この間スタバでバナナを食しながら(スタバでヘルシーに小腹を満たそうとするとバナナしか選択肢がない)、ふとはぁちゅうさんのブログを読んでたらこんな記事に出会った。
「なんでみんな、すぐに悲劇のヒロインぶりたがるのかな」
最近noteを始めたっぽい人のつぶやきを
たまたまこの間、見かけたんですけど、
「やっぱ私にはnoteで稼ぐのとか無理…心が折れた…」的なことを
つぶやいてるのみて、
「まあ、本人がそう思うなら無理だろうね」って思いました。
(中略)
それにしても、なんでみんなそうやって始めたばかりのことに、
結果を求めるんだろう?
noteとかそもそも始めてから、お金とかの成果に結びつくのには
それなりに時間がかかる場所では…?
noteのことに限らないけど、すぐに結果を求める人って
なんで人の成功してる部分にばかり目を向けて、
それ以外の努力の部分に、気づかないんだろう?
どうして他の人が、時間をかけて築いたものを
自分は一瞬で得られると思えるんだろう?
そして得られないからといって、悲劇のヒロインぶれるのだろう。
(中略)
後から世の中にがつんと認められるものであっても、
人の目にちゃんと認めてもらえるくらいの結果が出るには
それなりの時間がかかるのが普通だと思うのだけど、
そういう感覚ないの…?
(中略)
ここ最近のいろいろな悲観的な記事に対して、
見てるほうも使うほうも、みんな落ち着けよ…
もう少し長いスパンで物を見ようよ、としか思えないのでした。
やれやれだよー(●´ω`●)
自分の胸に手を当てて考えてみたが、覚えがあるどころか、思い当たるふしがありすぎて思わずわしづかみである(スタバでやるなよ)。
ちょっと膝まげてかがんだくらいで、あの大空を飛びたいと思っちゃう。思うように飛べなかったら、ほらやっぱりねとしゃがみこむ。
自分は屈伸すら続かないくせに、日々地道にスクワットしてきた人の成功を「あの人は××だから。」と勝手に理由づけして納得しようとする。
意志が弱い、計画性がない、継続力がない。ダメだこりゃの3拍子。
でも本当に「ダメだこりゃ。」なのは、自分で人生を「選ぶ」のではなく、「選ばれるのを待っている」そのスタンスではないか、とふと思った。
自分の人生の行先を選んでいくという主体性が無いから、「悲観的」になる。もうだめだ、自分は選ばれないんだとしゃがみこんでしまう。だけどやっぱり自分可愛さで、そんな自分のありかたにも光を当てたい。そうまでしてスポットライトを当てようとする姿勢が周囲から「悲劇のヒロインぶってる」と見える。
うまくいくかどうか、他人に評価されるのか、もちろん誰だって気になる。だが「それでもやるんだ」という主体性でしか立ち上がることは出来ない。「意志が強い」の「意志」の正体は、自身の人生に対する主体性の強さなのではないだろうか(恋愛や婚活にも同じことが言えるかも)。
そんなことを考えていた折に、自身が中高生の頃芸能活動を目指し、オーディションを受けていた日々を鮮烈に思い出すようになった。
当時、オーディションが本当に苦手だった。
自信と覚悟を持つ、魅力的な同世代の女の子たちと横並びになり、審査員の興味の有無がそのまま投影された、あからさまな視線を受ける。
「あの子はスター性がある/ない」「可能性がある/ない」。オーディションでも養成所でもそんな言葉をよく聞いた。「才能は見いだされ、選ばれるもの。」そう思っていた。
手ごたえのなさから「自分は『ある』側の人間じゃないんだなぁ」と徐々に自己認識し、最後の方は受かろうと思ってオーディションを受けてるというよりも、諦めたくて受けてるという感じだった。
そんな日々から逃げるため、「もうおじさんたちに品定めされる毎日はコリゴリや!」と挫折の理由をあちらになすりつけ、「ひとに選ばれるのを待つのでなく、自分で人生を選んでいける人間になるのや」と、夢に踏ん切りをつけた。本音は「もう無理ゲーと感じた。痩せろと言われるのもツラみ。」に近かったのだけど、自分にも周囲にも前述の建前を言い聞かせていた。
昔の夢に執着する瞬間が無かったわけではないが、「もう遅い」と言い聞かせ、蓋をした。就職活動を経て入った会社は実際かなり水が合った。仕事は楽しく、人間関係にも恵まれた。
が、仕事が落ち着いてくると、また夢の続きを探そうと様々な方向にアンテナを張って、「本当に好きなこと」探しや「天職」探しの試行錯誤を繰り返した。
蓋をしたはずの夢の続きがあるんじゃないかと夢想もした。このブログも、そんな試行錯誤の中で始めたものである。
だけど、ほぼ何も踏み出せないまま、気づいたら30歳手前になっていた。なんだかんだ一生懸命やってきたことには変わりないのだから、誇るべき道のりなのかもしれない。でもわたしには、踏み出さなかった一歩が積もり積もった、踏み倒してきた借金のように後ろめたくも思えた。
「わたしはあの時から何も変わってなかったのだ」と気付いたのは、最近のことだ。
わたしはずっと選ばれるのを待っていた。人から可能性を見出され、それでいいのだと肯定され、引っ張り上げてもらうのを待ち続けていた。
こんなことまでさらけ出すのはとても恥ずかしいけれど、「誰かに『可能性があるよ』と言ってもらえたら、自信が持てるのに」と心の中でつぶやくことがあった。
それは、自分に自信がないからだと思っていたが、他力本願だからいつまでたっても「自信がない」ということにしているのだろう。
自分のコンプレックスや欲望を、何かしらの形で昇華したいと思っていた。「自分の経験を言語化して、それが少しでも喜ばれたら自分自身が救われるかも」なんて聞こえはいいけれど、自身のプライドの高さや臆病さに蓋をして安全圏に居ながら、人の気持ちを動かすなんておこがましいと自分でも思う。
みんなひとを見て、自分自身のあり方を見つめたい。ひとに惹きつけられて、自分自身に影響を与えたい。人の鏡になるには、相応の力が必要なのだろう。
自戒を込めていろいろ書いたけれど、個人的にはすこしかがんだくらいで空飛びたいと思ってて、飛べなかったら才能がどうだの運がどうだのぎゃんぎゃん言う、そんな欲深き怠け者も、人間らしいなとは思う。
なりたい職業になれなくても、好きな人と一緒になれなくても、キラキラしてるなんて言われなくても、それでもなんとなく「悪くないな」と思える日常がある。それは自分の嗜好(志向)・能力・環境が奇跡的にマッチングしているということで、そんな日常がちょうど良い塩梅なのかもしれない。
YouTuberやインスタグラマー、ブロガー作家、積極的に発信する経営者やビジネスマン・・・。ネットを通じて有名になったり成功する人や、その過程を目の当たりにする時代になった(昔は『ASAYAN』とか『マネーの虎』くらいであった・・・)。焦ったり比べたり、自分のペースを確立しにくい時代なのかもしれない。
でも「業界の実力者に引き上げてもらわなきゃダメ」「選ばれたエリートでないとダメ」というシンデレラストーリーは必要なくなった。もちろんしかるべき人との出会いは大きなきっかけになるけれど、別にそれだけじゃない。
自分のペースでスクワットして、自分のペースで世に出られる時代。世界中を飛び回る高城剛さんは、著書等で「物事を7年で考え計画すれば、大概のことは結果が出る」と仰っていた。100%の結果は得られなくても、7,8割方は叶えられるということだろう。
足腰を鍛え、縁を手繰り寄せ、タイミングを待つことが出来れば(これが一番難しい)、可能性は誰にでもある。わたしもずっと「選べる」状況にあったのだ。
夢を叶える方法、もっと言うと自分のありかたを突き詰める方法はひとつじゃない。ステージは作ることが出来る。
それが「大人の夢の叶え方」なんじゃないかと思う。