「俺が夢の話したら、七瀬すげぇ嫌がってたなぁ」
関口が窓の外の立ち食いそば屋を見ながら吐き捨てるようにいった。
「おまえの夢の話は、誰でも嫌がるけどな」ボクは呆れながら応える。
「その時にアイツが言ったんだよ」
「なんて」
「あの朝よ。おまえが奥の座敷で寝てた朝」
関口がシートであぐらをかいたままこちらを向いて言う。
「わたしはもうイヤだな、夢を持つのも語るのも、って」
「またさびしいことを」ボクもクツを脱いであぐらをかいた。
「もうがっかりしたくない。人生の本当に大切な選択の時、自由なんてないんだから、って」
ワイパーは文句のひとつも言わずに働きつづけていた。その甲斐もなく雨がフロントガラスを濡らしつづける。
関口がアシスタントの肩をたたいて、外の自動販売機を指差さした。
「あ、何飲みます?」アシスタントが尋ねてきた。関口はブラックの缶コーヒーを2つ頼んで千円札を渡す。
運転席のドアが開いた途端、外から横殴りの雨が吹き込んだ。水しぶきがボクの顔を濡らし、思わず顔をしかめる。
「す、すみません」
「大丈夫、閉めて閉めて」ボクがそういうとアシスタントは、あせって勢いよくドアを閉めた。ラジオは大雨による交通の乱れを説明していた。
「ハンカチ使う?」
「なんで、お前がハンカチなんてもってんだよ」少し笑いながら関口からハンカチを受け取る。
「柔軟剤。いい匂いだろ?」
「だから、なんでだよ」
雨粒でにじむ窓ガラス越しに見えた中目黒の景色が、生き物のように形を変えていく。
BARレイニーの入口のガラス戸に雨が打ちつけられて、激しい音を鳴らしている。うつ伏せで左手を自分の体に敷いたまま寝てしまったので、しびれてしまって左半分の感覚がない。
やかんのぐらぐらぐらという音がずっと聞こえていた。
関口はカウンターであぐらをかきながらどうでもいい話を続けてる。七瀬はどんな話をしても声を出して笑いながら、相槌をうってそれに応えていた。
関口もボクも、睡眠薬を半錠飲んで仕事に励むという異常事態からはようやく抜けた頃だった。七瀬はいつでもだれでもどんな話でも、いつまでも一緒に悩んでくれた。
店を訪れる人たちの重い荷物を、七瀬は預かってくれてたんだなと、今になって思う。そして店を出る時に右肩にかついでいた荷物を、左肩にかけ直してボクたちはまた現実の世界に戻っていった。
だけど、七瀬の荷物を預かる人間は東京にはいなかった。七瀬は誰にも何かを預けようとしなかった。それにボクらも気づかなかった。七瀬はどこか達観していて、すっかり大人なんだと勝手に思っていた。
〝大人〟なんてものは、サンタクロースやネッシーみたいに誰かが作り出した想像の産物だってわかっていたのに。
七瀬は小皿で味噌汁を口に含んで、もう一度味見をしていた。
「あの子も起こしたら」
「もう少し寝かせておけばいいさ」関口がぶっきらぼうに返す。
「そうかい」
「うまそうだ」
「はい、どうぞ」とおぼんにのった朝食を七瀬は関口に手渡した。
味噌汁をすすった関口は一度考えてから、「ふー。おいしい」としみじみと言った。
その日から1ヶ月も経たないうちに、ボクたちを拘束していた朝のレギュラーのニュース番組が終わって、あんなに頻繁に通っていたゴールデン街から足が遠のいた。
ある時、昼間の打合せ後、半年ぶりに近くを通りかかった。関口とボクはどちらからともなく、夕方のゴールデン街の路地に足を向けた。
『BARレイニー』の軒先までいくと、店の入り口に施錠がされている。セロテープで雑に四方を貼り付けられた紙に「長い間、ありがとうございました」とだけ書かれていた。
七瀬の携帯番号を知っていたボクはすぐに電話をかけた。
「もう二度と会えないかもしれない」そう頭の中でよぎった瞬間、「はいはい」といつもの調子で七瀬が電話に出た。
「お店って……」とボクが言うと「あー、やめちゃった」と、挨拶ぐらいの軽さで答えてきた。
「今どこよ?」と電話を無理やり取った関口が聞く。数秒後、「エアバッグ工場? なんだそれ」関口が声を上ずらせ、七瀬に質問を立て続けにぶつけている。
そのやりとりを聞きながら、新宿歌舞伎町で、七瀬を見かけた時のことを思い出していた。その時は女装をしていなかったけれど、右足を引きずるように歩く後ろ姿ですぐにわかった。派手なピンクのアロハシャツにやけに短い短パン、両手にスーパーマーケットで買い物をしたビニール袋を持った七瀬は、歩道を占領していたホスト風の若者たちを怒鳴りつけて道を開けさせていた。その時の七瀬はまるで別人に見えて、声をかけることができなかった。
聞けば、『BARレイニー』は3ヶ月ほど前にあっさりと閉まり、七瀬は借金から逃げるように東京を出て行っていた。
「あのあと、七瀬から電話あった?」関口が外を向いたまま口をひらいた。
「あのあとって、どのあとだよ?」
「あの電話のあとだよ、秋葉原の電話のあと」
「本当にあれっきりだよ」ため息まじりにボクはそう伝えた。
閉店を知ってから半年ぐらい経っただろうか、その日は休みだった。
携帯が何度も何度も鳴った。二日酔いで、ソファで寝ていたボクは目をつむりながら音の出る方を手でまさぐった。
「はい、はい」やっとの思いで出ると、ゼエゼエとした声の男が矢継ぎ早に話し始めた。
「いま、テレビ見てる?」
「え、いや見てないすけど」
「アキバアキバ、秋葉原」
「てか、どちら様ですか?」
寝ぼけまなこのまま、リモコンでテレビをつける。テレビは、どの局も秋葉原からの生中継だ。電話口の男のしゃべりが早口すぎて最初、内容が聞きとれなかった。
「わたし、わたし、ななせ」
「七瀬? ど、どうしたの?」
「工場の同期が秋葉原でやりやがってさ」
「え?」
2008年6月8日だった。七瀬は興奮していた。
「わたしにとってはあの工場は天国だったよ! 楽勝、楽勝。たださぁ、また色々トラブッちゃてさぁ、ねえ聞いてる?」
彼が自分の現状を話してる間も、テレビでは信じられなくらいの惨状が現場から中継されていた。野次馬と警察官と報道陣でごった返す様子が延々と流れている。
ボクは耳元に携帯を当てたまま、すっかり眠気も吹き飛んで、その光景を見ていた。
「それにしてもさぁ、ゴールデン街のみんな、元気かな? まだ、奥椿のマスター怒ってると思う? ハチドリの虹子には一度、電話したんだけどさぁー」
ボクはただずっと画面の向こう側の惨状を見ていた。
「あんたさ、まだ働いてるんでしょ? あのテレビの仕事してるんでしょ? お金貸してくんない?」七瀬が唐突にそんな言葉を投げかけてきた。
その言葉でボクは我にかえり、申し出を即座に断った。電話の向こうにいる男の口調から、あの朝食を作ってくれていた時の柔和な七瀬の姿は、まったく想像することができなかった。金の無心を断った後も、七瀬は話しつづけていた。最後は陽気に「また飲みたいよねぇ、飲もうねぇ」と言って電話は切れた。
「七瀬、あいつどうしたかなぁ」ボクはボンヤリとそうつぶやいた。
「俺、去年3万送ったよ」関口がこちらを見ないようにボソッと言った。
「は?」
「まぁ、手切れ金だよ」
「お前なあ」ボクは呆れて、関口の頭を軽くはたいた。
「はい〜、ではおつなぎいたします。担当は七瀬でした」関口がテレアポの真似をした。
「は? マジで? 今、あいつテレアポやってんの?」
「あぁ。その後も1回電話きてさ。金貸してくんねえか?って」関口が呆れながら笑った。
「それでどうしたんだよ?」
「5万送った」
「増えてんじゃねえか」今度はさっきより強めに関口の頭をはたいた。
昨日テレビで見たボクシングのタイトル戦のニュースがラジオから流れていた。チャンピオンが3度目の防衛を果たしたというニュースだった。彼の幸運はあと何回続くだろう。挑戦者にはフィアンセがいて、負けたあとに花道で抱き合っている姿が印象的だった。
天気予報によると、明日は全国的に晴れの良い天気だという。それは本当に〝良い天気〟なのだろうか。
「あれって、ほんとたまたまだったよなぁ」七瀬の店に初めて入った日のことを関口が話し始めた。
今日みたいに雨が突然強くなるような不思議な日だった。
不意の豪雨に、ゴールデン街の2軒目を探していたボクらは雨宿りをしていた。その店先が『BARレイニー』だった。そこは関口とボクにとって、あの時代の東京で羽を休められる稀有な場所になった。あの日の雨は、恵みの雨になった。
車内に突然、強い雨と風の音が吹きこんだ。運転席のドアからアシスタントが申し訳なさそうな顔で車に乗り込んでくる。
「すみません、ブラックなくて。カフェオレでいいですか」
関口はアシスタントからホットのカフェオレを受け取って、肩をポンポンとたたいた後、ボクにカフェオレを1つ放った。
関口はカフェオレを一口飲むとボクになぜかドヤ顔でこう告げる。「人生の本当に大切な選択の時、俺たちに自由はないんだってよ」
ボクもカフェオレを一口飲んだ。「お。これ、うまいじゃん」
次の約束まであと15分を切っていた。
写真:額賀順子 デザイン:熊谷菜生