まさかの未来
みなさんこんにちは。
子どものころ、道路がまだ十分整備されていなかったとき。
タイヤを溝にはめて動けなくなってしまった車をよく見かけました。
近くの大人が総動員されて「せーの!」で車を押し上げるという光景は、なんかわくわくするもので、
まるで見知らぬ人でも、いっしょに力をあわせてなにかをやり遂げるということが、
ちょっとした感動を呼び起こしました。
車が無事、道路にもどって動き出したとき、大人たちの笑顔はすがすがしいもので、
「あたしも大人になったら、タイヤを溝にはめて、あわててだれかを呼びに行くんやろうなあ」
と、漠然と思っていたのですが。
そんな経験、ナッシング。
わたしの運転技術がすごいのだ!
と、いうわけではなく。
そもそも、はまれる溝がナッシング。
そのうえ。
最近、やっちゃえニッサン、のCMでもあるように。
自動運転の車が当たり前の未来になるらしい。
もう、溝にはまる心配すらナッシングなのだ!
それはそれでうれしいのだけど。
なんとなく、みんなで「せーの!」の牧歌的な光景がなつかしかったりするのです。
人は親切なものだ、と当たり前に思えたのです。
親切で思い出したのですが。
以前、那覇でモノレールに乗ろうとしたときのこと。
車椅子の男性が待っていました。
どうみてもひとりで乗り込もうとしてるらしく、近くにいたわたしとしかちくは、まったく当然のこととして、彼のお手伝いをすべくそのうしろに立っていたのですが。
モノレールが駅に入ってきたとたん、駅員さんがやってきて、わたしたちをさも邪魔もののように見て、
「違うドアからお乗りください」
と冷たく言われたので、なんか釈然としませんでした。
車椅子の人を押しのけてのるような人間に見えたんやろか。
と、思ったりしましたが、きっとそれがモノレールのルールなんだろうな。
親切をあてにしてない社会なんだろうな。
たしかに車椅子の人からすると、いつも第三者の親切頼みは心苦しいだろうから、駅でルールを決めておいてくれるほうがいいと思います。
でもなあ。
と思うことをとめられない。
タイヤを溝にはめたときのあの協力体制が、もう見ることがない未来は想像してなかった。
たしかに便利はいい。
便利になるために努力してきたのが文明だけど。
ひょっとしたら人々はもっと親切したいのかもしれん。
だれかが、「すいませんが、手伝ってもらえませんか?」と頼みに来てくれることを待ってるのかもしれん。
そうして、微力ながら自分の力が役立っていること、たとえば、タイヤが溝から脱出するみたいなことを、自分の目で確かめたいのかもしれん。
それがまるでない社会だから、親切が空回りしてへんてこな形で人を攻撃するのかもしれん。
なんてことをふと考えるのは。
わたしも年とってきた証拠なんかもしれんなあ。
それでは~
とりぶう
あしたも、お待ちしております。!