小津安二郎監督『お茶漬けの味』と汁かけめし。
小津映画には、食事のシーンが多いのだそうだ。『小津安二郎の食卓』(貴田庄、ちくま文庫)には、そう書いてある。
おれは、あまり小津映画を見てないが、それでも、なにしろ戦後の映画の復興期成長期に育ったのだから、何本かは映画館で見ている。それで、ことによると映画のスジも題名も思い出せなくても、登場人物が何かを食べているシーンだけが、ひょっこり頭に浮かぶことがある。
その代表格が、俳優の佐田啓二がとんかつ屋でとんかつを食べるシーンと、佐分利信がみそ汁ぶっかけめしを食べるシーンだ。
この本を読むと、佐田啓二のシーンは小津の遺作となった『秋刀魚の味』(1962年)で、佐分利信のみそ汁ぶっかけめしは『お茶漬けの味』(1952年)だ。
どちらも題名に食物の名や「味」といった言葉があるが、食事のシーンが多い小津作品のなかでも、そういうのはこの二作だけだ。そして、本書でも指摘しているが、『秋刀魚の味』には、秋刀魚を食べるところは出てこない。「秋刀魚の味」は比喩なのだ。
『お茶漬けの味』のほうは、やはり「お茶漬けの味」は「気やすさ」の比喩でもあるのだけど、映画の最後で佐分利信と妻役の木暮実千代が、一緒にお茶漬けを食べるシーンがある。
著者の貴田庄さんは、「エピローグ 日常的グルメ映画」で、とくに「『麦秋』は小津の描いた日常的グルメ映画でもある」とし、「この映画は、『秋日和』や『秋刀魚の味』ほどには目立つことなく、日常の食の世界をさまざまな方向からそれとなく丹念に描くことで、憧憬に値する日本の家庭を表現した稀有の作品である。真のグルメ映画とはこのような作品をさすのではないだろうか」と結んでいる。
そういうことなのかも知れないが、おれがイチバン気になっているのは『お茶漬けの味』なのだ。
貴田庄さんは、こう解説している。
「ラーメンや焼き鳥と同様に、とんかつや天津丼の好きな岡田はB級グルメの代表者である。庶民派の岡田が茅ヶ崎のお嬢さんである節子(津島恵子)と仲良くなる。猫まんまを平気で食べる庶民派の佐竹は茅ヶ崎のお嬢さんだった妻(小暮実千代)とうまくゆかないが、最後にはわだかまりがなくなる。そして岡田と節子がたとえ一緒になっても、佐竹夫妻のようにはならないだろう。これが『お茶漬けの味』の主要な筋なのだが、この物語を完成させるために小津が用意したものは、前者のカップルはラーメンを食べることであった。食という視点からすれば、『お茶漬けの味』はB級グルメの素晴らしさを描いた作品にほかならない」
岡田は鶴田浩二、佐竹は佐分利信が演じている。
おれは、「お茶漬け」のタイトルや、佐分利信がみそ汁をめしにかけて食べ、妻に怒られるシーンのほうが気になって、このラーメンカップルとの対比は、いまいちピンときてない。
佐竹の妻は都会の中産階級の家庭のお嬢さん育ち、佐竹はどんな家庭で育ったかわからないけど地方の出身で、重役にまで出世したサラリーマンだ。
生まれも育ちもちがう夫妻のギクシャク不協和音、それを象徴する猫まんまをめぐるいさかい。その和解の象徴として、一緒にお茶漬けを作って食べてメデタシオシマイ、という話に思えた。
この解説には、「猫まんま」という言葉が出てくるが、映画のなかには出てこない。おれの汁かけめし関係の著述では、お茶漬けと汁かけめしは、料理的にはちがう料理として猫まんまは汁かけめしにしているが、この映画では、お茶漬けだろうと猫まんまだろうとみそ汁ぶっかけめしだろうと、関係ない。ようするに、妻の小暮実千代からすれば、どれも行儀の悪い食べ方として同じなのだ。
とにかく、おれが気になったシーンは、むしろこちらだ。気になって、youtubeで確認した。
夫が食卓に向かって、先に一人でめしを食べている。そばには、給仕のお手伝いさんがいる。夫妻二人だけなのに、お手伝いさんがいるほどの家なのだ。
機嫌の悪い妻が、あとから来て、めしに汁をかけて食べている夫に、「そんな食べ方、よしてちょうだい」と怒って席を立つ。
食卓に残った夫は、給仕のお手伝いと、こんなやりとりをする。
「おまえの田舎じゃめしに汁かけて食べないか」
「いただきます」
「埼玉だろ」
「はい」
「長野もやるんだ、東京の人はこうやって食わんのかな、うまいのになあ」
夫は、「子供のときからやっていた、気やすい感じが好きなんだ、いいんだがなあ。おいしい、うまいね」とも言う。
その後、あれこれあって、最後は、夫婦で夜中に準備をし、正確には汁かけめしとはちがうが、めしにお茶をかけて食べ、夫婦は「お茶漬けの味=気やすさ」なんだよ、という結論で、メデタシとなる。
小津監督の意図はわからないが、それを抜きに見れば、これは戦後の食文化のなかにある「断層」にもみえる。おそらく食文化だけではなかっただろう。なにかと、元の出身階級が意識された。
戦後の「庶民」の文化の構造は、色濃く戦前の階級のちがいが残っていて複雑だ。戦前では中産階級に属する戦後の「庶民」と、戦前から平民の労働者階級の「庶民」とでは、文化的にギャップがある。
政治体制が変わっても、食文化がすぐ変わるわけではない。「女は家庭に」「家事は女がするもの」のように、あるいは『大衆めし 激動の戦後史』でも述べた「日本料理の二重構造」のように、逆に、食文化のなかには、さまざまな「しがらみ」の文化が残りやすい。
この夫妻のように「気やすさ」へ向かうのではなく、とかく、庶民かも知れないがキリッとした「お嬢さん」「お坊ちゃん」好みの文化のほうが、美化されやすい。
近年の「格差」のなかに、それを感じることがある。
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