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「コンビニ人間」は普通の小説だった

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この本を勧められたとき、「すごく変わっているから」と言われたんだけど、「すごく変わっている」と言われれば言われるほど普通の小説としか思えなかった。果たしてこれを「すごく変わった小説」と感じた人は他にもいるのだろうか。僕のように「ごく普通の小説」と思った人は多いんじゃないだろうか。と言うのも、僕がそう感じるように、おそらくそう感じる人が多いだろうという実感というか、手応えのようなものが経験上あったからだ。だからこれを読んで「違和感」だとか「変わっている」という感想のほうが僕にとっては遠い。めちゃくちゃ遠い。この物語に書かれているような主人公は非常にわかりやすく、言うならば入り口にいるような人だから、その入口にさえ踏み込んだことがない人にとっては「変わっている」小説かもしれないけれど、そのずっと奥にいる人にとっては、遠い昔に通り過ぎた風景であり、その入口付近の雰囲気が懐かしいとさえ思えるのではないだろうか。

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接点に立つ人

主人公はいわゆる、ちょっと変わった人だった。周りの人から怪訝な目で見られ、家族からも病気扱いされる、言わば社会のはみ出し者だった。それが実際病気なのかどうかは知らないが、世間の感覚とのズレが大きく、周りに共感することがない、周りからの共感を得ることもない、そして本人はそれを求めてもいない。

普通だけど、ありきたりな小説とは思わない(それは単に、僕がこの手の小説を読んだことがないからそう思うだけかもしれない)。こういったズレを内包する人は通常、ありきたりな展開であれば、その先の理解を求める。どうにか解ってもらおうと藻掻くか、理解されない仲間を探す。もしくは違うならそれでいいと割りきる。自分独自の世界観を掴み、周りのことを気にかけずして、突き進む姿は現実においてもよく見かけるものであり(スティーヴ・ジョブズとか)、小説でもよくある話だろう(行人とか)。しかし、この小説の主人公はなんとかして社会に同化しようとする。周囲の反応からできるだけ波風立てないように心がけ、人間社会における存在意義や居場所のようなものを、形だけでも留めておこうとする。理解や共感はなくとも、存在しようとする。それはある種、生物に備わった生存本能のように見える。女性的だなと感じた。

この小説では設定を利用して、接点を上手く描いている。接点とは、個人と社会との接点だ。小説の中では「あちら側」「こちら側」という表現が用いられており、主人公はその性格上「あちら側」、つまり人間社会の中に入っていけない。しかしどうにかして「あちら側」に入り込もうとする。そのためにコンビニという接点に立つ。何故コンビニかというと、主人公にとって「あちら側」と「こちら側」の接点が、コンビニしかあり得なかったからだ。この接点を強調し、上手く描くことで、どちら側にいる人にとっても馴染みのある物語に出来上がっている。実にわかりやすい。ただ、初めから「あちら側」にいて、接点に立ったことがない人からすれば、これは不可思議な小説に映ったかもしれない。接点を通過した、もしくは引き返したことがある人からすれば、懐かしくすら感じる。「こちら側」にいて接点を意識したことがない人もいるだろうが、おそらく稀だろう。

特にその出口とか、形を見つけたところが面白かった。コンビニバイトという社会との接点。入り口であり出口、それをコンビニバイトという形で象徴したあたり、実に羨ましい展開に思えた。でも結局この試みはうまくいかないんだろうな。何故ならコンビニバイトという接点は、接点でしかない。接点は出入り口であり、誰もがいずれは通りすぎる。コンビニバイトという立場は、主人公が相容れない人間社会という名の「あちら側」に、完全に内包された世界ではないからだ。いつまで接点に立っていても、主人公が望むように「あちら側」へは行けない。しかし主人公が「あちら側」と関わるには、接点に立ち続けるしか道が残されていない。やがてはその接点に立つこともままならなくなるだろう。序盤に出てきた、客を叱る一見頭のおかしい客は主人公の未来の姿であり、後半の主人公の行動とその姿をダブらせる演出が、まさにそこをわかりやすく表現している。

※バイトから社員になればいいじゃないか、店長になればいいじゃないかと思うかもしれないが、店長の姿というのはまさにこの小説に出てくる店長の姿なのだ。ただコンビニバイトとして業務をこなせばそれで済む立場ではない、人間社会の立場である。

その昔、仕事人間という人たちがいた。今でもいる。仕事人間の中には、仕事を媒介にして、「こちら側」から上手く「あちら側」に入ってしまった人がいる。接点を上手く通過して、仕事が認められたことで社会と繋がることができた人だ。例えば、仕事はできるのにプライベートはだらしないとか、仕事は真面目だけど変わっている人とか、世の中にたくさんいるそういう人を指す。会社員にも多いかもしれないが、一芸に秀でた芸能人や芸術家なんかにも多いだろう。作家なんかは典型的かもしれない。彼らは仕事を通じて社会と繋がることができた。それがたまたまコンビニバイトではなかっただけで、仕事が社会的に認められたが故、それ以外の人格や性格といった部分が杜撰であったり変わっていても、社会に内包されることが許された。コンビニバイトという立場が接点以上のものになり得ないのであれば、そして接点としてコンビニバイト以外を選べない立場であれば、それは社会と関わり続けようとする人にとって不幸でしかない。だっていつまでたっても認められないんだから。

※他の職業で言うと、売れない作家やミュージシャンなどの立場は接点と言えるかもしれない

個人的に思ったこと

こういった本を読むと、自然に自分のことを振り返る。自分はどうだったかなって。僕はおそらく、論理や統計を通じて社会と接点を持とうとしていた。論理的に正しいことなら、おそらく受け入れられるだろう、理解されるだろうと思っていた。でも実際はそうではなかった。世の中を支配していたのは非論理的な、感情に起因する側面だった。なおかつ、自分はそこまでしっかりした論理を組み立てられるほど頭が良くなかった。結局論理や統計というのは自分にとっての入り口として機能しなかった。

僕自身は今まで「あちら側」にいたことがあったけれど、居続けられなかった。仕事ができるわけでもなく、入り口を通過できなかった。あちら側にいるのに、まだ入り口を通過できていない、そうなると歪な円が出来上がる。「あちら側」に居続けるには、接点を通過してしまわなければならない。仕事以外で通過しようと思えば、「あちら側」の人間になることを求められる。この小説の主人公が「あちら側」、つまり社会に生きる人間としての部分を求められ、その場にいられなくなったように、僕もその場にいられなくなった。そして僕にはコンビニのような接点もない。

また、主人公の、周囲との繋がりを保とうと固執する部分はちょっと理解できなかった。親、兄弟、同級生、友人、仕事、立場、そんなものどうでもいいじゃないか、という風にならないのが不思議でしょうがない。何故そうまで社会との繋がりを持ち続けることにこだわるのだろう?それが疑問で仕方がない。人間は社会な動物だから、本能的に孤立を避けるのか、生存本能に起因する執着なのか。そういう意味ではこの小説が「こちら側」に行き過ぎていないおかげで話が偏りすぎず、「あちら側」と「こちら側」にいるの両方の人から読めるようになっている。

他の登場人物について、同棲する男性が出てくる。彼はいわゆる「ありがちなダメ人間」だったが、登場人物としての個性はあまり感じない。ただ物語を動かすためだけの仕掛けにしか見えず、それ以外に重要な意味は持たないんじゃないだろうか。その点においては他の登場人物と同等で、彼もいわゆるダメ人間として「あちら側」に内包された構成要素の一つであり、家族や友人や他のコンビニ店員と変わらない、人間社会の一部を構成する存在だった(その証拠に、あちら側の人間同士で異質な存在と見られていない)。 

コンビニ人間

コンビニ人間