中学時代から俳句をたしなんでいた大橋克己は、高校生のときに俳号で「巨泉」を名乗り始めて、それがそのままペンネームと芸名になった。
1950年代の後半から大学生のままジャズ評論家になってからは、同時にテレビやラジオの構成の仕事もするようになり、放送の世界から司会者として頭角を現していく。なんとも早熟だった。
当時はテレビが黎明期から黄金時代へと移り変わった頃で、音楽番組やバラエティー番組の構成作家といえば、三木鶏郎の門下だったキノトール、三木鮎郎が大御所だった。
若手では直系の弟子だった永六輔が、ダントツの売れっ子だったと大橋巨泉は語っている。
それに続く若手が前田武彦、青島幸男、野坂昭如、はかま満緒、河野洋など、みんな20代だった。
年少のボクがすぐに仲間入りできたのは、デカイツラだったのと、ジャズ評論家としてのバックグラウンドがあったからで、ディレクターも、その方面で買ってくれる人が多かった。
あとの人々は主として「ギャグ」を考える作家であった。
そんな中で前田さんや青島はぐんぐん伸びていたように思う。
年齢も近いので、テレビ局で会った時喫茶室で話しこむことも多くなり、自然に親しくなっていった。
ただ前田さんだけは、他の人と違って特に近いものを感じていた。
大橋巨泉は日本のジャズメンに陽が当たるようにと、ラジオ番組だけでなくコンサートの企画構成も担当し、その流れで司会者としての仕事を始める。
活動拠点の中心は有楽町にあったビデオホールで、なかでも「オールナイト・ジャムセッション」が有名だ。
これはビデオホールの廊下にバーとおにぎりスタンドをつくり、一晩中ジャムセッションを行うという企画で、出演ミュージシャンには飲み放題食べ放題としたので大好評だった。
毎週のようにビデオホールへ通っていた大橋巨泉は、ラジオ関東(現ラジオ日本)の帯番組『昨日のつづき』で番組構成とトークをしていた前田武彦と永六輔の二人に、「巨泉、しゃべって行かないか」といわれたことから、ときどき出演するようになる。
そんなある日、ディレクターから電話が入り、「永さんが現われないので、前田さんが巨泉さんに来てもらえと言っています。ギャラは払いますから、これからホールまで来ていただけませんでしょうか」という。
時事ネタのトーク番組ということもあり、「取りだめ」は尽きているという。
仕方がないので、車を運転してホールに行き、1週間分を取った。
スタッフやスポンサーと折り合いがつかなくなると、すぐに番組を降りることで有名だった永六輔は、二度と現われなかった。
そのために自然と大橋巨泉がレギュラーになった。
それをベッドのなかに持ち込んだトランジスタ・ラジオで、熱心に聴いていたのがラジオ深夜族だった小学生の細野晴臣である。
「当時は、ラジオ関東に飛び抜けて新しめの番組が多かった。大橋巨泉が毎日出ていて『昨日の続き』という番組を聴いてました」
「トーク番組で、最後に必ず『今日の話は昨日の続き、今日の続きはまた明日』って言うんだけど、おしゃべりが新鮮でおもしろかったんだよ」
「で、その番組の前に『ジョー・ウィップラーズ・バンド・スタンドUSA』っていうのをやってたのね。夜の10時半くらいから始まる30分番組だったんだけど、アメリカの最新ヒット曲のテープがかかるんだ」
小学生の頃から音楽だけでなく時事ネタまで楽しんでいたのだから、なんとも早熟だったのだ。
ちなみに「今日の話は昨日のつづき、今日のつづきはまた明日」という番組の決まり文句は、大橋巨泉が考えたものだという。
大橋巨泉と前田武彦の二人はそのまま番組構成の出来る司会者として、それぞれテレビでも成功していく。
二人はライバルとして、ときには犬猿の仲だとも言われた。
日本テレビのプロデューサーだった井原忠高から、二人を司会者としたバラエティー・ショーつくりたいという話があった時、どちらも二つ返事で引き受けたのはずっと仲の良い友人だったからだ。
その番組が『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』で、今でもテレビのバラエティー・ショーとしては最高峰と語り継がれている。