吾輩は自由であり孤独である
みなさんこんにちは。
宮古島に移住して5年という人が、まったく関西弁が抜けてなかったという話をカメ氏としていたら。
「お母さんも10年住むのにまったく抜けてない」
と言われた。
そうだったんか。
家の中の公用語が関西弁だったので気付かなかった。
そんなカメ氏は学校では宮古弁。
「関西弁しゃべって」
といわれることも多いそうで、そのたびに、
「もう忘れた」
と返答しているらしい。
なんかうらやましい。
でもわたしだったら、
「もう忘れたわ~」
とばりばり訛って返事しそうだな。
あぶねー。
という金曜日。
モコの日記です。
吾輩はモコである。
文鳥である。
とりぶうはよく文鳥画像を検索している。
本物の文鳥を見ているだけではあきたらず、二次元の文鳥にも触手を伸ばしだしたと見える。
ばかげている。
検索しては、「かわいーかわいー」と奇声を発する。
およそかわいさとは程遠い人間が「かわいー」と連発するほど気色悪いものがあろうか、とげんなりする。
そうして文鳥ゴコロが高まったのか、
「モコモコ!おいで!モコモコ!」
と吾輩を呼ぶ。
無視するに限る。
呼ばれたところで答えてみても何もメリットはない。
せいぜいつかまれてぎゅうぎゅう鼻を押し付けられるだけなのだ。
今日も文鳥画像を検索していたとりぶうは、なにかを見つけてにやついていた。
「なあなあ、ハワイでは野生の文鳥がいっぱいってよ!
それがなついてるってよ!ああ、ハワイ行きたいな~」
そんな理由でハワイに行きたいとは、ハワイも軽んじられたものである。
ハワイに行かずとも文鳥によく似たスズメの群れなら、庭に山ほど来るではないか。
それを見ておけば良いのにと、吾輩は思う。
しかしとりぶうにしてみたら、わざわざ金を出してまで手に入れるほどの文鳥が、野生でしかも群れでいる、というところに価値があるのだそうだ。
群れのメリットはよくわからぬが、画像を見たらいかにもきゅうくつそうではあった。
限られたエサを取り合いしながら食べている。
自分の好きなだけ好きなときに食べられる境遇の吾輩からすると、気の毒でしかたがない。
しかし、野生というのはそういうものである。
群れでいるほうがなにかと都合がよいのであろう。
敵に襲われにくいとか、エサが見つかりやすいとか。
メリットを確認できているから群れるのである。
でなければ離脱するのみ。
吾輩は最初から群れのよさを知らぬ。
ひょっとしたら群れは群れで居心地がよいものかもしれぬ。
顔なじみのやつと一緒にエサを食べるのは、なにかしら心浮き立つものがあるのかもしれぬ。
このエサは美味い、こっちはまずいなどの情報が共有できることは、自分ひとりで美味いえさを探し出すことに比べたら、はるかにメリットだといえる。
しかし群れと孤独の両方を同時に手に入れることはできない。
どちらかを選んだとたん、もう一方のメリットを手放すことになる。
そもそも吾輩には選択肢そのものが最初から与えられていない。
しかし人間は与えられている。
自ら進んで選んだ境遇なのであれば、メリットをせいぜい享受しなければならない。
ないものを数えてももう遅いのである。
群れに所属しない吾輩は、自由である。
しかし自由とは孤独である。
自由でいるからには孤独に耐えうる力が必要である。
その力を持ったもののみが、自由を満喫できるのである。
モコのカゴの中には、えさばこが三つあります。
小×2、大×1
いままで小のエサばっかり食べてたのが、さいきん大を食べるようになった。
そのため小のエサの量を減らしています。
気付いてるかどうかはわからないけど、モコの食べるのが、大エサがちになってる。
このままいけばそのうち、大ばかりになる気がするんだなあ。
それでは~
とりぶう
- 関連記事
- 吾輩は自由であり孤独である
- 出る杭はヘタクソである
- カゴの中の鳥である
あしたも、お待ちしております。!