『葉隠』に描かれた非人道的鍛錬法
時代小説としての『死ぬことと見つけたり』は、奇妙な描写から始まる。
凄まじいまでに巨大な虎だった。岩の高所に躯を伏せ、血走った凶暴な眼でじっとこちらを見ている。いかにもしなやかな躯が、荒々しく息を吐くたびに波うつように見えた。今にも跳びかかろうという態勢だった。あの大きさでは、一跳びで自分に届くだろう。
この奇妙な光景は主人公・杢之助の想像が描き出したものだ。毎朝、覚醒して起床するまでの間に、ありとあらゆる死の状況をまざまざと想像し、そしてそこで死を疑似体験するのである。この朝は虎に食い殺されることだった。朝一番に自分の死にざまをリアルに思い描く。毎朝、死を感得する。それが杢之助が物心ついたころからの、武士としての心の鍛錬である。いったいどうしてそんな奇妙な鍛錬が出てきたのか。『葉隠』の原典にそう書かれているからである。小説にもその原文が引用されている。
『必死の観念、一日仕切りなるべし。毎朝身心をしづめ、弓、鉄砲、鑓、太刀先にて、すたすたになり、大浪に打取られ、大火の中に飛入り、雷電に打ちひしがれ、大地震にてゆりこまれ、数千丈のほきに飛び込み、病死、頓死等の死期の心を観念し、朝毎に懈怠なく死して置くべし。古老曰く、「軒を出づれば死人の中、門を出づれば敵を見る」となり。用心の事にあらず、前方に死を覚悟して置くことなりと』
なぜこんな精神鍛錬法が存在しているのか。その疑問については隆慶一郎も記していない。『葉隠』についての解説書でも私は読んだことはない。おそらくこれは元来は仏教における修行の一つ、不浄観(白骨観)の派生であろう。肉体が死して腐敗し、白骨に変化するまでの過程を想像して観ずる修行が仏教にはある。インドやチベットでは実際に死者を大地に置いてじっと白骨になるまで見つめるという精神修行が長く伝統となっていた。禅学者・柳田聖山は『禅思想-その原型をあらう』でこうした仏教の原型の側面を書いた。死を見つめる修行方法は、日本の中世にも現世を穢土とする仏教の浄土教信仰で広まっていた。『死ぬことと見つけたり』で描かれる時代に重なる儒者・伊藤仁斎も若いころ不浄観の修行をしていた。日本人は、死を見つめる修行をする民族でもあった。
浄土教の死観想の行法は、極楽に行くためにこの世界の執着を断ち切る手段であった。そこではまだ死は自然的な死の過程だったが、佐賀藩の武士の伝統では、自然的な死を超えて、自然災害から死闘までありとあらゆる死に向き合い、それに怯むことなく死んでいけるための修行となっていた。なんのために? もちろん、死を恐れぬ武士道のためだと言いたいところだが、『葉隠』における武士道とは、死を恐れないというだけではない。死地にあって、有無も言わさず死ねという教えをよどみなく実践する練習である。戦中の特攻隊の思想にも繋がる。非人道的であり、虚無的であり、危険思想そのものと言ってもよい。
武士道とは「犬死気違ひ」
この生死観の倫理について物語では、第三話の、ややのんびりとした文脈のなかでふらりと現れる。吉原での色恋沙汰のような喧嘩という、およそ生死の大義ない場で、主人公・杢之助はさっさと平然と死ぬ気でいるという文脈である。こう引用される。
『武士道といふは 死ぬ事と見附けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬほうに片附くばかりなり。別に仔細なし。胸すわつて進むなり。図に当たらぬは犬死などといふ事は、上方風の打上りたる武士道なるべし。二つ二つの場にて 図に当たるやうにするは及ばぬ事なり。我人、生くる方が好きなり。多分好きのほうに理が附くべし。若し図にはずれて生きたらば腰抜けなり。この境危きなり。
図にはずれて死にたらば犬死気違ひなり。恥にはならず。これが武道に丈夫なり。毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身になりて居る時は武道に自由を得、一生落度なく家職を仕果すべきなり』
『葉隠』の教えは、生きるか死ぬかという場に立たせられたら、ためらうことなく、考えることもなく、死を選べ、というものである。どっちみち、死ぬのであれば、さっさと死ぬほうを選べとも言う。なぜか。人間は放っておくとつい生きたいと願うものだから、考えれば自然に生きる算段をつい考えてしまい、その結果、死に場を失うことになる。それは武士ではないというのだ。とにかく死ねと。犬死にもなりうるし、こんなことは気違いであるが、武士道というのは、この「犬死気違ひ」であるというのだ。
この「武士道」には、新渡戸稲造が明治33年に英文で著した『武士道』のような倫理の気高さなど微塵もない。宮本武蔵の『五輪書』のような崇高さのかけらもない。ただ、死場を得たら、ためらわず死ねというだけの教えである。現代日本人なら呆れてものが言えないだろう。哲学の体もなしていないかに見える。東洋の哲学だとすら言えない。西洋における哲学なら、つまるところ始祖ソクラテスに帰りて「よく生きること」が課題である。だが、ここであらためて「ソクラテスの死」を考え直すと、よく生きるために毒杯を仰いで死を選んだのだった。西洋の哲学であれ、よく生きることの課題にはじっと死の選択が潜んでいるのである。
ただ「犬死気違ひ」をせよとする『葉隠』の武士道は、まるで戦中の日本陸軍が好む特攻隊の精神そのものではないかと憤慨して当然だろう。だが、特攻の精神とは微妙に、それでいて何かが決定的に違う。
『葉隠』は基本、封建主義時代の偏狭な精神の産物であり、人権思想の微塵も含まれておらず、主君に従うことに大義がある。特攻隊の精神も「天皇のため」という大義が含まれている。しかし不思議なことに『葉隠』は、死というものと大義を直接的には結びつけはしない。最終の課題は、大義ではなく、「犬死気違ひ」なのである。何かのための死という意味付けを拒否して、ただ完璧に死にきったとき、あるいはそうした状態で結果的に生きているなら、人は自由を得るというのだ。むしろ人の自由を奪うものが大義なのである。死を意味付けようとしてためらう不自由さはなくなる。奇妙な逆説がここに生じている。隆慶一郎のこの小説は、「犬死気違ひ」を実践する自由の闊達さを強調し、薄っすらと大義そのものの否定を描いているのである。
戦争中の特攻隊の狂気は、一見狂気に見えながら、自分の死をどれだけ大義に結びつけて了解できるかという合理性にかかっていた。しかし、隆慶一郎自身が死に面して再発見した『葉隠』は、およそ大義の意味了解など早々に存在すらしていなかった。戦地に赴いた彼は後年娘に、「天皇陛下万歳という言葉だけは言わずに死のうと思った」とも語っている。
日本とは誰のものか?
『葉隠』が説く「犬死気違ひ」という奇っ怪な思想からは、さらに恐ろしい図が浮かび上がってくる。「犬死気違ひ」で死んだ死者はすべて肯定されるのである。死に向けて、「犬死」と判断を下す大義はもはやない。死の尊さだけが愕然と起立する。そして死が尊いのであれば、死者は尊く、死者の国は尊いのである。『死ぬことと見つけたり』という小説はここで、「死者の国」という概念を提示する。物語の文脈で見てみよう。江戸幕府と向き合う佐賀藩の争いのさなか、佐賀藩主・勝茂に主人公・杢之助が問いかけていく。
「殿に伺いたいのですが……」
杢之助がゆっくり口を切った。
求馬が一瞬ぎょっとした顔になった。杢之助がこんな一見のんびりした口調で喋る時は、大概途轍もないことを云い出す兆しであることを知っていたからだ。求馬は手を挙げて止めようとしたが、間に合わなかった。 「佐賀一国は誰のものでしょう」
勝茂がぎょろりと睨んだ。簡単に応えられる問いではなかった。
通常の『葉隠』の解釈であれば、主君の存在で大義が終わる。戦前の日本で言えば、天皇の存在で大義が終わる。死が必要なら、天皇のために死ななければならない。だが、隆慶一郎の物語はふざけたような方法的懐疑が続く。いわく、殿様のものですか。いや殿様だけのものではないですね。じゃあ鍋島家という家のものですか?
「成程。それじゃ光茂さまのものでも、三家並びに親類方のものでもない、と」
「当たり前だ!」
勝茂が大きな声で怒鳴った。今にも爆発しそうな勢いだった。だが杢之助は平気の平左だった。
「勿論、われら浪人のものでもないし、百姓町民のものでもない。とすると本当は誰のものなんでしょうね」
求馬は居ても立ってもいられぬ気持ちだった。その辺でやめろ、と喚きたかった。だが、杢之助がやめるはずのないことも、よく判っていた。
「何が云いたいんだ、杢之助。云いたいことをまっすぐに申せ」
(中略)
「要するに何が云いたいのだ」
勝茂は同じことを、今度は力なく云った。
「佐賀は殿をはじめご家中のものであり、同時に百姓町民のものでもある。鍋島ご一族の私していいものではない」
勝茂は無言でいた。判りきったことを今更と思うからだ。杢之助が続けた。
「佐賀は又、この土地で生き、この土地で死んだ死人たちのものでもある」
ようやく話の核心に達したことを勝茂は感じた。
「今現在生きている者たちが勝手にしていい土地ではない」
そんなことも百も承知だ。だが……
「でも死人たちは口を利けない。利けなくなくはないが、生きている連中には聞こえない」
「杢之助には聞こえるというのか」
勝茂が皮肉に訊いた。思い上がりではないかと云っているのだ。
「聞こえます。鍋島藩なんて糞くらえと云ってますよ。懐かしいのは佐賀の風土だけだ。人間なんかいらないんだ。そう云っています」
物語は暗喩である。佐賀藩に仮託されて語られている問いは、日本である。日本とは誰のものか? 死者のものである。死者は語る、「日本なんか糞くらえ。懐かしいのは日本の風土だ。人間なんかいらないんだ」と。日本とは死者の国だからだ。
戦後に生きている人間は、戦争で死んだ人々に多くの言葉を投げかける。避けがたい悲劇を悲しむ態度を示して、平和とか進歩思想とかなんだかんだと大義をかざして、実際には死者を選別する。そのいくばくかを犬死と切り捨てる。特攻隊は無駄でした。犬死でした。こうした死には大義がないとする。にこやかに正義や平和を語りながら、実は死者を貶める何かが進んでいく。それが戦後日本という空間だった。それが戦後の日本だった。
いや、もしかすると逆かもしれない。日本は変わらず死者の国であり、私たち現在の生きている日本人は、死者が所有しているこの日本に仮暮らしをさせてもらっているだけなのではないか。死者たちにしてみれば、生者である日本人などどうでもいいのだ、と。
この逆説に込められている構図は、「武士道といふは 死ぬ事と見附けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬほうに片附くばかりなり」というのと同じである。「我人、生くる方が好きなり。多分好きのほうに理が附くべし」ということである。私たちは国家という大義を基にして考えがちだ。だが、頭でひねり出した大義を考えている限り、実は命を思想に従属させているだけである。あの死はすばらしく、この死は無駄であったと、生者は、もはや死者など眼前にいないかのごとく傲慢に語る。だが、お前だっていずれ死者の国に来るのだと死者はつぶやく。生、そのものの傲慢が大義に付着するようすを、日本を所有している死者たちは疎ましく思っている。その姿が生のなかに自由として反照したものが、『死ぬことと見つけたり』という物語であり、死者の預言者である杢之助である。
もう一歩踏み込んで、それはどういうことなのだろうかと問うてみたい。ここで、私は、隆慶一郎の脳裏には三島由紀夫と小林秀雄が浮かんでいただろうと察する。