お友だちが前回の文学フリマで販売していた「アヴァンギャルドでいこうvol.5」を読んでいて、そこで掲載されていた赤木杏さんのコラムは
「私は産婦人科が好きだ。女性器が性的な意味を剥ぎ取られ、単なるモノとして扱われるのは産婦人科しかない。」
というようなことばで閉じられていた。
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肉体と性、それに付随する欲望についての言及が多く、ぼくは即座に映画「ニンフォマニアック」を想起した(また同時に科学技術により性転換が容易になるようSF作品も同時に想起したが、ここではそのことは触れないでおく)。
この「ニンフォマニアック」という映画はぼくがもっとも好きな映画のひとつで、DVDだと上下巻で合計4時間を超える大作だけれど、その長さを感じさせないくらいにおもしろい。短編連作形式をとっているため、一度じゃなくても小分けして視聴できるっていう利点もあるので、まだ見ていないひとはぜひ一度見て欲しい。
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「ニンフォマニアック」とはどんな作品なのか?
タイトルの通り、「色情狂」の女の話である。ある日の夜、怪我を負い、異臭を放った状態で倒れていた女・ジョーをゼリグマン(童貞)という初老の男が発見し、自宅で介抱する。目を覚ましたジョーにどうしてこんなことになったのかと問うと、ジョーはこれまでの自身の半生を振り返る。
夥しい数の男性遍歴や、自身の欲望に身体が追いつかず(不感症)とも、それでもみずからの欲望を追い求めたジョーは、最終的にみずからの「セクシュアリティを排除する」という結論をセグリマンに宣言する。その後、セリグマンは哀れにもジョーに欲情し、彼女が彼を射殺するところで映画は幕を閉じる。
あらすじはこんな感じだ。
多かれ少なかれ、ひとがじぶん自身に対して苦しみを感じるとき、じぶんではどうにもならないものが存在する。作中のジョーであれば、女性として生まれてしまったこと(もっと言えば人間として生まれてしまったこと(もっと言えば動物として生まれてしまったこと(もっと言えば……)))がひとつの拘束となる。だから、「アヴァンギャルドでいこうvol.5」で赤木杏さんが述べた「産婦人科が好き」というのは、ジョーが求めた「セクシュアリティの排除」と同じものだとおもう。肉体、あるいは物質から意味を剥ぎ取ること。そして、それというのはより一般化すれば「自身が置かれている拘束を外すこと」になるだろう。
しかし、「ニンフォマニアック」のラストで、ジョーはそれに失敗する。いうまででもないことだが、セリグマンにとってジョーは女性だったからだ。こうなったのは、ジョーとセリグマンの互いの欲望がねじれてしまったから。互いの欲望のベクトルが行き違っていたから。そして、ジョーの欲望は個人的なものであるのに対し、セリグマンの欲望は社会的なものであったからだとおもった。
ここで、「欲望」というものを3種類に分類してみたいとおもう:
- 一人称的欲望…他者を必要としない
- 二人称的欲望…特定の誰かを必要とする(恋愛などがこれにあたる)
- 三人称的欲望…集団(匿名の誰か)を必要とする
「ニンフォマニアック」を例にとれば、ジョーの欲望(=じぶんらしく生きたい)は一人称的であり、セリグマンの欲望(誰でもいいからヤりたい)は三人称的である。
※セリグマンは映画の最後で「たくさんの男とヤったくせに…」というセリフを残している。これは、ジョーを恋愛対象としてでなく、匿名の女性としてみていたということになると解釈した。
三人称的欲望は、特定の個人により発せられるものでなく、それこそぼくらが死のうが生きようが、新陳代謝によりひとの寿命よりはるかに長い時間生きながらえる集団により恒常的に形成されている、いわば「檻」のようなものだ。ものがひとつ命名され、意味づけられることにより、ぼくらは同時に他者の意味に閉じ込められる。命名や意味づけにより、他者との「理解」は促されるけれど、他者とのコミュニケーションが前提とされた「理解」で犠牲になるのは「理解できない私」、つまり、一人称的欲望だ。
詩的表現において〜最果タヒについて
詩人最果タヒは、自身の詩集「空が分裂する」のあとがきでこのように述べている:
常に思っていたことがある。
わかりあうことは、気持ちが悪い。常に、本当に常に、思っていた。青春時代にみんなで、ナルシストとか、イタイとか、不思議ちゃんとか、中二病とか、言い合って、個性的にならないように毎日牽制しあっている、そういうのを見て、ああ、こうやって、平凡な人間は量産されていくのかと考えたりもしていた。みんなと違う、自分だけの特徴を、恥ずかしいものとして隠していくことが彼らの処世術で、平均的でみんなと同じ人が偉いんだと当たり前に考えていて。ばかみたいだ。それは偉くなったんじゃなくて、「無」になっただけだ。(中略)私は、感情がなんでもすばらしいなんて言わないけど、感情が美しく見えるのは「だれにもわからない」時だと思う。感情はただの乱れでしかないけど、その人のそのときにしか生じなかった乱れは、さざなみみたいにきれいだ。
最果タヒ,あとがき(空が分裂する)
最果タヒさんの文脈では、「感情」というものが「一人称的欲望」として書かれているとみれる。じぶんのなかで消化しきれない雑多な想いに理解を求め、伝えようとすることにより損なってしまうこと、それにより一人称的欲望が消失し、「平凡な私」になってしまうことに警鐘を鳴らしている。言い換えれば、感情を他者のものでなく、じぶんのものとして所有し続けるという一人称的欲望が強く発露している。
ことばで以前の感情を「伝える」のではなく表現として行うため、同詩集のなかで最果タヒさんが行った詩作で以下のものがある:
いつも、空というものをあいまいに定義して、なんでも空と呼んでいたらいいようなきがしているよ。殺人も、恋も、すべて空と呼べばいいように思えていた。
最果タヒ,「永遠」(空が分裂する)
すでに共通の理解が得られていることば(空)の意味を解体し、作者、あるいはその読者が、そのことばに面する瞬間においてのみ機能しうる状況を生み出す。それはことばを読むという時間においてのみ生じる特別なもので、意味と呼ぶにはあまりに曖昧で、決して普遍的なものではない。しかし、ことばがそういう空間として機能しうる場所を創出することにより、一人称的欲望が一切の犠牲なしに局所的に生を受ける。
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いわゆる「ブログ飯」について
話は点々とするのだけど、最後にこの間も話題になった、「ブログで稼いでフリーランスになります」について。
ぼくも日頃からおもうことだけど、会社に所属して働くことを窮屈に感じる。たとえば、
- 人生の大半の時間を奪われ、じぶんのやりたいことが本気でできない(※甘えを含む)
- スーツ着たくない
- 話したくもないひとと話さなければならない
- 寝たい
- というか働きたくない
みたいな感じで、もうぼくの場合挙げ出せばクズ人間まっしぐらなのだけど、それでも働いているのはやっぱり「三人称的欲望」の檻のなかにいるからだ。
結婚もしているし、子どももいるし、そういうことを考えると安定して月に20万程度は欲しい。そう思うのはぼくだけじゃなくて嫁もだし、お互いの親もそうだ。じぶんの「自己実現」を優先して、小説や批評に本気を出したら、いろんなものをぼくは失ってしまうという怖さがある。
実生活においては、このようにあらゆる人称の欲望が渦巻いていて、他者を必要としない一人称的欲望は欲望のヒエラルキーのなかでも最下層にきてしまう。それゆえに、あたりまえだけと「じぶんらしく生きよう」とすればするほど、じぶんのなかでの正しさが揺らいだり、世の中に対して息苦しさを覚えたりするのだとおもう。ある意味、一人称的欲望を自覚してしまうことは最悪の不幸かもしれない。
だからいわゆる「自分らしく生きる」ことを実現しようとすることは、ものすごい強さが必要で、だからぼくはそう生きようとするひとをとても尊敬する。「ニンフォマニアック」のジョーのように既存の意味を剥ぎ取って生きようとすることは、「人間をやめる」くらいの強さが必要なんだとおもう。ぼくらが社会から離れて、ただの「モノ」になった先には、たぶん生活だけがあるともおもえる。どんな生き方を選ぼうとも、幸福か不幸かはその後についてくる。
最後一気にショボい話になってしまってスミマセン。
参考
(チェコ好き)さんのニンフォマニアックの考察は読んでいてとても勉強になりました。ユリイカの佐々木敦さんの論評、ぜひよんでみたいです。
獏さんのレビューであった「知恵の渇望はひとを滅ぼすのでしょうか?」ということばにも、考えさせられるものがありました。