自分もLGBTのいずれかであるが、カミングアウトすることには相当な勇気が必要なのは理解出来る。
NHKだったり先進的なメディアではLGBTは異常でなく個性であり、分け隔てなく扱うべきというスタンスが目立つ。
それだけを見ているとまるでマイノリティに優しい世界のように見えるが、現実はそこまで進んでいない。
平等に見えるのは企業でもそこそこいいところだけであって、コンプライアンスが昨日していないような会社では平気で差別がある。
ましてや学生のコミュニティでは(一部大人のコミュニティでも)「弱い奴が悪い」という価値観がリア充の中に蔓延しており、
もちろん、頭のいい人間が集まる場合は部分的に慈悲や思いやりを見せる場合もあるが、それは偏屈なコミュニティの中でのパフォーマンスに過ぎず、
本気でそういう人間と関わるのは面倒だから当たり障りのない対応をするというのが基本であり、
関わるほどにマイノリティとマジョリティの溝のようなものはまだまだ埋められないと感じるだろう。
「だってキモイじゃん」というのが正当な理由として扱われているのが現状なのだ。
漫画なり動画なりアニメであっても、同性愛者やトランスジェンダーはネタキャラ、キワモノとしての扱いであり、
受け入れられるのはそれをネタにして道化を演じることができるモノのみである。
努力・友情・勝利には不要なのか、決してそういうサブキャラクターの辛さについて語られることはない。
自分が自分であることの苦痛だったり、正体を隠して生きなければ人狼のごとく批判の対象になってしまうという、
まるで亜人のような、B級な人間であるかのような感覚は普通の人は理解できない。
髪や肌の色が違うこと(もちろんそれによって苦しむ人もいるだろうが)とは違い、そうであるが故に尊厳を踏みにじっていい対象になってしまうことの屈辱と辛さは、目の見えない人に視覚を伝えるようなものなのだ。
この部分は個人の感受性に大きく影響を受けるため、当人がどの程度それに苦痛を感じるかには個人差がある。
そのため、その苦痛が大きい人ほど、アウティングによるダメージは蓄積していくだろう。
彼が弱かったから悪いという意見があるが、それは存在そのものを否定するのに等しい。
受け入れられない人間は受け入れられないのだ。
物理的なアレルギーがあるように、心理的なアレルギーも理解しなくてはいけない。
学生のノリで劣っている人間を嘲笑の対象にし、優越感を得たいという心理も理解出来る。
しかし、それを咎めることができないこの世の中では、こうして裁判になり、世の中に取り上げられ、
人を貶めてはいけないという事実を全員で再認識する必要があるだろう。
一部の人間は裁判までするなんてと、裁判をすること自体がおこがましいという意見もある。
社会に受け入れてやっているのに裁判までして、たて突くのかと彼らは感じているのだ。
性同一性障害の当事者が裁判を起こした時の反応もそれに基づくだろう。
結局、彼らはいつまでも弱者のままで、会社に運良く入れてもそういう事情で文句が言えない環境にあることが多い。
そういう不遇や不平等を解消するためにも、裁判という手段があることを知ることが、弱者にとっての唯一の武器になるのだ。
結局、まだまだこの世の中は弱者を叩き、不条理なことをし、不正を働いたとしても、
それを咎めることで自分に悪影響が及ばなければいいやと考える人間で溢れかえる限り変化はないだろう。
そういう見過ごす者たちが責任を取らされる立場にならない限り、何も変わらないのだ。
きっと、普通の人間はそのリスクやコストから逃げたいばかりで、本当の意味でみんなが過ごしやすい社会なんてものは求めていないのだ。
自分にとって不快な人間を排除しようとする人間はLGBTにも多くいますし 本当の意味でみんなが過ごしやすい社会なんてものは求めていないというのはお互いさまだと思いますよ