未完の小説『死ぬことと見つけたり』が描き出した「生の輝き」という結末

隆慶一郎の死によって未完に終わった小説『死ぬことと見つけたり』。隆の本質を理解していた娘・羽生真名の小論や、これまで振り返ってきた隆の人生から、その結末を探ります。それは、現代を生きる我々にとっても、様々な示唆を与えてくれるものでした。


死ぬことと見つけたり 上巻(新潮文庫)

隆慶一郎の娘が見ぬいた父の本質

隆慶一郎の遺作『死ぬことと見つけたり』は、彼の青年の日の「ヴァレリという事件」の帰結でもあった。では「ヴァレリという事件」は何であり、また、それはどのように彼の完結されたかに見える人生につながっていくのだろうか。この問いこそが、隆慶一郎という人間存在の究極の問いである。それは不思議なことに彼の娘によって解かれていた。あえて簡単に言うのなら、通常の生活からは見えない人生・存在の本質をロマンの物語なかに映し出すようにして現実に引き返すことである。隆慶一郎という人間の全生涯そのものが、「ヴァレリという事件」の結末であり、その最終的な道具が遺作『死ぬことと見つけたり』であった。しかしもう少し、若い日の隆慶一郎とその娘の論考を追ってみよう。

『死ぬことと見つけたり』は著者・隆慶一郎が予期もしなかった死によって未完で残された。このため、どのような結末になるのか、まさかのどんでん返しが仕掛けられているのかといった疑問も、一見して未決のままであるかのように思われる。だが、丁寧に彼の人生の総体を追っていけば、その最終的な光景の意味は明確に見えるだろう。

隆慶一郎の現実の死はどちらかといえば唐突だった。そのため、同時期の作品には他にも未完のまま残された『見知らぬ海』がある。どちらも彼の死の翌年である平成二年に出版された。『死ぬことと見つけたり』は上下巻で2月、『見知らぬ海』は10月。『見知らぬ海』の出版がやや遅れた理由ははっきりとしないが、一つには彼の娘・羽生真名による「隆慶一郎とフランス文学」という小論を付すためもあっただろう。父と同じくフランス文学を専攻した彼の娘・羽生真名は、父の若い日のフランス文学論を評価・追悼する作品である。娘は父の本質を見抜いていたからこそ、この小論を付す必要性を理解していた。単行本『見知らぬ海』収録羽生真名「隆慶一郎とフランス文学」より。

 隆慶一郎がかつて大学でフランス語の教鞭をとっていたこと、それに先立つ学生時代、小林秀雄の下でランボー、マラルメ、ヴァレリー等、フランス象徴詩の研究に没頭していたことは、あまり知られていない。しかし彼の小説の核心(ルーツ)となっていのは、おそらくこの象徴主義(サンボリズム)とバルザックであろう。
 考証的研究によれば、バルザックの人間喜劇の無数の出来事は、当時の出来事から直接取材したものだという。勿論彼はそれらを現実に即して再生したのではなく、そこに独自の照明をあてることによって、ある意味で現実以上の現実性を再構成しようとした。現実(史料)のみに重きを置くことは、彼には、小説自らの使命を放棄することと映った。「芸術家の使命は遠く隔たったものの間の関連を把握し、二つの卑俗なものを結び合わせ、並外れた効果を作り上げることにある」(バルザック)のだから。そして歴史小説が単なる情報の発信源ではなく、少なくとも文学の一分野であろうとするなら、史料と対決しつつ、小説の中でその史料をとらえ直すという姿勢こそ、必要ではないだろうか。ここに「現実による小説」から「小説による現実」への移行がある。

隆慶一郎の文学の真価は、そうした「小説による現実」がさらに象徴主義との接点を持つところにあると、羽生は見抜いていた。

 アルベール・ベガンはバルザックの人間喜劇を更に、神話的、幻想的(ヴィジオネール)な世界としてとらえる。ベガンによれば、バルザックは社会の観察者であると同時に幻視者(ヴィジオネール)だった。つまりバルザック的照明によって現実を再構成するだけではなく、観察した社会に、人間存在と運命に関する問いかけ—幻想(ヴィジョン)—を無意識的に見てしまう作家だった。(後略)

羽生はこれにさらに隆慶一郎の若い日のアルチュール・ランボーへの傾倒とその見者(ヴォワイヤン)を重ねて論じる。ランボーの見者は、幻視者(ヴィジオネール)と同じである。彼らは、現実の私たちの生活の出来事のなかに啓示されている永遠の本質を見て取る人であり、それを私たちの日常の言語とは異なる詩の言語、あるいは、情念の物語の言語で語る人である。

隆慶一郎は幻視者(ヴィジオネール)だった。あるいは生涯をかけて、小説家としてヴィジオネールに到達したのだった。これが「ヴァレリという事件」の絶望の、生涯をかけての克服であった。

1990年刊の『見知らぬ海』に小論を付した羽生は、さらに翌年の、自身による父の回想録『歌う舟人』に、24歳の隆慶一郎(池田一朗)が書いた「ポール・ヴァレリイに関するノート レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説」を付した。すでに示した証明のための証拠のようなものである。具体的には昭和23年『青銅』第一号に掲載発表された小論である。こう切り出される。

 アムステルダムのデカルトを襲った啓示について語るように、人はヴァレリイの啓示について語る。事件は一八九二年の夏、イタリアのジェノワに起こった。(中略)星空をくっきりと四角に区切る高窓のみの一室で、ジェノワの八月の夜は眠れないままにすぎていった。そして、とある嵐の夜、真昼の幻覚を起こさせる激しい稲妻の中に啓示は来たのであると。(中略)
 この事件について、ドラマチックな空想を逞しくすることは慎まなければならぬ。啓示とは己が魂の不安を誠実に追い詰めた者が、その極限に奇跡のように、しかし殆ど必然的に見出す何物かであろう。(後略)

若い日の隆慶一郎はこうして、ヴァレリーの啓示よりもその啓示を導いた「己が魂の不安を誠実に追い詰め」ることに論を移していた。それは後年『死ぬことと見つけたり』の序章において語られた、兵役と死の了解、そして文学の憧れという不安を誠実に追い詰めていた日々を文学的な修辞で表現したものだと読んでよい。当時の彼には、おそらく二つのことがあった。一つは、この冒頭の引用文体が、おそらく誰が見ても『テスト氏との夜公演』(La soirée avec monsieur Teste)を当時『テスト氏』として訳した小林秀雄の文体に酷似していることだ。「ドラマチックな空想を逞しくすることは慎まなければならぬ」といった口調は小林秀雄のそれである。隆慶一郎は小林の深い影響下にあり、それは同時に重荷の予感でもあった。

大衆小説『死ぬことと見つけたり』が描き出す自由

もう一つは、啓示を得ることが否定的に書かれているものの、「己が魂の不安を誠実に追い詰める」彼の試みはやはり啓示を求めるものであっただろうことだ。それは彼が愛したアルチュール・ランボーや中原中也の詩情の延長にあったものだが、ヴァレリーのような明晰さとの矛盾も意味していた。絶望の仕掛けはそこにある。明晰な意識が狂気に近い超越的な知覚を導く可能性である。彼は論の文体を借りながら、次第にアルチュール・ランボーのように歌い始める。「僕達」というその言葉には24歳の青年の若い肉声を伴っている。

 僕達の眼に映る悉皆の事物は、僕達の眼に触れ、心の中に入る時、僕達の情念と理性とに結ばれ、なんらかの心像を形ちづくる。僕達が無邪気に想像している、客観的な事物乃至事件というものから、僕達が確かに引き留め所有するものは、実は之等の心像にほかならない。現実とは、僕達にかかわりなく存在し、又動いているものかもしれないが、そのような現実とは僕達にとって何であろう。僕達がそれらに働きかけ、それがこの心像の場に転移されて精神の現実となることがないならば、純粋に客観的な現実は、かかる意味も持たず、僕達が正しく僕達であるのは、この心像の場をおいて他にない。(後略)

私はここで滑稽な解釈をしたいわけではないが、松任谷由実がまだ十代のころ歌った詩にある、目にうつる全てのことはメッセージである、ということにも近いだろうと思い起こす。私たちは日常の経験のなかで、生きる究極の意味に至るための道標を刻々と知覚している。松任谷由実はそれを幼い日の特権としたが、それは単純に与えられたものではない。若い日の隆慶一郎はこの難問に向き合うにあたり、なぜか死の照射のなかに立ち尽くしている。

 之等の心像は意志によってつくられるものとは限らず、之が形成にはいわば僕達の心の全歴史がかかっているとしたら、そして、生涯のある瞬間に僕達が現勢力に変じうる心像の数は、その中でも限られたものにすぎず、しかもこの瞬間に対して僕達は己が生命を賭けるのだとしたら、その時、すべてを理解し、すべてを知るということはどういう事であるのか。(後略)

逆に読んでもよい。兵役から戦争の死が必然として彼に立ち塞がったとき、その死を生の意味として賭けるに値するための意義・救済としての幻視・啓示を彼は求めていた。『死ぬことと見つけたり』の冒頭、「死は必定と思われた。つい鼻の先に、刑務所の壁のように立ち塞がっていた」はこの24歳のフランス文学論に接続していたのである。

だがそこで彼は「絶望」した。啓示の追求の絶望もあっただろう。死に場を失ったことも絶望であっただろう。それでも彼は自身の生涯で、絶望が克服される日を予感していた。彼の若い日の小論はやや奇妙な予言に至る。絶望や深淵の底を拒絶する可能性を見ている。

私たちはここで唐突に神秘に遭遇している。彼の若い日の絶望が彼の人生経験と作家であることのすべてを要求していたのだった。極論すれば、生涯の終わりに『死ぬことと見つけたり』を書くことが、その若い日の絶望のビジョンのなかで定められていたのである。若い日の彼は、そのことをこう薄々と直観していた。

 ヴァレリイの知性は認識の極限を追って、遂に何物かであることを拒否するという完璧の答を生み出すに至った(中略)。ヴァレリイの鋭い眼はこの仮構された底を設定することの無意味さ、その無力さを洞察した。彼にとって重要なのは下降してく歩みだけだったのである。あらゆる人間的条件をふみ超えて迄も、唯その歩行の正しさのみを信じてこの深淵を下降していく彼の姿には、最早ニヒリズムなどという気のきいた言葉を以って覆いえぬものがある。己の精神がより真実であるためにはすべてを捨て去ってくいることのない彼の姿は、激しい強靭な意志によって貫かれている。最早虚無などというものは存在しない。(後略)

ここで、「激しい強靭な意志によって貫かれている。最早虚無などというものは存在しない」人生が予言される。それは、隆慶一郎が生涯をかけて小説家となり、ロマンの物語によってこの世界に引き出す必然を伴った人物である。それが杢之助である。『死ぬことと見つけたり』の主人公である。

『死ぬことと見つけたり』という時代小説は愉快で滑稽にも読める大衆性を装いながら、「あらゆる人間的条件をふみ超えて迄も、唯その歩行の正しさのみを信じてこの深淵を下降していく」人間の自由の本質を描いているのである。その姿はどのように体制が、また歴史条件が、死をかざして人々を脅しても、やすやすと突き抜けていく自由である。人はどのような状況下でも自由たりえる。先に「僕達」を連呼した文脈はこう続いていた。

僕達が正しく僕達であるのは、この心像の場をおいて他にない。心の奥深くしつらえられた舞台の上で、之等の心像を登場人物として演じられる劇こそ、すべての僕達の思考であるといえよう。

であれば、「心の奥深くしつらえられた舞台の上で、之等の心像を登場人物として演じられる劇」をその生涯の答えとして描き出してみようかと隆慶一郎はその人生の終わり近くまで待って起立したのである。

それは、読者にとって、あるいは若い日の絶望を抱えるものにとって、鼻の先に立ち塞がる死という刑務所の壁の向こう側の幻想(ヴィジョン)を明るく与えてくれる。死の無意味さや、「犬死気違ひ」という必定も、永遠待たずして、その瞬間の永遠のなかに包摂されているのである。三島由紀夫的な美の虚無も転倒される。日本なるものも、救済や美への意志すらも必要とされない。人はその生涯の本質を死に向き合って生ききるとき、おのずから与えられるものである。

杢之助とランボーの「永遠」

ここで『死ぬことと見つけたり』という未完の作品の謎は解けたと言ってよいのではないだろうか。書かれなかった結末において、杢之助は、なぜ密かに生涯愛し続けた女性である「あい」を描き、残照のなか海を西に泳ぎ進み死んでいくのか。それは彼が若い日の死地に持っていったランボーの詩集のなかでも、おそらくもっとも美しいとされる詩、「永遠」そのものだからだ。「永遠」(L'Eternite)という女性である。

L'Eternité

Elle est retrouvée.
Quoi ? - L'Eternité.
C'est la mer allée
Avec le soleil.

小林秀雄を含め多くの文学者が訳してきた詩の冒頭である。隆慶一郎が愛した中原中也はこう訳した。

また見付かった。
何がだ? 永遠。
去ってしまった海のことさあ
太陽もろとも去ってしまった。

私はこう訳してみたい。

永遠

彼女に再会した。 つまり、あの永遠。
それは太陽と一緒に
行った海

杢之助の死に託して、隆慶一郎は「永遠」に再会したのである。それは、太陽を追って去りゆく海という永遠だった。それが彼の生涯における「死ぬことと見つけたり」という再会、“est retrouvee”、ということだった。

再会された残照の海の永遠のなかで、無数の無意味と思える死者の相貌にひとりひとり私たちは笑顔を見ることができる。そこに生の輝きを幻視することができる。それが死者の国の光景でもあるだろう。

私たちが生きて、死者の国を継いでいるということは、そのように生の輝きを死者の国からそのままにして受け取る可能性であり、そこを超えた大義などは不要なのである。隆慶一郎の生涯はそうしたロマンのビジョンを与えるものであり、『死ぬことと見つけたり』という物語の滑稽とも言える最後にそれが未完で残されたが、もういいだろう、それは現前したのである。

ケイクス

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