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尾張藩、増水時に堤防切り橋保護 名古屋市博物館の学芸員調査

枇杷島橋のたもとに設置されていた水位計。26日まで名古屋市博物館で展示中=瑞穂区で

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 江戸時代前期、尾張藩は想定外の増水時に大切な橋を守るため堤防を決壊させたことを、名古屋市博物館の鈴木雅(まさし)学芸員が明らかにした。庄内川沿いの下小田井村・枇杷島村(現在の西区・清須市)に関する藩の文書を調べて分かった。十八日午後二時から、同館での講演で発表する。

 同地域は矢田川が合流し、尾張藩は水防に力を入れていた。名古屋城側の枇杷島村と、対岸の下小田井村を渡す枇杷島橋は、初代藩主徳川義直が最初に架けた。

 鈴木学芸員によると、藩の法令集「尾藩令条(びはんれいじょう)」に、一六六六(寛文六)年の「小田井堤」決壊で土地が水没し、年貢を取りはぐれた家臣や寺社に米を支援したという記述がある。さらに約百十年後の藩の民政記録集「地方古義(じかたこぎ)」には、「寛文六年秋に洪水が起き、枇杷島橋が耐えられなくなったため下小田井村の堤を切った」とあった。

 江戸時代、名古屋城下で書かれた日記や随筆には、「真剣に仕事をしない者」の意味で「小田井人足」という言葉がしばしば登場する。堤防を切るため動員された住民らが少しでも作業を遅らせようとしたという言い伝えが由来とされ、その背景が今回初めて具体的に裏付けられた。

 ただ当時も、原則は橋も堤防も守る“完璧主義”。藩の覚書には、大水の際、両村に藩が預けた道具で堤防を補強し、重りの石を置くなどして枇杷島橋も守るとある。枇杷島村側の橋のたもとには藩が水位計を設け、住民が監視していた。

 寛文六年の大水は想定外の規模だったため、枇杷島橋の保護を優先して堤防を人工的に決壊させ、水位を下げたとみられる。住民に大被害を与えても橋を守った理由は不明だが、尾張最大の橋で、千両(約一億円)ともいわれる架け替え費用が関連する可能性がある。ただ、同年以前や江戸後期には流失したという記録もあり、江戸時代を通して橋を優先したわけではなさそうだ。

 鈴木学芸員は「水防規定の地域、年代による違いを調べれば、当時の治水の実態により詳しく迫れるのでは」と話す。講演はだれでも聴講でき無料。(問)同館=052(853)2655

 (谷村卓哉)

 

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