人々は「行きたくない」と言いながら飲み会に向かうのか?
ここで、私のような飲み会に異議を唱える流派と「飲み会は必要」というイデオロギーを掲げる<指導者>以外の層に着目しなくてはならない。
なぜなら、民主主義の世界では、何よりもその頭数が「正しさ」を規定するからだ。
その層とは、「飲み会に行きたくない」と言っておきながら、結局はいつも行く層である。
この層が実は最も多い。(おそらく8割−9割いるのではないか)
だから、ここの攻略こそが飲み会を使い全体主義運動を行う<指導者>たちにとってはとても重要となる。
そして攻略した暁には、もうその運動が止まらないほどに強力なエネルギーを獲得することができる。
「みんな来てるだろ。だからお前も来い」
「みんな来てるだろ。だから飲み会は素晴らしい」
「みんな忙しいけど来てるんだ。お前だけ来ないのはおかしい」
「みんなーしている」という民主主義社会において必殺とも言える技を行使できるのだ。
では、この「行きたくない」人たちはなぜ全体主義運動に巻き込まれてしまうのか?
それは、アレントの分析を借りれば、*近代化の結果、アトム化し、孤立感を感じやすくなった大衆が現在の生活に耐えられず、何か心の支えとなる権威を求めているからだと私は見ている。
孤立感を感じた個人はたまたま不運にも近くにあった「飲み会は必要」というイデオロギーに飛びついてしまうのだ。
彼ら・彼女らは何ら強制されることなく、自らの意思で最悪の選択を取ってしまう。
非全体主義の世界の中で人々に全体主義支配を受け入れさせてしまうものは、普通は例えば老齢というようなある例外的な社会条件の中で人々のほめる限界的経験だったlonelinessが、現代の絶えず増大する大衆の日常的経験となってしまったという事実である。
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ルターは、論理的推論の強制力はすべてのものに見捨てられた人間にのみ全面的な力を発揮できるのだということを理解した。
『全体主義の起源』
*近代のアトム化に関しては『全体主義の起源』を含め以下の資料を参照されたい。
オルテガ『大衆の反逆』
ハンナアレント『人間の条件』
トックヴィル『アメリカのデモクラシー下巻』
フロム『自由からの逃走』
3.<指導者>は飲み会に連れてきて何がしたいのか
最後に、<指導者>たちはなぜそこまで飲み会(全体主義運動)をおし進めることにこだわるのか?に答えていきたい。
その答えの一つとしては自らの権力欲を満たしたいからだと考えられる。
もちろん全てに当てはまるとは言えない。
ただ、全体主義運動を嗜好する人間に限って言えば、この洞察は概ね当たっている。
というのも全体主義というのは1人かもしくはごく限られた人間にすべての集団の意志を昇華させる権力集中型の仕組みだからだ。
こういう背景で<指導者>たちは飲み会をしばしば敢行し、付き従うものを増やしながら自らの権力欲や全能感を満たす運動を死ぬまで続ける。
抽象論だけではイマイチ理解し難いかもしれないので、全体主義運動に取り込むユースケースを示したい。
飲み会という会合は、若い人々にとっては、「教育の場」だと言われることがしばしばある。
しかし、実態はどうだろうか。
何も彼らは教えていない。
没我的人間にするために思想を抱く能力を破壊するのだ。
全体主義の教育の目的は信条を人の心に植えつけることではなく、何らかの信条を抱懐する能力を無くさせることである。
『全体主義の起源』
以下のようなプロパガンダはその典型的なもので、あなたの自由な思考を破壊し、全体主義運動に取り込みに来る。
「お前も30近いんだし早く結婚しろよ」
「社会人としてゴルフやんなきゃダメだよ」
「もっと会社の同期と仲良くしたほうがいいよ」
「俺もそうしたほうがいいのかな」と思った瞬間にもうそれは「終わりの始まり」で、そのときあなたは平然と「2+2=5だ」と言う人間となっている。
いずれは私も「飲み会は必要だ」と部下をワタミに無理やり連れて行き「早く結婚しろよな」とか「ゴルフやんないとダメだよ」と言う日が来るのかもしれない。
全体主義運動とはそれほどに恐ろしいのである。
恐ろしい限りだ。
おもしろきこと無き世を面白く
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