こぐまです。
最近気づいた、というにはあまりにも遅すぎるような気がしないでもない感情について今日は文字にしてみようと思います。
誰かを「支えたい」と思うこと
私は精神を病んで、かれこれ5年ほど経ちます。
この5年ほどの間、何度も何度も同じループの中にいることに近頃ようやく気付きました。
ショックな出来事が起こるorへとへとに疲れる
↓
ゆっくり過ごして回復し始める
↓
誰かのためになることをしたいと考え始める
↓
自分には何もできない!と気づき落ち込む
↓
振り出しに戻る
このようなステップです。
これ、もう本当に何回も何回も繰り返してきました。
ループの期間は半年ほどの長いものから、2~3日という短い期間のときもあります。
ブログの過去記事でも私は何度か、「同じように苦しんでいる人の支えになりたい」と書いたことがありました。
けれどそれを書くたびに、心のどこかで「私なんかにそんなことができるのだろうか」という不安もありましたし、「そのようなことを言うのはおこがましいのではないだろうか」という不安な気持ちにもなっていました。
自立と、他者を支えるということ
私にとって、今一番考えるべき課題は「自立すること」です。
精神的にも、社会的にも、そして経済的にも自立することを何よりも優先すべきであるのです。
それを自覚しながらも私は、少し身体と心に元気が出てくると、身近な人を支えたいという欲望の芽が出てくることに気づきます。
ここ1~2年ぐらいは、「今の自分に、他人を支えるなんておこがましいことを考える権利などない」と、その欲望の芽をむしり取ってきました。
けれどそれはそれで傷つきますし、疲れるものなんですね。
自立は、たった1人きりで生きることではない
精神的、社会的自立というのは必ずしも1人で生きているということではないと、周囲の人たちに言われることがありました。
頼れる人のことはうまく頼って、その代わり誰かが困っていて、それを自分が助けられるなら助けてあげる。そんな好循環を起こすことが「自立」なのでは?ということです。
近頃ようやくそのことの意味が腑に落ちたした感じがしています。
うつを始めとした精神疾患の人はどうしても、ゼロか100か、白か黒か、みたいな両極端な思考ループに陥りがちなものです。
心が弱っているときは特に柔軟な思考ができず、このような極端な考えに至る場合が非常に多い(私もそうです)。
もうそんな状態のときは考えることをいったんストップして、また少し元気になって心の柔軟さが戻ってきたときに、冷静に受け止めてみることって大切だと思うのです。
・・話が脱線しちゃいましたね。
「支えたい」と思える人がいることの幸せ
家族、友人、会社や学校の仲間たち、恋人・・・きっと大切な人ってたくさんいると思うんです。
大切な人が疲れた顔をしていたら、お疲れ様って言ってあげたい。
それってすごく人間として幸せなことだと思うのです。
無理に、そんなあたたかい感情を殺す必要もないのではないでしょうか。
他者を苦しみから開放する、みたいな大それたことはなかなかできません。
けれど、あたたかい言葉をかけてあげることぐらいならできるかもしれません。
そして、そんなちょっとした一言で救われる人もいるのかもしれません。
そういう繰り返しで、自分の存在する意味を実感することだってあるんです。
1人きりで生きていたら味わうことのできない幸せを。
自己満足や依存じゃないかって恐れることも往々にしてありますが、そこまで考えすぎなくても良いのかなと思うのです。
少しくすぐったい気持ちになるけれど、それでもやっぱり私は周りの人たちにあたたかく接したいなあと今日も言葉を紡ぎます。