NHKの新日本風土記から、地方でよく見る「風土記の丘公園」までよく聞く「風土記」とはいったいなにか。
大辞泉でひくと以下の通りだ。
1)地方別にその風土・文化その他について記した書物。
2)奈良時代の地誌。和銅6年(713)元明天皇の詔により、諸国の産物・地形・古伝説や地名の由来などを記して撰進させたもの。現存するのは、完本の出雲と、省略欠損のある常陸(ひたち)・播磨(はりま)・肥前・豊後(ぶんご)の5か国のもの。上代の地理・文化を知るうえで貴重。後世のものと区別するため、古風土記ともいわれる。
本書、三浦佑之『風土記の世界』(岩波新書)は後者の古代に地方で編纂された地誌「風土記」の歴史を読み解く。
「風土記」。その言葉にはどこか懐かしく、地方の穏やかな空気が感じられるという人が多いのではないだろうか。
ところが、本来の風土記は、そうした「地方」とは違い、国家集権的な政策の中で生まれたものだった。もちろんその内容は地方独自のものではあるが、それを引きだそうとしたのは中央の意向にほかならない。いわば、現代の政府が進める「地方創生」とかなり近い存在が風土記なのだ。
民主主義の現代の政治家は「地方創生」を通じて政権を支える「票」を狙い(の一つとし)、古代の政治家は「風土記」によって中央集権国家を推進しようとしたのだ。
なぜ、地方の風土や歴史、文化をまとめることが中央集権国家につながるのか、という疑問が浮かぶだろう。
それこそが本書が解き明かす、風土記を通じた古代国家作りの秘密である。
まず、古代の日本にとって、歴史とはなにかからブレーンストーミングする必要がある。
今、みなさんが持っている「教科書の歴史」「趣味の歴史」「教養の歴史」を一度捨て去ってほしい。
歴史は古代日本国憲法
奈良時代前、いわゆる飛鳥時代の日本は、中国(唐)と朝鮮(新羅)との戦いに敗れ、それらの属国となる危機にあった。これらから独立を維持するための国家こそが「律令国家」だった。
幕末に、西洋列強からの植民地になる危機から江戸幕府を倒し、西洋的な国造りをした明治の元勲たちと同じ考えを、飛鳥時代の政治家たちは持っていたわけだ。
幕末の「西洋化」とはすなわち「中国化」=律令国家だった。
そのために必要な制度を、中国から借り入れた。その制度とは、具体的には、法(権力)としての律令、根拠(幻想)としての史書、経済(生活)としての貨幣、中心(天皇)としての都であった。そして、それらの諸制度を統括する官僚機構ができ、漢字が横(役所と役所)と縦(都と地方)とを自在につなぎ、七つの道を通じて人と物が行き来する。
(略)
なぜ法と史は並列的に進められる必要があったのか。わたしは次のように考えている。
制度を作りそれに従わせるというのが、永続的な国家を統治する基盤である。そこでは、刑罰(律令の「律」)をともなう強制力をもった法(律令の「令」)が十全に機能しなければならない。しかし、刑罰だけを強化しても永続性は保証されないわけで、従属する者たち(国民)が、自分たちは国家に帰属し国家に守られているのだという幻想(信仰・敬愛・共感など)を抱くことができなければ、国家は守れない。そして、その幻想を強固にするために必要なのは、はじまりから今に至る国の歴史であった。それゆえに法と史は、国家を支える車の両輪として並列的に進むのである、と。(6頁より)
いわば、歴史とは、あえて言えば現代の憲法のように、国民全体が「自分は日本人だよね」と思う根拠となるものだった。 この流れで出来たのが、日本書紀そして風土記だった。 まずは日本全体の歴史である日本書紀を見ていこう。 実は「日本書紀」というのは正しくない。正式には「日本書 紀」なのだ。
手本とした中国において『漢書』以降の正史は、紀(本紀)・志・列伝(伝)の三部からなり、書名は国名(王朝名)を冠して「○○書」と呼ぶ紀伝式の形式が一般的である。
(略)
当初、史書の構想としては、紀・志・列伝の三部をもつ中国正史をお手本とした「日本書」がもくろまれていた。ところが、養老四年に成立したのは「紀(帝紀)」三〇巻と「系図」一巻であった。そして、その時奏上された書物に付されていた書名は「日本書 紀」であった(神田喜一郎)。つまり「日本書」という書名の下に、小さく「紀」と記し、あるいは「日本書」とは離して「紀巻第一(二、三・・・・・・)」と記してあったものが、転写をくり返すうちに「日本書紀」になってしまったというのが神田説であり、笑い話のようでありながら、総合的に判断するとたいそう説得力をもっている。
(略)
「紀」に続いて「志」や「列伝」が編纂されていればそういうことは生じなかったのだが、何らかの理由で「日本書」は「紀」だけで編纂が中断してしまった。
(9頁より)
当然、残りの「志」と「列伝」も作られようとしていたはずである。 列伝というのは、今でも通じるように人物伝のことだ。
中国の歴史書の場合は、列伝の対象は、皇帝以外の著名な人物となる。日本の場合、三浦氏が「列伝」の対象だったと考えているのが、あの浦島子、通称浦島太郎である。
日本書紀にも浦島子は登場しており、雄略天皇の時代にさらっと出てくる。
ところが、そのさらっと書かれた最後に「語(こと)は、別巻に在り」との言葉ある。 つまり詳細は別巻を見ろということだ。その別巻を三浦氏はいまはなき(もしくは完成しなかった)「日本書 伝」の中にある浦島子伝だったとするのだ。
本当は、皇帝以外が対象なので、ヤマトタケル(皇子)も列伝の対象となるのだが、帝紀のほうに盛り込まれてしまった。そこは当時の中国の歴史の深さとの差であろう。
また、例えば桃太郎も、日本書紀でも出てくる古代の英雄、吉備津彦あたりが元ネタとなった列伝があり、それがだんだんと形をかえて、吉備の桃太郎となったのかなどと想像すると楽しい。
日本書の三部作はなぜ完成しなかったのか
話を戻して、残る「志」とはなにか。 もう想像がついているだろうが、それこそが「風土記」だった。
正確にいえば、志は、国家が残しておくべき記録集であり、刑罰の記録、皇帝が行った祭祀の記録、天体の記録などが並ぶ。
その中に、地方に関する記録の「地理志」があり、これが風土記にあたる。
こうして、古代の日本は国家の精神的な柱となる中央と地方をあげた「歴史作り」に取り組むが、結果的に日本の官僚組織は、この3部を網羅した中国式の完全な「書」(歴史)をつくりあげることができなかった。
全国の60あまりの国(県に相当)の地方官僚たちは各地で古老にインタビューするなどして、風土記をまとめて、そのうちのいくつか(おそらく大部分だろう)は政府に報告した。
しかし、中央政府の官僚たちがそれらを「放置」して、まとめあげられることはなく、地方に写しをきちんと残しておいた国などのみに、残存することになったのであろう。
現在残っているのは、完全なものは出雲の国だけ。一部が残るのは4か国(常陸・播磨・豊後・肥前)だけだ。 では、なぜ中央政府はまとめあげることができなかったのだろう。
一言で言うと、「日本書 紀」と統一するのが非常に困難だったからであろう。
三浦氏は第3章で「倭武天皇はなぜ存在するか」の中で、公式には天皇にならずに死んだヤマトタケルが常陸国風土記では「天皇」だったと指摘する。
古事記や日本書紀のヤマトタケルの伝えでは、常陸国は通過点としてしか存在せず、ほとんど無視されている。それなのに、常陸国風土記では、一方的なかたちとして倭武天皇への熱い思いを寄せるのである。これはどう考えても、現存する中央の歴史とは別の歴史認識が存在したと考えるほかはない」
(88頁より)
出雲国風土記も、奈良盆地中心ではなく、当然のように日本海中心の世界観を展開する。
ほかの地域も(中央側からみると)好き勝手な地元の歴史を展開する。
60もの、お互いに「矛盾」する歴史がいっぺんに寄せられてしまった中央の官僚たちはおそらく、風土記の木簡が山と積まれた校倉式の倉庫の鍵をそっと封印してしまったのではないだろうか。
このように、風土記とは日本の国家作りで重要な意味を持ちながら、忘れられていった大切な歴史がつまっている。
古代史を考える上で本書『風土記の世界』は必読の一冊だ。
恵美嘉樹・文
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