自由になりたかった。お金があれば自由になれると思っていた。新卒で社会人になって六年、気づいたら一千万が溜まっていた。けれども、生活はなにも変わらなかった。当たり前だ。たったの一千万だ。
たしかに多少大きな買い物をしてもそう簡単にはなくならないけれども、投資をするにはものたりない。会社をやめたら数年でなくなってしまう。大した額だと思ってたけど、溜まってみれば大したことがなかった。気が抜けてしまった。でも、それでもまだ、自由になりたかった。
自由でないと感じるのは、つまり自由がなにかという話になるのだけれど、自分の場合は育った家庭を思い出す時だ。日本での生活をするにあたって常に付いて回る保証人というやつのせいである。
いい大人になって配偶者がいなければ、保証人はいつまでも親だ。機能不全家族育ちにとって、親の名前が随所に出るのはこのうえない苦痛だし、首に紐をかけられて怯えている犬のような気持ちになる。意思を持ってはいけなかった子供時代はさっさと忘れてしまいたいし、今もなおあの手この手で懐柔して支配下に置こうとする親とできる限り距離を置きたかった。マンションの契約更新のはがきが来るたびにだらだらと脂汗を流す生活はもういやだ。夜中にメールが入っても恐ろしくて差出人を見れないような生活はもういやだ。明日家がなくなるのではないか、職を奪われ路頭に迷うのではないかと恐れる生活はもういやだ。自由になりたい。安心して住める家がほしい。
ほんの少し前まで自由になる手段は名前を変えて独立した家庭をもつことだと思っていた。ありていにいえば結婚すればいいと思っていたのだ。だが、結婚をするには両親への紹介が必要だ。こちらの事情を理解してくれる伴侶をえるのもハードルが高いのに、配偶者の家族にまで理解を得るのは一体どれだけ頑張らなければならないのかと考えると心が折れてしまう。結婚できそうなタイミングは何度かあったのに、そのたびに尻込みをして三十を越えてしまった今、そろそろ相手を見つけるのも難しくなってきた。それにあの壁を前にして乗り越える体力があるかどうか、自分でもわからない。もう結婚は諦めようと思った。あきらめたら、家を買う選択肢が出てきた。
世事にうとい、というかバカなので、この歳になるまで住宅ローンに保証人が不要だということを知らなかった。なんのきっかけで住宅ローンについて調べたのか覚えていないが、とにかく保証人が不要だと知った瞬間にバツンと電気が走ったような気がした。まさに天啓というやつだ。これで自由になれる、と思った。マンションを買って、スケルトンにして、位置から間取りを考えるフルリノベーションをしようという漠然とした夢に色が入った。翌日には相談会の予約をとっていた。
リノベ会社のひとたちはやさしくて、すこしも否定をしない。三十ならまだ結婚も考えられるからしばらく待ってみてはどうかとか、街のステータスがどうのこうのとか、新築がとかなんてことは一言も言わなかった。ただ家に対する情熱があり、暮らしに対する理想があり、人としてごくふつうの親しみと敬意を持って接してくれるだけだった。相談会というよりはインテリアや好きな街をして、あとはちょろっとお金の話をした。手持ちに一千万あれば、ローンを組んだとしてもまだまだたくさんのことができる。一千万は全く使わなくても収支のバランスを考えるとかなり余裕を持ってローンを組めるから、今と変わらない収入で今よりも豊かな生活ができる。職場も近くなって、自分の好きな土地に住んで、自分のしたい暮らしができる。そしてライフスタイルがかわれば、組んでいるローンの総額がそれほど多くないし、市場価値のさがらない中古マンションを買うので、身軽に売ったり貸したりできる。そういう考えの世界なのだった。結婚を考えるよりもずっと自由で、ずっとハードルが低くて、そして運に頼る必要もない。
自由があると思った。
でも、本当はまだ少し怖い。こっそりと住所を変更しているのがバレた時にどうなるのかは恐ろしいし、いつかバレるのではないかとびくびくしてもいるが、でも自分のことを自分だけで決めていくのが、そしてそれを邪魔されないのがこんなに気持ちのいいことだなんて知らなかった。毎日が楽しいし、家のことを考えるのも楽しい。やりたいことを、言いたいことを恐れを抱かずに口にできるのは爽快だ。家を買ってよかった。自由になれてよかった。しばらくは絶望しないで生きていける気がする。